昔から都市伝説として語り継がれてきた徳川の埋蔵金伝説ですが、未だに発見には至っておらず埋蔵金の一部かと思われる像などが数個見つかっているだけとなっています。
また過去に3憶5千万円をかけてテレビの特番でも組まれた、大規模な発掘作業があったのにも関わらず成果は上げられていません。
では徳川埋蔵金はなぜ見つかっていないのでしょうか?
発掘作業も視聴率確保のため無駄に行ったわけではありませんので、疑問に感じている方も多いでしょう。
本記事ではそんな疑問をわかりやすく説明して解決していきます。
公開日:2019年11月7日 更新日:2020年3月15日
徳川埋蔵金とは
そもそも徳川の埋蔵金について理解していないと首をかしげる部分があると思いますのでざっくりと解説していきます。
徳川埋蔵金は1867年に江戸幕府が大政奉還時に、内密で地中へと埋めたとされる幕府再興のための軍資金のことです。
本来この軍資金は江戸城に保管されているものでしたが、明治新政府が調べにいったところ金蔵は空でありここから埋蔵金伝説の始まりとなりました。
しかし1867年からおよそ150年以上経過しているのにも関わらず、現在までに埋蔵金として発掘された品は少なく6~7個ほどしかありません。
(黄金像、理解できない文字が書かれた銅板、銅製の橙明皿など)
テレビで特番として組まれていた発掘作業でも手がかりとなるのは発見されていませんので、存在するとなるとほぼ当時と変わらぬ状態で埋まっているでしょう。
また、もしあるとすれば金額は現代のお金で換算すると500~3000憶円に登り、とてもロマンのある都市伝説となっています。
何故発見されないのか
では膨大な量の埋蔵金はなぜ見つけることができないでしょうか?
理由としては3つ挙げることができます。
場所が違う
第一に考えられる理由としては文献などの残されている場所とは全く違う場所に眠っているということです。
埋蔵金は最初「井伊直弼」により「群馬県赤城山麓」に埋蔵することが決められており、桜田門外の変で有村次左衛門の手によって井伊直弼が殺された後は「林鶴染」に引き継がれたとされています。
現在までに赤城山での発掘は幾度も行われており、時には金属などに反応するレーダーなども使用して発掘は続けられていましたが見つけることができていませんので場所が違うのはないかという見解もあります
埋められていなかった
ロマンを壊すようで申し訳ないですが、ここまで見つからないとなるとそもそも徳川の埋蔵金などは存在しないという理由も考えられます。
当時の幕府は財政難にあっていましたのでまとまった金額の資産を保有していたとは考えにくく、埋蔵金があるというデマが流れてしまい尾ひれが時代を超えて悪化していった可能性は大いにあるでしょう。
ですが様々な文献が存在するため存在自体を否定することは難しいのが事実です。
すでに発見されている
可能性は低いですがすでに何者かの手によって徳川の埋蔵金は発見されているパターンもありえます。
当時から赤城山では様々な人により発掘作業が行われていましたので、たまたま見つけた人が他の人にとられないようどこかに隠して保管してしまったかもしれません。
しかし突如金持ちになった家などの情報はありませんので、3つの中で可能性は一番低いでしょう。
今後は発見されるか
今後徳川埋蔵金が発見される可能性は0ではありませんが限りなく低いといえます。
すでにお金をかけた最新技術での発掘作業もされていますので、これ以上大掛かりな調査は行われにくいでしょう。
また見つかったとしても国に押収される可能性もあるため一攫千金の可能性は低いです。
もっともまだまだホットな都市伝説であるため、名乗りを上げる者たちがいるかもしれませんが…。
日本の各地に残る埋蔵金伝説
日本には古来から埋蔵金伝説が多く語られている国です。
そもそも、海外からも『黄金の国ジパング』と呼ばれていたほどであり、実際に金の採掘も盛んに行われていました。
例えば、豊臣秀吉などは多くの金を使っており、黄金の茶室を作ったことでも有名です。
当サイトでも数多くの埋蔵金伝説について触れていますので、気になる方は下記から記事をチェックしてみて下さい!