前回の記事は以下よりご覧下さい。

謎の渡来人である秦氏の一族は一体どこから日本へやってきたのか?

 

今回はこちらの謎に迫って行こうと思います。

公開日:2019年11月4日 更新日:2020年3月8日

秦氏はどこから日本へ渡ったのか?

元は海外から日本へと数多くの文化と文明を持ち込み、後に日本人としての勢力も築いたとされる秦氏一族ですが、その渡来した方法については数多くの説があります。

さらに日本に来る以前の秦氏としてのルーツに関しても非常に不明な点が多いのです。

日本としての国内史記である「古事記」には百済国(当時の朝鮮半島)から第15代応神天皇の時代に渡来した民族であるとされていますが、そこからさらに遡ると様々な説にたどり着きます。

彼らが何処から現れて、日本という国へたどり着いたかという論争は数多くありますが、いずれもそれを裏付けられる史実的な根拠を見つけるのは難しいと言います。

秦氏渡来のある説では紀元前3世紀前後までさかのぼり、出身地方に関しては遠くは失われたイスラエルの民だという説なども存在します。

ここでは秦氏が渡来したルーツについて、いくつかの説を紹介していこうと思います。

渡来人秦氏は始皇帝の配下だった?

 

秦氏の出自を調べるとおそらく目にする機会の多い説の1つですが

「秦氏とは中国、秦の始皇帝の配下だった徐福であった」というものです。

出典は中国の歴史書である「史記」になります。

中華史上初の統一をなしとげた秦の始皇帝である政は晩年になると不老不死の薬を探すために、配下の者を東方へと送ったことが史記には記述されています。その配下の人物は「徐福」と言い、彼は東方、すなわち日本へと渡ったあとにそのまま留まり、後裔達がその後、秦の国の名前を取って秦氏と名乗ったというわけです。

ただし、この史記もまた複雑なものであり「淮南衝山列伝」と呼ばれる文章の中では、徐福は3000人の男女を連れて東方に渡り、そのまま帰らず王となったとされていますが、 「秦始皇帝本紀」 では不老不死の薬を餌にして始皇帝から援助を受けたものの、実際には船を出さなかった詐欺師のように書かれているのです。

紀元前200~300年頃の出来事であったことと記されていますが、日本という国が明らかにあったことを示すのは紀元180年代頃である三国時代、いわゆる三国志の魏志倭人伝です。

徐福伝説というものは各地に伝承されていますが、紀元前200年といえば日本の天皇家は第6代孝安天皇や第7代孝霊天皇になります。

しかも、この2人の天皇は寿命が120年以上あったことなども記録されています。

その後の第15代応神天皇ですら実在が不確かなことを鑑みると、伝承としては面白い説ではあるものの、徐福が「王」になったという考えは少しむずかしいかと思われます。

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秦氏本系帳による系譜上の渡来時期

秦氏の系譜を記した「秦氏本系帳」という史料によると、秦氏が日本へ渡来したのは第14代仲哀天皇が在位していた期間に渡来した功満王(こうまんおう)という人物が秦氏の祖であるということが書かれています。

この説については記述があるのみで中々詳しい裏付けが少なく立証するのが難しい説ではあるかもしれません。

古事記には初代天皇である天武天皇などの記述もありますが、いわゆる神話からそのまま人へと移行していることを考えると、系譜や名前だけでは不明確な点が多くあります。

くわえて、古事記には第15代応神天皇の時期に渡来した人々であると記載されているにも関わらず、王であったという記述は特にないようです。

日本書紀による秦氏渡来の記述

不思議なことに同じ日本の文献でありながら、古事記には第15代応神天皇の時代に渡来したとされる秦氏は、正史である日本書紀には第15代応神天皇の時代に渡来した「 弓月君 」(ゆづきのきみ)が祖であるという記述がされています。

君(きみ)という呼び名は当時は王を表す言葉であったことから、先に述べた功満王とは名前が違うものの、立場、時期が同じであることが伺えます。

こういったすり合わせを行うと、古代史というのは面白いもので、同時期に書かれてる史料に記載された内容が違っていたり、違う史料同士に噛み合う点なども見えてくるものです。

日本書紀の秦氏渡来の記述によって、神話語りである古事記とは違い、一気に系譜で語られている渡来した時期に信憑性が増えてきませんか?

