☆埋蔵金連載第7弾☆結城晴朝の埋蔵金伝説

結城晴朝の埋蔵金伝説は現在分かっているものの中で、最長の発掘探索の歴史を持つ埋蔵金伝説です。

この結城晴朝の埋蔵金伝説は大昔から存在する話なので、今回はこの結城晴朝埋蔵金伝説について詳しく迫っていきたいと思います。

結城晴朝とは?

結城晴朝(ゆうき はるとも)は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将です。

1534年(天分3年)811日に小山高朝の三男として誕生します。

天正18年の小田原攻めでは豊臣方につきます。

同年徳川家康の次男秀康を用紙に迎え家督を譲ります。

そして、81歳で死去しました。

結城晴朝の埋蔵金

結城家の初代である朝光は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした時に従軍し、手柄を立てることに成功し、平泉の黄金のほとんどを褒美として手に入れることになったのです。

しかし、その平泉の黄金は代々に伝えられ大切にされてきたが、17代目結城晴朝の時に、徳川家に狙われたため、現在の茨城県結城市から栃木県下野市あたりに広がっている旧結城領のどこかに埋蔵されたといわれています。

しかし、徳川家康をはじめとする、多くの将軍や大名が発掘をしたが見つかっていません。

色々な理由がありますが、今も発掘をする人は絶えないそうです。

結城氏にある結城晴朝が建てたとされる金光寺の山門には、謎の3種の和歌や絵が彫り込まれていて、この謎を解くと財宝のありかがわかるのではないかと考えられています。

結城晴朝の重臣が書き残した書物による、財宝の価値は以下の通りです。

重さ約8キロの金の延べ棒:約25,000本

重さ約7キロの金の延べ棒:約25,000本

30キロの砂金が入った樽が100個以上

ということなので、財宝の総重量は約380トンにもあります。

現在の価値に戻すと、約1兆2千5百億円弱~1兆8千5百億円程度と言われています。

残された手掛かり

 

上記でも説明した通り、金光寺には謎の3種の和歌や絵が彫り込んであるといわれていますね。

この謎が財宝のありかを示す一番の有力な手掛かりとされているのです。

和歌はこのような感じです。「きの苧 かふゆうもんに さくはなも みどりのこす 万代のたね

こふやうに ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すへの世までも

あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかはらぬ 花のかんばし」

この歌には、結城晴朝が財宝を現在の茨城県のどこかに埋めたとされる埋蔵金のありかを示すヒントが隠されているといわれているのです。

一番有力視されている場所は、結城城跡、会之田城跡、小山市の西の城、栃木県南河内の

晴朝の隠居所、その他の古井戸のどれかと言われています。

埋蔵金発掘に携わった人たち

石高の割には豊富な財産を持っていた結城晴朝ですが、結城晴朝の埋蔵金発掘に挑んだ人たちが、江戸時代にもいたそうです。

8代目「徳川吉宗」は、大岡越前に結城晴朝の埋蔵金を掘り出すように命じ、結城晴朝の隠居所があったとされる場所で発掘作業を開始しましたが、土砂崩れにより失敗に終わります。

幕末の老中「阿部正弘」も結城市小塙で埋蔵金の発掘を試みますが、これもまた発見できずに失敗に終わりました。

まとめ

あまり聞き覚えのない結城晴朝ですが、石高が低い割には多くの財産を保有していたことで有名です。

結城晴朝の埋蔵金には多くの都市伝説的な話が残されています。

その中で有名なものは、結城家の豊富な財産は幕末に幕臣(幕府に仕える者。旗本や御家人などの事)がやってきて江戸城に運び込まれていったといううわさが存在します。

もしかしたら、すでにもう発見されている可能性もあるかもしれませんね?