1917年、ポルトガルのファティマという小さな街で起こった、後にロザリオの聖母と呼ばれる聖母マリアによって3人の牧童であったカトリック教徒の子どもたちに3つの予言を与えた。
これら一連の奇跡は「ファティマの奇跡」もしくは「ファティマの予言」と呼ばれており、ローマ教皇庁のカトリック協会においても、正式にマリアの降臨として認められたこの出来事には実はまだ解明されていない秘密があるといわれている。
特に”ファティマ第三の予言に関する真相”については現在でも数多くの議論を生んでおり、未だに一部のカトリック教徒や一部の陰謀論者の中では度々取り上げられることがある。
そこで、今回はこれらファティマの予言にまつわる隠された陰謀論について、いくつかの説を紹介していこうと思う。
予言を受けたルシアの影響力を恐れた?カトリック教会の謎
ファティマの予言を受けたのは、当時10歳にも満たなかった少女2人と少年が1人。
このうち兄妹であったジャシンタとフランシスは、聖母マリアが予言の中で話した内容の通り若くしてその人生を祈りと贖罪に捧げて亡くなっている。
唯一、生き残ってこれらの出来事を広めてきたのは、ルシア・ドス・サントスという少女だけであった。
予言とマリア降臨の噂を聞きつけた多くのカトリック信者や聴衆は、マリアがファティマに現れる度に増えており、小さな田舎街には数万人もの観衆が集まる事態になったことは以前の記事で紹介した事実である。
問題はその後にある。
ルシアは一連の騒動のあと、ドロテアの修道会に入り、その生涯をシスターとして過ごして生きていったのである。
しかし、彼女の人生は普通のシスターとは大きく違っていた。何しろ、ルシアはカトリック教会が正式に認めた奇跡の当事者である。
ルシアがシスターとなった後に受けた羨望と嫉妬
ファティマの奇跡はヨーロッパの全土に伝わるほど、大きく報じられたことによって、ルシアは修道女としてはもちろん、一人のカトリック教徒として大きく注目されることになったといわれており、その影響力は非常に大きかったとされている。
ファティマの予言を直接受け取ったとされる当事者として、多くのシスターから羨望や嫉妬の目を向けられたという。
現代でもアンチがいるということはそれだけファンも多いというような言い方をすることもあるが、良くも悪くも当時のカトリック教会においてルシアは注目の的になってしまったのである。
これらのの影響を、ローマ教皇庁やカトリック教会そのものが危惧したと指摘しているのが、カナダ人の神父であったグルーナー・セイドなどである。
キリスト教のカトリック教会においてのローマ教皇は過去の歴史から見ても絶対的な権力を持っていることが伺える。
例えば西暦1077年、神聖ローマ皇帝であったハインリヒ4世は、当時のローマ教皇であるグレゴリウス7世から破門にされている。
皇帝よりも権力を持っていたのがローマ教皇であった。
ローマ教皇庁によって言論封殺が行われた?
1948年、ルシアが41歳の時に、ローマ教皇ピオ12世の特別許可を契機にそれまでのドロテア会からポルトガルのコインブラを経緯して、カルメル会のサンタテレサ修道院に移ることになった。
カルメル会はかなり厳格なルールが敷かれている修道院であり、社会や外部との接触を極端に制限する傾向にあったのである。
この接触の範囲には肉親なども含まれており、非常に近しい存在であっても「ルシアに直接会う、話す」という行為は難しくなっていったという。
実際に1950年代初頭にはイエズス会のアパリコ神父という人物は、まだルシアとの面会は出来たようであるが、一度ブラジルへ渡り10年後の1960年にポルトガルへ帰って来たアパリコ神父は、既にルシアと接触することが出来なかったという。
「わたしはシスター・ルシアに遭う事は出来ませんでした。なぜなら大司教が許可を与える事はもはや出来なかったからです。彼女は沈黙と孤独の誓いの内に身を置くように聖座から課せられていました。その結果、ローマからの正式な許可無しには、誰も彼女と話す事はできなくなっていたのです」
引用元:ルシア・ドス・サントス
これが何を意味するのか?
一部の関係者が指摘していたように、ルシアの影響力を恐れたローマ教皇庁やカトリック教会が、彼女と外部の接触を意図的に遮断した可能性があるのだ。ちなみに当時のローマ教皇はヨハネ23世であった。
本物のルシアは偽物とすり替えられていた?
もう1つこの時期に噂となったのが、ルシア本人と偽物の入れ替え説であった。
もはやルシアを表に出しておけないと判断した結果、ルシアの偽物を本物の代わりに修道院に置いていたという説がある。
これらの比較写真はインターネット上に多くあるので、以下に一部引用させて頂く。
上記画像はルシアの写真として残されているものだが、まず、第一に歯の並びが大きく違っていることが指摘されている。
ちなみに、中央上段の写真はルシアが60歳の頃の写真であると言われている。この写真を見る限り、到底60歳の女性には見えない。
また、顎や鼻の違いについても指摘されており、これらが発展して本物のルシアは1950年~1960年頃に暗殺されてるという噂まであるのである。
暗殺されていたという説については、後年のルシアの証言が食い違っていることが起因している。
ファティマ第三の予言についての公開をロザリオの聖母マリアから1960年にと厳命されていたルシアは、後年のインタビューで以下の様に主張を変えている。
以下、1992年のインタビューから抜粋
- 聖母と天主(神)が今でも第三の予言を公開することを望んでいるか?との問いに、「それらは教皇様と教会の指導者に委ねられている」という返答
- 聖母が1960年に第三の予言を公開するように命じたことに対しての問いには「聖母は一度もそんなことは言っていない」と断言している
さらに2000年のインタビューにおいて、第三の予言に関する封書に開封を1960年以降と定めたのはマリアの意思によるものであったか?という質問には以下の様に答えた。
「いいえ、マリアではありません。わたしが決めました。なぜかといえば、わたしの直観で、一九六〇以前には理解されない、そのあとになれば分かってもらえると思ったからです。今では、とてもよく理解することができます。わたしは、見たことを書いたまでです。解釈するのはわたしではなく、教皇様です」
という衝撃的な返答をしているのである。
自分の直感で開封期限を決めたと言い切ってしまっのだ。
この2000年のインタビューにおける発言は、およそ信心深かった幼いルシアの像とは大きくかけ離れた回答であると言わざるを得ない。
ファティマの奇跡において先に亡くなったジャシンタの信心深さを見れば分かる通り、少なくとも少女であったルシアは1950年代までは先になくなった2人への祈りと贖罪を続けていたと考えられる。
しかし、1960年という外界からどんどんと隔絶されていく中で、明らかに性質の違う信仰心になっていると感じるのである。
興味深いことに1957年にルシアと会ったというアウグスティン・フェンテス神父は、ルシア本人から「1960年になる前に、世界中が祈りを捧げて悔い改めなければ全人類が不幸になります」という言葉を聞いていたという噂もある。そしてこのフェンテス神父は1959年に、シスター・ルシアの発言を嘘であるという事を手紙で公表し、聖職者の身を追われている。およそ1年の間に何が起こったのであろうか?
謎に包まれたルシアの生涯
一般的にはファティマの奇跡に携わった人物の中では最も長命であり、97歳で亡くなったとされるルシアではあるが、これらの真相は未だに解明されていない。
2005年にはルシアとされる人物も亡くなっており、当時の事実を知る人間はほとんど残っていないのである。
もちろん、これらの噂が全て真実だと安易に語ることは出来ないが、ファティマの予言という奇跡の傍らで、こういった説も唱えられているのである。
参考
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