「は、働きたくないでござる。。」
秦が中国を統一してまもなく、国中が反乱と混沌にあった中で、後に高祖劉邦に仕え、最強の将軍と恐れられた韓信。
若い頃から、貧乏・宿無し・品格なしという生活を送っていたため、他人の家に居候をしてご飯を食べさせてもらっていた、という逸話が残っています。。
現代のニートよりも厚かましい上に、力が強く多くの人に馬鹿にされ続けた韓信でしたが、実は冷静な一面も持っており非常に優れた人物でした。
今回はキングダムが終わった次の時代、項羽と劉邦が覇権を争った頃に大活躍した韓信とその悲劇について紹介していきます。
最低のニートから最強の将軍になった韓信
画像引用元:韓信
秦による中国の統一が終わって約10数年、労役などで疲弊しきった庶民達は反乱を起こし、始皇帝が亡くなった頃には中国最低の宦官、趙高によって国内は混乱の一途を辿ります。
そんな中、反秦国を掲げた「陳勝・呉広の乱(ちんしょう、ごこうのらん)」と呼ばれる決定的な反乱が起こったことによって、急速に秦の力は削られるのですが、その時代において台頭してきたのが、庶民的な女好きで酒飲みの劉邦と、秦の中華統一に最後まで抵抗した項燕将軍の孫であった項羽でした。
余談ですが、楚の項燕は史書によると李信を破った将軍とされています。
つまり、キングダムの主人公である信を返り討ちにした大将軍です。
韓信は若い頃に町中で若者に馬鹿にされ、その若者の股をくぐったことによって「韓信の股くぐり」というエピソードも残しています。
もう1つ余談ですが、映画「酔拳」のジャッキー・チェンが最初に股をくぐったのもおそらくこういったエピソードにまつわる風習なのかもしれません。
当時の韓信は身長も高くガッシリとした体型だったそうですが、若者の言葉に従って無駄な剣を抜かなかったようです。
そんな韓信も反乱に乗じて郎中になり、最初は項羽の陣営に身を置きます。
しかし、項羽自身があまりにも強すぎたため、韓信の進言が用いられる事はなく、そのまま秦国は項羽と劉邦の2人によって完全に滅亡させられます。
立身出世の機会を得られなかった韓信は、秦が滅亡した後に、項羽にビビって西に追いやられていた劉邦の陣営へ向かうことになるのです。
項羽にビビって平身低頭になる劉邦
実は、王朝こそ成立していなかったものの、項羽と劉邦が秦を滅亡させたことによって、一時的に実質の覇権を項羽が握ることになった時代もあったのです。
項羽は秦を滅ぼした後、各将軍に地位と土地を与えましたが、この少し前に劉邦に出し抜かれており、これに対して項羽は大激怒します。
と、言うのも、項羽と劉邦に秦の討伐を命じたのは当時の楚王でしたが、先に秦の首都であった咸陽に入った人物を王とするという約束をしていたからです。
そして、当時の楚王に深く関係していた項羽の叔父、項梁(こうりょう)が反乱軍の指導的立場にあったのですが、この叔父の項梁は秦で唯一その武力を保持していた章邯(しょうかん)という秦の将軍に殺されていました。
その後、紆余曲折がありつつ秦の要であった章邯軍は項羽が率いた軍が討伐したという手柄があったのです。
しかし、劉邦は大きな戦いをすることもなく漢中から咸陽に先に入ってしまったため、激戦(という名の殺戮行軍)をくぐり抜けた項羽は後手を踏むことになります。
ここで一時的に緊張状態になった2人でしたが、この段階ではまだ項羽には絶対に勝てないと分かっていた劉邦が折れ、和睦を結ぶことになります。
とは言え、項羽も自身の主君である楚王との約束があった手前、劉邦に何も与えない訳にはいきません。
そこで、項羽は劉邦を西の蜀の地に送って漢中の王とし、自らは西楚の覇王を名乗ります。
韓信、処刑されかける
話を韓信に戻します。
西の蜀の地に送られた劉邦の所へ身を寄せたスーパーニートの韓信でしたが、ここでも最初は全く重用されることはありませんでした。
すでに秦は滅亡し、かつての上司である項羽はやりたい放題、その項羽にビビって降伏した劉邦も自分を見なかったことに流石のニートも腹を立てたのでしょうか。
劉邦に仕えていた韓信は罪を犯して処刑されかけるのです。
「漢王は天下に大業を成すことを望まれないのか。どうして壮士を殺すような真似をするのだ」
引用元:韓信
