前回、三国時代において非常に大きな戦いであった「赤壁の戦い」には、逸話や戦略そのものに、いくつかの説があることを紹介してきました。
三国志そのものをあまり知らない人でも、赤壁の戦いだけは切り取って映画化されたこともあり、その存在を知っている方は多いかも知れません。
映画「レッドクリフ」で描かれた赤壁の戦いは、主に三国志演義の逸話をベースにしており、大喬や小喬を曹操が欲しがったというエピソードまで盛り込まれて、エンターテイメントとしては非常に完成度の高いものでした。
また、一般的な三国志演義においても「赤壁の戦い」は物語の中でもっとも盛り上がる戦いであるとも言われています。
しかし、史実における赤壁の戦いには、多くの謎が残されているものまた事実なのです。
今回は、赤壁の戦いの勝敗を決した、劉備・孫権の連合軍がおこなったとされる火計について、いくつかの説を紹介していこうと思います。
赤壁の戦いで使われた「火計」は誰が提案したのか?
当時、圧倒的な軍事力を誇った曹操が、劉備・孫権の連合軍に負けた主な原因と言われているのが、火計による被害です。
この戦いは、元々は荊州を巡る争いから発展したものでしたが、曹操に降伏した劉琮(りゅうそう)はそのまま水軍として曹操軍に編入されたと見られており、荊州水軍に加えて、曹操自身も船団を率いていたというのが一般的な解釈になっています。
実は、三国志本文ではなく、別に史料となり得る書には、曹操に船はなかったとも書かれているのですが、本家の三国志には曹操の船が燃えた記述が多いことから、水軍による侵攻があったことはおそらく確実でしょう。
問題は、これらの船団を相手に、火計によって壊滅的な打撃を与えたのは誰であったのか?というところです。
実は、火計を使用したとされる逸話にも、いくつかの説が残っているのです。
劉備軍が主導した説
これは、魏書武帝紀(曹操伝)の外伝のような扱いとされている『山陽公載記』という書に残された記述の1つです。
魏書武帝紀では、曹操が赤壁に到着し、劉備と相対した頃には、多くの疫病などによって形勢が不利となり撤退したことが記述されていますが、山陽公載記には劉備が曹操の船に火を付けたという記述が残っているのです。
また、軍船を燃やしただけではなく、その後も火計を使ったものの最終的には曹操に逃げられたというのが、劉備軍が主導的に火計を使った説となっています。
呉の黄蓋(こうがい)が献策した説
三国志演義でも取り上げられる、苦肉の計で有名な呉の黄蓋は、投降と偽って先陣を切った勇敢な姿が描かれています。
実は、正史の三国志である呉書周瑜伝では、火計を献策したのは黄蓋自身であったことが記述されています。
周瑜伝に語られている赤壁の戦いの大まかな流れでは、火計を使用する前に、疫病に弱っていた曹操軍を劉備軍と孫権軍が挟撃し、一度先に敗走させており、その後、黄蓋の献策した火計と偽計によって曹操軍の船を燃やすことに成功したようです。
火計によって広がった炎は陸地の陣地まで及んだことから、さらに陸地でも追撃された曹操軍は劉備・孫権の連合軍に敗退することになったのです。
東南の風はどこから来たのか?
赤壁の戦いで火計を成功させるためには、東南の風が成功の鍵を握っていたとも言われていますが、そもそも「東南の風」はどこから来たのか?ということをご存知でしょうか?
実は赤壁の戦いでの「東南の風」について記述があるのは、江表伝と呼ばれる西晋の学者が編纂したとされる呉の歴史書の一部に、火計を仕掛けた際に、時折東南の風が激しく吹いたというような記述が残っているだけだそうです。
この歴史書は、完全な成立年代もハッキリとしていませんが、三国志に注を足した裴松之(はいしょうし)が一定の評価をしていることから、後世の三国志演義が成立した際に、ドラマティックな演出の1つとして創作された可能性が高いとも考えられています。
いくつかの史料に記されている赤壁の戦いにおける火計は、おそらくですが、黄蓋が献策したというのが、史実に一番近い形なのではないかなと思います。
つまり
東南の風の逸話は別として、黄蓋が火計と偽計を献策したことによって周瑜がこれを採用し、曹操軍の船団は大きな打撃を受けた
というのが、史実に一番近い、赤壁の戦いの真実なのかも知れません。
そういった意味では、三国志演義の赤壁の戦いで劉備・孫権の連合軍が使用した戦略そのものは、細かい点を省けば史実に近い形で表現されている可能性も高いですね。