古代中国史を紹介していく中で数多くの残酷な行為や鬼畜なエピソードを紹介してきましたが、それらの殆どは「戦争」「統治」という名目の下で行われたものです。

しかし、今回紹介する范雎(はんしょ)という人物は少し違います。

些細な勘違いがキッカケになり、暴行を受け、監禁され、人間として扱われなかった経験をした身でありながら、昭襄王(政の父)時代の秦国の宰相にまで出世を果たした人物でした。

そして、同時に秦国の外交戦略を昭襄王に進言し、以前紹介した大将軍の白起を誅殺した人物でもあります。

それでは、范雎が受けた鬼畜過ぎる暴行監禁事件から紹介していきましょう。

残虐にも程がある。范雎の受けた暴行・監禁の逸話

范雎という人物は、元々は魏の国に生まれであり、魏の大夫に仕えていたのです。

史記「范雎・蔡沢列伝」の中で語られているものでは、生まれが貧乏だった為、とにかく遊説をして士官した苦労人でした。

ようやく魏の須賈(しゅか)という人物の元に仕えることが出来た范雎は、ある時、斉の国への使者として同行し、当時の斉の王であった襄王(じょうおう)という人物と面会します。

この頃、すでに范雎の政治家、知恵者としての才能は一国の王が認めるほどであり、范雎の弁舌に多いに関心した斉の王は、使者には不相応な褒美を与えようとしました。

古代中国の戦国時代、他国の使者という身分で褒美などを受け取るということは、自国に対しての謀反を疑われても仕方のない時代であったことから、范雎はこの申し出を断ります。

しかし、この褒美の話を聞いた范雎の上司であった須賈(しゅか)が疑念を覚え、魏に戻った際に、魏の宰相であった魏斉に報告します。

この疑念とは「范雎が褒美を贈られそうになったのは魏の秘密を斉の王に話したからだろう」というものでした。

当然、そんな事実はなかったのですが、これに激怒した魏斉は范雎を徹底的に暴行します。

竹の板を使って数え切れないほど范雎を殴り倒し、鞭打ちの刑にしたのです。

命の危機を悟った范雎は自ら死んだフリをして助かろうとしますが、肋骨が折れ、歯も折れるほど殴られた范雎は、さらにスマキにされた上で当時の厠(トイレ)の中に投げ込まれ、放置されたのです。

しかもその状態で助けを求める范雎に対して、裏切り者のレッテルを貼った同志は小便をかけてあざ笑い、立ち去っていく有様だったといいます。

通常、この頃の罪人の多くは処刑されるか追放されるかでしたが、范雎はもはや人間として扱われていません。想像するだけでも恐ろしい現実です。

しかし、こんな状態の范雎は諦めず、門番を買収して脱出し、友人の力を借りて秦国の使者に紛れて西へと向かったのでした。

秦へ向かった范雎のその後

秦の国から魏へ来ていた人物は王稽(おうけい)という人物であり、范雎に偽名を与えて、その才能を認めて自国へと連れ帰りました。

王稽は范雎の才能を認めており、昭襄王に推挙したものの、昭襄王はあまり興味を示さず、范雎は昭襄王に会えないまま秦国で1年が過ぎようとしていました。

流石にこのままでは駄目だと考えた范雎は「とにかく自分を試してほしい。使えなければ打首にしてくれても構わない」という意向を昭襄王に伝えた所、ようやく范雎は面会することが出来ました。

この時に范雎が昭襄王に語った外交戦略が「遠交近攻策」と呼ばれるものでした。

范雎が説いた政治方針は文字通り、近くの国には戦争をし、遠くの国には外交戦略を持ってあたるという内容です。

当時、斉の国は大きな力を持っており、秦国の近くにあった魏・韓は敵対関係にありました。

まず、この魏と韓を確実に侵略することによって楚や斉といった大きな国へ圧力をかけていくという方針は、白起将軍などによって実行され、秦国の力を付ける基礎となりました。

その後、昭襄王の信頼を勝ち取った范雎は、自分を密告した須賈(しゅか)への復讐にも成功しますが、最終的な生死については歴史家の間で意見が分かれています。

1つは白起将軍を誅殺した後に推挙した人物が趙へ裏切ったことにより、同罪として処刑されたという説と、もう1つはこの罪は不問となったという説です。

いずれにせよ、范雎が秦国へ来たことにより、中国を史上初めて統一する強力な国の礎を築いたと言われています。

まさに死の淵から這い上がった古代中国の偉大な人物でありました。

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