処刑の寸前、劉邦の旗揚げから仕えていた重臣である夏侯嬰(かこうえい)という人物に、この言葉をかけたことによって面白い男だと興味を引くことに成功し、処刑から逃れてなんとか兵士として取り立てられることになります。
しかし、、ここでも劉邦は韓信に対してほとんど興味を示さず、韓信の苛立ちはMAXに。
せっかくニートから働き始めたのに、自分を認めてもらえない韓信は、劉邦の軍事面や教育を補佐した蕭何(しょうか)と何度も会っては自分の才能をプレゼンし続けます。
蕭何は劉邦が本当に何者でもない頃からの付き合いであり、さらに言えば、元々は劉邦よりも偉い役人の立場にあった人物です。
また劉邦が天下を取った中でも韓信、張良と並んで、三傑に数えられる偉人でした。
劉邦の人柄を見抜いたように、韓信の才能を見抜いた蕭何は、直々に劉邦に対して韓信を推薦します。
にも、関わらず劉邦はこれにも耳を持たず、ついには韓信は蜀の地から脱走してしまうのです。
国士無双の語源
当時、蜀を含む西の地域は辺境の地であったため、すでに劉邦の元からは多くの兵士などが脱走をしている状態にありました。
韓信もこれに乗じて脱走をしてしまうものの、慌てて蕭何によって引き止められます。
蕭何の中で、すでに韓信への信頼が非常に高かったのでしょう。
今度推挙しても劉邦が受け入れないようであれば、自身も蜀漢を捨てるとまで言い切り、ようやく韓信を連れ戻すことに成功します。
しかし、帰ってきた蕭何と韓信は劉邦に問い詰められます。(どこまでも暗愚な劉邦・・・)
多くの脱走兵がいたことから、劉邦は蕭何も逃げたものだと思い「どうして逃げようとしたのか」と詰問したのです。
そこで蕭何は、自分は脱走したのではなく、韓信を連れ戻したことを説明し、「韓信は国士無双の才を持っており、他の将軍達とは比べ物にもならない。中央に出て天下を争うには必要不可欠な人材である」と劉邦に最後の説得をします。
これが国士無双の語源となった蕭何による韓信の推挙に残されている逸話ですが、ここからの劉邦の決断が、さらに韓信の成り上がりを加速させるのです。
一兵士から大将軍へ異例の抜擢
これまで、数々の推挙を無視していた劉邦でしたが、蕭何の説得に応じたのち、後方支援の一兵卒であった韓信をいきなり大将軍の地位へと格上げするのです。
どこまでもピーキーな劉邦の采配ですが、これによって韓信はスーパーニート、フリーター、見習いを経て、一気に取締役執行部に抜擢されます。
大将軍の地位はそうそう簡単になれるものではありません。
なにしろ、この当時の大将軍は全軍の指揮権を持つ、おそろしく重要かつ位の高い地位であったからです。
これまで、郎中などで戦場の経験はあったと韓信と言えども、普通は手に負えないほどの重圧です。
しかし。
韓信は普通ではなかったんですね。
これが国士無双と呼ばれた男か、というくらい献策、進軍、そのすべてにおいて天才的な能力を際限無く発揮していきます。
- 項羽は強いが、その強さは弱めやすいものである(婦人の仁、匹夫の勇:実態の伴わない女のやさしさ、取るに足らない男の勇気)。劉邦は項羽の逆を行えば天下を手に入れられる。
- 特に処遇についてかなり不公平であり、不満が溜まっている。進出する機会は必ず訪れる。
- 兵士たちは故郷に帰りたがっており、この気持ちは大きな力になる。
- 関中の三秦の王は20万の兵士を見殺しにした将軍たちであり、人心は離れている。その逆に劉邦は、以前咸陽で略奪を行わなかったなどの理由で人気があるため、関中はたやすく落ちる。
引用元:韓信
項羽の強さを分析した上で、さらに他の状況を分析した韓信はこれらの献策をして劉邦達と共に関中攻略に乗り出します。
この頃、韓信が分析していた通り、反項羽の機運が高まっていたことから、劉邦の軍勢は56万にも及ぶ巨大な勢力となり、一時的に北方に遠征していた項羽の本拠地まで進軍します。
が、、
56万もの軍を率いていた劉邦は、引き返してきた、たった3万の項羽軍に破られてしまい、一時的に撤退を余儀なくされます。
一旦体制を立て直した劉邦は、韓信と軍を2つに分け、劉邦が項羽を引きつけている間に、韓信が各地の要所を落としていくという作戦を実行します。
ここでも韓信は怒涛の勢いを見せ、全く敗北しないまま連戦連勝を重ねてゆき、70以上の城や砦を落として、ついには王になってしまったのです。
