三国志における英雄の1人、江東の小覇王と呼ばれた孫策は呉の国の礎を築いた勇猛な武将であったと言われています。

しかし、結論から先に言ってしまうと魏、呉、蜀の三国鼎立の頃、既に孫策はこの世を去っていました。

孫呉の礎を築きながら、動乱の時代の中で若くして最後を遂げた英雄が孫策だったのです。

今回は若くしてこの世を去ってしまった孫策の死因と最後について紹介していこうと思います。

小覇王と呼ばれた孫策 伯符

画像引用元:孫策

曹操や劉備はほぼ一代でそれぞれの国の土台を築いた人物ですが、呉の歴史は孫策、孫権の父であった孫堅の時代から始まります。

曹操が反董卓連合で敗戦した時、中々動かなかった諸侯の中で董卓軍と交戦していたのが孫策の父である孫堅でした。

当時、力を持っていたのは反董卓連合の盟主であった袁紹と袁術であり、元々孫堅は袁術の勢力に与していましたが、董卓との戦いの後、襄陽の戦いで孫堅は単独でいたところを殺害されます。

この時、まだ19歳であった孫策は父の後を継いで袁術の配下に入ります。

袁術軍の1人として動き始めた孫策でしたが、最初に父であった孫堅の軍を引き継ぎ、約1000人ほどの軍勢を得ます。この時に孫堅に仕えていた後の呉の名将や知将と呼ばれる人物も孫策の元に帰ってきたのです。その後、叔父の呉景の援軍に向かうという名目で袁術の元を離れた孫策は各地を転戦して5000人以上の軍を率いるようになっていきます。

その勢いと強さから孫策とその軍は、徐々に主君であった袁術に恐れられる存在になっていきました。

江東の転戦において孫策は呉の地盤となる江東地域を平定していくと同時に袁術との関係も考慮していましたが、197年に袁術が皇帝を名乗ったことを孫策が諌めるも、袁術はこれを無視。

この出来事がキッカケとなり、後の呉の地盤となる江東の多くを平定していた孫策は完全に独立を宣言し、袁術とも敵対関係になります。

また、袁術が皇帝を名乗ったことによって朝廷は袁術を逆賊とみなし、これに対抗する勢力となった孫策は大義名分を得ることも出来ました。

孫策が袁術から約1000人の軍勢を得たのは195年、江東一帯を平定したのは199年だと言われており、僅か4年の間で呉の地盤を築いたことから、まさに小覇王の呼び名に相応しい躍進を果たしています。

また、三国志演義でも有名な周瑜との関係は史実であり、孫策と周瑜は10代の頃から交友関係にありました。

実際に、孫策が独立を宣言したタイミングで周瑜自身は袁術の元にいましたが、すぐに孫策の元へ駆けつけています。

曹操とも遠縁関係にあった孫策

袁術は皇帝を名乗ったことにより漢の逆賊となったことで199年に死亡、強大な軍事力の多くは孫策と曹操にも吸収されていきました。

すでに江東の大部分を平定していた孫策は各地にその名が知られていたことから、曹操は自分の姪を孫策の弟に嫁がせており、事実上の親類関係を築いています。

当時の政略結婚は慣習であったことを考えても、曹操が確固たる地位を築いたとされるのは、200年の官渡の戦い以降です(最大のライバルであった袁紹を破った戦い)

この曹操による孫策への政治的方針は官渡の戦い以前のものであったため、如何に孫策の地盤が強固なものになっていたのかを想像させてくれます。

孫策の死因とその最後とは?

さて、ここまで大きな勢力となっていた孫策はどうして若くして亡くなってしまったのでしょうか。

実は、先に紹介した曹操と袁紹による官渡の戦いの際に、孫策は曹操の本拠地であった許都侵攻を考えていたという説があります(諸説はあり)

また、呂布討伐で名前を挙げていた陳登(長江一帯で支持されていた将軍)の親類を江東平定において倒していたことから、陳登とは敵対関係にありました。

曹操が直接的に孫策の死因になった訳ではありませんが、孫策は曹操の動きを見て、陳登、もしくは曹操を攻めようとしていたと言われています。

いずれにせよ、孫策は長江を単騎で出歩いていたところを少なくとも3人によって狙われ、その傷が原因となって26歳の若さで亡くなったのです。

三国志に記述されている内容では、陳登が働きかけた江東侵攻の際に残った残党の仕業によって襲われたという説もあります。

10年にも満たない活躍ではあったものの、その後の三国鼎立において呉に地盤となった江東の殆どは、若き孫策によって平定されていたのでした。

歴史にもしもは禁句ですが、孫策が長命であれば、曹操と同等の勢力にまで登りつめていたかも知れません。

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