第二次世界大戦の火蓋を切ったナチス・ドイツによる1931年9月のポーランド侵攻から約14年後の1945年4月、ヒトラーの自殺によって事実上ナチス・ドイツは敗戦。
その翌月である5月にはドイツは降伏し当時のソ連やアメリカ及び連合国に対して敗戦後の処理を委ねることになる。
ナチスの高官であった兵士達も我先にと外国への逃亡を試みたが、逃亡中や逃亡先で死亡したり多数の戦犯確実となった幹部は自殺やニュルンベルク裁判において死刑を言い渡された。
しかし、実はこの一連の戦後処理の裏でアメリカが密かにおこなっていた、とある作戦がある。
その内容は当時、世界一を誇った科学技術や頭脳を持った優秀な科学者達をドイツ本国からアメリカへと連行することであった。
公開日:2019年10月15日 更新日:2020年2月2日
通称:ペーパークリップ作戦または計画
後の冷戦を見れば分かる通り、アメリカとソ連は協力関係にはあったものの東西による技術や経済においての競争関係にあった。
そこでアメリカは「太平洋戦争の終結に必要だ」という名目を挙げて、まずはロケット技師や技術者などをアメリカへと連行しようとしていた。
しかし、表向きの事情とは別にソ連へとドイツの科学技術を渡さないという目的も同時にあったとされている。
その中には後に東西の宇宙開発競争でアメリカでのロケット開発において、初期の最重要指導者と呼ばれたヴェルナー・フォン・ブラウン博士もいた。
フォン・ブラウン博士は元々はドイツのV2ロケット開発などに関わっていた人物でありいわば兵器開発の第一人者であった。
しかし、多数の科学者や医師、幹部が裁判などで死刑などを言い渡される中、フォン・ブラウン博士を始めとした天才科学者の一部はアメリカによって保護されているのである。
オーバーキャスト作戦
アメリカによる科学者の保護は当初のロケット開発だけにとどまらなかった。
当時のドイツ最大の天才の1人である理論物理学者のヴェルナー・ハイゼンベルクは1932年、アメリカとはまだ戦争関係になかったドイツにおいて31歳という若さでノーベル物理学賞を与えられた人物である。
画像引用元:ヴェルナー・ハイゼンベルク
彼は戦時中はドイツ国内において核エネルギーの研究=核兵器開発にも携わっていたが、アメリカから誰よりも求められた人物の1人でもある。
アメリカへ渡ったあともその頭脳を遺憾なく発揮し、 マックス・プランク物理学研究所の所長を約24年間務めた。
これらの作戦において、世界中で忌み嫌われていたドイツの技術をいかに戦勝国が欲しがったかということがよく分かる。
そしてこの科学者達の中には、当然ながら神経ガスや航空医学といった人体実験によってその知識を得た人物も含まれているというから驚きである。
世界最先端技術を誇ったナチス・ドイツ
第二次世界大戦の時代、ナチス・ドイツは明らかに世界で一番の科学力を持っていたことは、数々の研究資料などによって裏付けられている。
現在の最新兵器の原型になった多くの兵器はドイツ製であり、特にロケット技術や航空機においては並ぶ技術力がなかったと言われている。
戦争によってドイツの技術力を目にした連合国側は、これらの技術を継承している。
戦後、しばらくして宇宙開発を巡った冷戦が勃発したことも、ある意味でナチスの科学力が引き継がれているという背景があったと言っても間違いではない。