『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』という古文書を知っていますか?
東北の和田喜八郎という人の家に保管されていた古文書です。古代から近代に至るまでの東北の知られざる歴史が記されており、『和田家文書』とも呼ばれます。
邪馬台国の王である長髄彦(ナガスネヒコ)は、初代天皇である神武天皇に敗北。ナガスネヒコは東北に亡命し、アラハバキ族を結成して大和朝廷と戦争をしていた……などなど、信じがたいもののロマンのある伝説の数々。
1983年に出版された『東日流外三郡誌』は、歴史学界や考古学界に大きな話題を呼び、今では「戦後最大の偽書事件」として知られています。
『東日流外三郡誌』の内容は? 本当に偽書だったのか? わかりやすく解説します。
『東日流外三郡誌』とは?内容をわかりやすく紹介
『東日流外三郡誌』の内容は、基本的には正史に残されていない古代の津軽王国の歴史。以下、時系列順に簡単に紹介します。
①今から5万年前、中国大陸から「アソベ族」が津軽に漂着。彼らは岩木山のふもとで平和な生活を営んだ。
②その後、5000年前に中国から今度は「ツボケ族」がやってくる。アソベ族とツボケ族は最初は争ったがやがて和解。巨石を用いた縄文文化を形成する(現在も遺跡が残されている「亀ヶ岡文化」のこと)
③弥生時代になると日本は動乱の時代を迎える。畿内(奈良)にあった邪馬台国と、九州からやってきた神武天皇軍(日向軍)が対立し、神武軍が勝利。こうして奈良に大和朝廷が開かれ、神武天皇は初代天皇となる。
邪馬台国の王「長髄彦(ナガスネヒコ)」とその兄「安日彦(アビヒコ)」は東北へ逃れた。
(日本神話では、ナガスネヒコは大和に元々いた豪族で、神武天皇たちに滅ぼされたと書いてある)
④ナガスネヒコたちはアソベ族とツボケ族を制圧し、「東日流(つがる)王国」を樹立。先住民たちとともに「荒羽吐(アラハバキ)族」を結成する。
アラハバキ族は東北から関東までを支配。日本は西の大和朝廷と東のアラハバキ族に分かれて戦争を続けたが……最終的にアラハバキ族が敗北。
⑤前九年の役で有名な安倍貞任をはじめとする安倍氏はナガスネヒコの血を継ぐアラハバキの王族で、平安時代後期からふたたび力を強めた。十三漢と平泉は、中国大陸との貿易を基盤に、大和朝廷にも負けぬ文化国家に成長。
安倍氏の従兄弟関係にあった安東氏は、有名な安東水軍として日本海を駆け巡り、津軽の繁栄はアジア全域に広まった。黄金の国ジパングとは、津軽の古名「チパンル」に由来するという。
ちなみに藤原泰衡に攻められ、岩手県の平泉で自害したとされている源義経は、安東水軍の援助で十三湊からモンゴルに渡ったという。
⑥そのようにして中世には栄華をきわめた津軽だったが、1341年に大津波に襲われ、一夜にして壊滅。東北の文明は波と土砂に消え去った。
こうしてアラハバキ族の歴史は正史からは消えたものの、彼らがまつった神「アラハバキ」は、現在も東日本を中心に多くの神社でまつられている。
(アラハバキは東日本で多くまつられていながら、正体やルーツが不明な神として知られている)
『東日流外三郡誌』は偽書?本物?
『東日流外三郡誌』のように、歴史学界や神話学界では認められていない、正史とは異なる歴史を伝える古文書を、「古史古伝(こしこでん)」と呼びます。
前回紹介した『竹内文書』や『ホツマツタヱ』などが有名ですが、以前オカルトオンラインでも紹介した預言書『日月神示』なども古史古伝に含まれることがあります。
『東日流外三郡誌』は青森県の和田喜八郎という人が、1949年に自宅の天井裏から発見した古文書です。和田家の祖先は津軽の神官で、安東氏の末えいである三春藩城主「秋田千季」の命令によって、失われた安東氏の資料を収集し、1822年に『東日流外三郡誌』を完成させました。その写本が和田家に受け継がれていたというのです。
ムー大陸やUFOが登場し、はじめからトンデモ奇書としての扱いを受けていた『竹内文書』とは違い、『東日流外三郡誌』は日本の歴史学界や考古学界に大きな影響を与えました。著名な古代史研究家であった古田武彦氏も最後まで真書だと信じていましたし、公共機関の資料として用いられたこともあり、アラハバキをまつっている神社の中には今でも、ナガスネヒコや東日流王国のことを書いているところも多いほどです。
そのように真偽論争を巻き起こしたものの、『東日流外三郡誌』は今ではほぼ確実に偽書であることが確定しており、「戦後最大の偽書事件」と呼ばれています。
『東日流外三郡誌』が偽書である理由
ではここから、『東日流外三郡誌』が偽書であるとされた理由をいくつか紹介します。
- 祖先の写本とされているはずの古文書の筆跡が、発見者である和田喜八郎のものと一致している
- 共著者として、江戸時代に実在した人物「菅江真澄」の名が挙げられているが、菅江真澄の日記のどこにも「和田家」や「東日流外三郡誌」のワードは出てこない
- 和田家には『東日流外三郡誌』の原書があるとされていたが、和田喜八郎の死後の調査では、建物内のどこからも原本は見つからず、それどころか紙を古紙に偽装する薬剤として使われたと思われる液体(尿を長期間保管したもの)が発見された
……などの理由から、現在では『東日流外三郡誌』は偽書(ねつ造)であることが確実視されています。
『東日流外三郡誌』には事実も含まれている?
ただし、『東日流外三郡誌』が古文書ではない偽書だといえど、『東日流外三郡誌』に書かれた内容のすべてが和田喜八郎の創作だと決めるのは早計です。前回の『竹内文書』の信憑性についての記事を読んだ方はわかっていると思います。
事実、『東日流外三郡誌』の内容がすべてフィクションだとすると、それはそれで不可解で、つじつまが合わない点がいくつか見つかるのです。つまり、中には「事実」が含まれている可能性があるのです。
次回は、すべて創作とは言い切れない『東日流外三郡誌』の信憑性について解説します。古田武彦氏をはじめとする何人もの歴史家や古代史家が信じてしまったのもうなずけると思います。興味をもった方はぜひご覧ください。