新撰姓氏録による古代氏族名鑑から見る秦氏の渡来

平安時代に編纂されたとされる氏族名鑑にも秦氏の姿を追うことが出来ます。

この「新撰姓氏録」という史料は非常に興味深いです。

なんと日本書紀と同じ年代、同じ王である弓月君が「融通王」という名で記されており、127県の民を引き連れて渡来したのが秦氏の祖であることや、この秦氏という一族は始皇帝の末裔だという記述もあるそうです。

つまり、大きく残されている情報をまとめると・・・

・秦氏は中国、あるいは朝鮮半島を含めた大陸から渡来したことはほぼ間違いないこと。

・渡来時期はいくつかの共通点を見る限り、西暦400年前後であること。

・秦氏の元々の身分は、少なくとも大量に人を動かせる立場であったこと。

こういった情報には少なからず共通点があると言っても良いのではないでしょうか。

史料が編纂された年代に見る秦氏

国外の歴史書である中国の史記を除き、日本書紀、古事記、 秦氏本系帳、そして新撰姓氏録において語られている内容をまとめると、

およそ紀元400年頃に中国本土を経て朝鮮半島から大勢の人が日本へ渡来し、その一族は秦氏と呼ばれていました。渡来した人物の中、少なくとも1人は王と呼ばれており、沢山の人の上に立つような存在として同じ大陸から多くの人を連れて来ました。・・・といったような感じでしょうか。

古事記や日本書紀が編纂されたのは約700年頃ですが、ここからいわゆる平安時代に編纂された 新撰姓氏録においても”今の秦氏一族は過去に朝鮮半島から来た人達の子孫である”ということを示していると考えても大きな間違いはなさそうです。

弓月君はツクヨミのモデルとなった人物説

秦氏の渡来とは少し論点が違うのですが、秦氏を追うことによって古事記という日本の神話の書物にもその名前があることや後述する”表舞台にあまり出てこなかった人物”という共通点から

弓月君はツクヨミのモデルではないか?という説もあるので紹介しておこうと思います。

日本の古事記の神話には、アマテラスとスサノオ、そしてツクヨミという三貴神と呼ばれる神が登場します。

さて、この3柱の神々はイザナギが生んだ中でも、もっとも気高いとされたことから、それぞれが世界を見るようにと指示される訳です。

アマテラスは高天原という神々の国、スサノオは暴れん坊だったために地上、高天原、そして黄泉の国でも登場しますが、ツクヨミに限っては非常に簡単な紹介のみとなっているそうです。

(ツクヨミは黄泉の国です)

3柱のバランスを古代の日本として考えると、

  • アマテラス=天皇家(日本の中心となるべき統治者)
  • スサノオ=豪族(後に力を持つ中臣鎌足や藤原家など)
  • ツクヨミ=(表には出てこない影の実力者)

こういった構図に考えることも出来ます。

古事記という歴史書は史書である側面とともに”天皇家の歴史を初代から伝えている”ものであり、編纂を指示したのも天皇家です。

このことから、当時の政治的な背景を考えると中心的な存在はあくまでも天皇家でありながら、豪族が力をつけ始めていたことや、ツクヨミというある意味では異民族であった秦氏の一族の相関図に非常に近いものを感じないでしょうか?

編纂にあたって優先されるべきは天皇家と在来人種である”当時の日本人”であったものの、ツクヨミという存在がもたらした文化や影響力が大きかったことから、名前を無視出来ないほどの勢力を持っていたとも取れるかもしれません。

これはあくまでも仮説ですが、

次の章では「どうして秦氏の一族があまり表には出てこないのか」といったところに踏み込んでみたいと思います。