☆埋蔵金連載第2弾☆明智光秀の埋蔵金伝説

戦国時代から安土桃山時代にかけて、織田信長のもとで活躍した明智光秀は、歴史を大きく動かす本能寺の変を引き起こした人物としても知られていますね。

これは日本史上最大のクーデターと言われているのは有名な話です。

このように歴史的にも大きな役割を持つ明智光秀ですが、埋蔵金についての伝説がいくつか残されているので、今回は明智光秀の埋蔵金について紹介していきたいと思います。

死んでいなかった明智光秀

明智光秀は中国大返しにより戻ってきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)に山崎の戦で敗れ、落ちていく途中で小栗栖(現:京都府京都市伏見区小栗栖)において、落ち武者刈りで殺害、または致命傷を受け自害したといわれています。

しかし、この小栗栖での出来事では死なずに、生き延びて、南光坊天海という僧になったのではないかと言われているのです。

南光坊天海は、江戸時代初期に徳川家康の幕僚(司令部・本部、作戦等の企画立案をする)として活躍した僧と言われていて、不明な点が多々あることで有名です。

明智光秀の正体が南光坊天海と証明するように、徳川家康が眠る日光東照宮にある建物には、明智光秀の家紋がかたどられている場所があったり、「明智平」と呼ばれる区域があるのです。

とあるテレビ番組で、南光坊天海と明智光秀の筆跡鑑定を行った結果「本人か、それに近い人物」との結果が出たそうです。

明智光秀の埋蔵金「護法救民の宝」伝説

本

南光坊天海として財をなし「護法救民のために宝を埋めた」という言い伝えがあります。

明智光秀が書き残した「護法救民の書」には「護法救民の宝」のありかを示したとされる歌が書かれているのです。

「護法救民の宝」は財宝としては不思議な呼称ですが、光秀は仏法を信じており、人道的な人物であったことからこのような財宝の名前になったとされています。

「護法救民の書」に書かれていた歌とは

「身をも名も惜しまねばこそ松のみとりいろ濃き 弥生空くちなは頭の影をふむ岩戸苗のその下に こかね三百しろかね千貫」

とこのような歌を書き残しているのです。

この歌が南光坊天海(明智光秀)が護法救民のために埋めた宝のありかを示しているのではないかと言われているのです。

この歌に基づき調査してみると、埋蔵地と考えられる場所が4か所浮上しました。

  • 元明智光秀の支城だった亀山城跡
  • 京北町の菩提寺
  • 慈眼寺
  • 大津

安土城から近江の坂本城に金銀を運んでいたものの、山崎の戦で秀吉に打たれてしまい、その時に坂本城を守っていた光秀の重臣・明智秀光(あけちひでみつ)が、大津の近くにある琵琶湖へと運び、琵琶湖の湖底に沈めたと伝えられています。

まとめ

いかがだったでしょうか?

今回は明智光秀の埋蔵金についてまとめてみました。

残念ながら400年たった今でも明智光秀の埋蔵金は発見されていません。

琵琶湖を目にしたことがある方は少なくはないと思いますし、今度訪れる機会もあるかもしれません。

もし、琵琶湖に立ち寄った際は、この広大な湖のどこかに明智光秀の埋蔵金「護法救民の宝」が沈められていると考えてみてください。

なんだかわくわくしてくると思いますよ!