当時、南方から反時計回りに中国を進軍した韓信は斉の国まで平定しますが、まだ劉邦は項羽相手に苦戦をしていました。
あまりにも強かった韓信は斉の王になることを劉邦に望み、大軍を率いていた韓信を相手に劉邦はこれを認めざるを得なかったのです。
しかし、これが韓信にとっての悲劇の始まりとも言える出来事になってしまいます。
劉邦への恩義を貫いた韓信
斉の国で正式に王と認められた韓信は一気に一大勢力となりました。その規模は三国志で言えば魏、呉、蜀のいずれかに該当するほどの規模だったのです。
流石に大きくなりすぎた韓信には項羽も焦りを感じます。
そんなさなか、ある時項羽の使者が韓信の元へ派遣され進言を受けます。
その内容は「劉邦は一度項羽に頭を下げておきながら、再度攻めるような卑怯な人物であるから仕えるべき主君ではない。漢(劉邦)とは袂を分かち、西楚(項羽)と協力しないか?」といったもの。
しかし、韓信には苦い経験がありました。
そう。挙兵仕立ての頃、献策を一切用いてくれなかった項羽に対してある意味での怨みを持っていたのです。
逆に劉邦は中々重用されなかったものの、一兵卒に過ぎなかった自分を大将軍に引き上げてくれたという事実から恩義を感じていました。
使者の申し出はすぐに断った韓信でしたが、自分の部下であった人物からも、斉という要所を抑えた今、漢と楚の争いに韓信自身が独立すべきだという進言をします。
この進言は蒯通(かいてつ)という弁士が行なったものでしたが、韓信には後に戒めの言葉になってしまうのです。
ただ、この段階では形だけでもいわゆる天下三分の計を実行する決意が出来ず、あくまでも劉邦の配下として活動することを選んだのです。
だまし討ちの劉邦
一方で、劉邦と項羽は長い間の戦いによって一度休戦協定を結び、お互いに故郷に帰ろうという話が持ち上がります。
しかし、劉邦はこれを一方的に破棄した上で、撤退していた楚軍と項羽を襲うのです。なんという欺き方。。
当然、韓信にも加勢するように使者が来ますが、最初に韓信はこの要請を無視しています。
その後、王の地位を改めて保証するという確認をされ、ようやく韓信の30万の軍が動き出し、項羽と劉邦の長きにわたる決戦は劉邦の勝利によって終わるのです。
再び、中国を統一した劉邦は、元は楚の人であった韓信を故郷の王にし、韓信もこれを素直に受け取ります。
強すぎた韓信の悲劇とは?最後まで劉邦に振り回された大将軍
漢に属して大将軍となり、一時は三大勢力の1つにまで成り上がった韓信でしたが、皇帝となった劉邦は結構な愚行を繰り返していきます。
その中の1つとして挙げられるのが、韓信を疑ってしまったことでした。
そもそも劉邦が項羽に勝てたのは、いわゆる三傑の活躍があってこそでしたが、皇帝となった劉邦は疑心暗鬼に囚われてしまいます。
自分の勢力で独立しようと思えば出来た韓信がそれをしなかったにも関わらず、楚の将軍を匿ったという理由や、韓信の大将軍の地位に不満を持った臣下の詭弁によって「韓信に謀反の疑いがある」という思い込みを始めます。
元々人徳や人柄で皇帝となった劉邦から、それらの気持ちが欠けてはもはやただの人です。
韓信は年月が過ぎ去ると共に冷遇され続け、兵としての権限も取り上げられた韓信にはもはや劉邦に対する忠義は残っていませんでした。
韓信が匿った楚の将軍は鍾離眜(しょうりばつ)という項羽の元配下であり、韓信が疑われた際には自害して韓信を諌めていました。
あまりの冷遇が続いた韓信はついに謀反を計画し、韓信を尊敬していた陳豨(ちんき)という劉邦の信頼も厚かった人物と共謀して反乱を画策します。
この計画では、先に陳豨が反乱を起こし、その隙を狙って長安を奪取するというものでしたが、皮肉にも韓信を取り立てた蕭何の策によって韓信の謀反は発覚し、そのまま一族郎党処刑されてしまいます。
数奇な運命によってニートから大将軍、そして複数の国を跨る王となり、それでも尚、劉邦への忠義を持っていた韓信でしたが、劉邦の心変わりによって韓信もまたその心を裏切られ、最後には主君である劉邦や取り立ててくれた蕭何を相手に謀反を起こそうとして死んでしまうのです。
ちなみに、劉邦当人は当初は韓信の死を悲しみましたが、死に際の言葉が「蒯通(かいてつ)の言う通りにすべきだった」という内容であったことを知って大激怒したそうです。