三国志の時代において、後漢の権威が大きく下がった原因の1つに黄巾の乱が挙げられます。
マンガやゲームなどで三国志に触れたことのある方は、ご存知だと思いますが、黄巾の乱とは張角(ちょうかく)という教祖による新興宗教団体の反乱でした。
ほとんどの三国志に関連する作品では、序盤にささっと討伐されてしまうので、いわゆる雑魚キャラ感が拭えない人物ではありますが、個人的には三国志を色々と見ていると
[char no=”1″ char=”オカルトマト”]あれ?張角って意外と凄かった?[/char]と考えることがたびたびあります。
もちろん、史実においても三国志演義においても、当時の官軍に鎮圧されたことには間違いないのですが、腐敗した政治を正そうとした動機にはそれなりの筋が通っており、曹操などの英雄と語られる人物にも間接的に関わっているのが黄巾党だったのです。
腐敗政治に民衆が立ち上がったキッカケを作った張角
画像引用元:張角
太平道という道教の教祖であった張角についての詳細に触れている文献などは少なく、三国志演義では魔術師のような扱いで登場する老人というイメージが非常に強いですが、当時の後漢は霊帝の時代であり、いわゆる十常侍や皇帝の外戚が権力を欲しいままにしており、一般庶民を省みるような政治はすでにおこなわれていたような形跡がありません。
その証拠に、曹操は兵士に対して屯田制を採用し、兵糧の確保に務めていましたし、諸葛亮孔明が最期を迎えた五丈原の戦いでも諸葛亮の指示によって付近が開墾され、兵糧対策をおこなっていました。
それほど、当時の食料事情は厳しいものであり、兵糧の確保や補給は戦争において最重要点とされていたことが見受けられます。
群雄割拠の時代にあって、そのような食料事情であったことから、後漢の腐敗政治はおそらく民衆の限界を超えるようなものだったと推測出来るでしょう。
そんな中、腐敗した朝廷は誤りだとして多くの信者と共に立ち上がった張角は皇甫嵩や何進、劉備や曹操も含めた官軍によって鎮圧されてしまいます。
しかし、張角が行動を起こしたことによって、諸侯の中には漢室にもはや正しい政治がなくなり、人民の心も離れていることを悟った人物も多いでしょう。
ある記録によると、張角は10年以上も布教活動を行なっており、少なくとも数十万人という民衆の蜂起のキッカケを作ったことが伺えるのです。
略奪や蛮行が行われたのも事実
黄巾党による反乱は、官軍によって鎮圧されますが、この背景には様々な理由が推測出来ます。
1つは当時の王朝であった後漢に対しての反乱であったことから、正当な鎮圧であったこと、そしてもう1つには各地に広がった黄巾党が信者以外の人民から略奪などの行為を行なっていたことが挙げられるでしょう。
三国志の時代には、漢中に張魯(ちょうろ)という五斗米道を説いた宗教による支配も実際にありましたが、張魯は生きており、張角は反乱の途中で亡くなってしまったという大きな違いがあります。
また、張角の出自は明らかになっていないことから、やはり宗教家ではあったものの、政治家としての引率能力はそこまで大きなものではなかったのかも知れません。
しかし、鎮圧に来た官軍に対しては大きく苦戦させている事実も残っており、黄巾の乱が鎮圧された後は、他の地域でも反乱を起こす人物が増えたことから、時代が大きく動くきっかけを作った人物であったと言えるかも知れません。
もしも、黄巾の乱が起こっていなかったら、各地の諸侯は腐敗政治に取って代わるだけで終わっていたかもしれないのです。
曹操の兵士として活躍した黄巾党
一般的に悪役のイメージが強い曹操ですが、実際には三国志の主役は曹操だったとも言われています。
もちろん、個人の解釈や見方によって意見が分かれるところではありますが、曹操は自身の兵力に青州の黄巾党を組み込んでいます。
黄巾党であった兵士に信仰の自由を認めた上で、その強力な武力を活かせるように導きました。
曹操軍に編成された青州の黄巾党は非常に強力な軍になり、魏の軍編成において中心的な存在となったとも言われているのです。
三国時代の始まりを担った黄巾党と張角
腐敗した後漢末期にあって、政治的な後ろ盾もなく挙兵し官軍に挑んだ張角の率いた黄巾党は、多かれ少なかれその後の時代に影響を与えています。
こういった事実を考えると、あながちただの宗教家でもなかったのではないのかなと感じてしまうのは僕だけでしょうか?