以前、「ナチス総統ヒトラーによるユダヤ迫害の思想と謎」という記事でも取り上げたが、ヒトラーの青年期や少年期にはユダヤ人との交流があり、その後のヒトラーの「差別思想への変化」については、現在でも多くの議論がなされている。

これらのヒトラーに関する研究の中には「青年時代に芸術家への道で挫折を味わったことからの個人的な復讐である」というものもあれば「何者かの指令によって当時の資産家であったユダヤ人を追い込んだ」という都市伝説的なものまで。

今回はこの思想の変化に関する不可思議な点に関して、実に現実味のあるものを紹介していこうと思う。

この話をするにあたって、まずは「地政学」というあまり聞き馴染みのない言葉から解説しよう。

地政学という字面だけを見るとピンと来ない人も多いだろうが、簡単に言えば「白人主義による植民地化政策を学問的にしたもの」である。

イギリスの帝国主義者であったサー・ハルフォード・マッキンダーという人物が第一次世界大戦の時代に植民地化を正当なものにするために「地政学」という名前を付けたと言われているが、現在の倫理観で言えば単なる差別主義の正当化である。

さて、問題はこの「地政学」を学んだ人間が1920年頃に当時のヒトラーの近くにいた事実である。

その人物の名前はカール・ハウスホーファー。

第一次世界大戦で多大な功績を上げてドイツ帝国では将軍の地位まで上がり、戦後はミュンヘン大学で教鞭を取っていた。専攻は軍事学であり特に「地政学」に非常に精通していた人物であった。

ハウス・ホーファーは地政学研究所をミュンヘン大学に作り、また地政学に関する専門雑誌を発行していたという。

一言で言ってしまえば、徹底的な差別主義者である。

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ドイツの地政学者「カール・ハウスホーファー」とヒトラーの出会い

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC#%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%87%BA%E4%BC%9A%E3%81%84

※画像左側の人物がハウス・ホーファーであり、画像右側は後のナチスドイツNo2であるルドルフ・ヘスである※

ヒトラーとハウス・ホーファーの出会いはミュンヘン一揆によってヒトラーが収監されていた1921年、ハウス・ホーファーがミュンヘン大学で教授をしていた頃の教え子であったルドルフ・ヘスを通じて獄中のヒトラーと面会している。

この時、ヒトラーに対して熱心に「地政学」を語ったと言われている。

ヒトラーはこのハウス・ホーファーに多大な影響を得たとも言われており、それがナチ党としての政策に取り入れられることもあったという。

しかし、本当に恐ろしいのはこのハウス・ホーファー自身もまた神秘学者という側面を持っていたことであった。

ヒトラーの政治顧問となったハウス・ホーファーの思想

ハウス・ホーファーはまずヒトラーに対してチベットの地下にあると言われていた幻のアガルタ帝国こそが現在のゲルマン民族の出身地であることを説いた。ヒトラーが戦時中にチベットなどへ兵士を派遣していたことは知られているが、これはハウス・ホーファーによって教えられた地下帝国の痕跡を探していた為とも言われている。

当時のドイツでは第一次世界大戦での敗戦によってドイツ帝国は解体され、凄まじい金融恐慌の状態にあった。これは現在にも言えるが、金融の裏にはユダヤ人の影があり、ホーファーはドイツがユダヤ人によって支配されていることを強く主張し続けたのだった。

ホーファーとヒトラーが対面したのは獄中であったが、激しくユダヤ人達を批判したことで一気に有名になったヒトラーの著書である「我が闘争」はこの収監されていた間に書かれたものである。そして、ホーファーの主張を代弁するかのように純血アーリア人による民族統一とユダヤ人を避難した。そもそも、この「我が闘争」の共同著作者はヒトラーとハウス・ホーファーであったのである。

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ユダヤ人迫害と政治的介入

前述したヒトラーとホーファーの出会いや「我が闘争」の内容を考慮すると、ヒトラーが強迫観念とも言えるほどユダヤ人迫害に至ったのには「地政学」という名前の差別主義が原因の1つであったと考えられはしないだろうか?

さらに、ホーファーは1920年代のヒトラーの政治顧問となった。ヒトラーに対しては獄中の頃より生存圏の拡大を強く説いており、これに同調したヒトラーはナチ党の政策として「軍事的な拡張政策が必要である」ことを取り入れて、後に実行することになる。

ちなみに、ホーファーは当時の日本とも関わりがあり1934年~1937年までの間に日本の駐独大使であった大島浩との面会をして日独同盟にも関わっている。

しかし、こういった人間は得てして幸せな結末を迎えることはない。

カール・ハウスホーファーの最期

1930年代には事実上政治的にも立場的にもナチス政権の幹部であったが、教え子であったナチスNo2であるルドルフ・ヘスの奇行などによってヒトラーとは少しずつ疎遠になったとされている。

また、ホーファーの息子は終戦近くにあった「ヒトラー暗殺計画」に加担していた事が発覚し1945年に処刑された。

そしてホーファー自身はその地政学の性質から連合国軍には重要な戦争犯罪人であることを指摘されていると共に「ヒトラーの悪魔的天才」であったとも言われている(ようするにヒトラーに対してそれだけの影響力を与えた危険人物だとみなされていた)

しかし、終戦時には高齢かつ持病があったため、ニュルンベルク裁判では裁かれず、1946年、ヒ素での自殺未遂を経て最期は割腹自殺でこの世を去った。

ユダヤ人の迫害の影

こうした現在でも資料として残されている部分だけでも、カール・ハウスホーファーがナチスドイツ、ひいてはヒトラー自身に与えた影響は大きいとされている。それは戦後の連合国軍の判断を見ても明らかである。

では、カール・ハウスホーファーは何故チベットの地下帝国がゲルマン民族の発祥の地だと主張していたのか?

ここには更に深い闇の部分である、チベットのグルジェフというオカルティストが関係してくる。

グルジェフについてはまた別の機会に紹介しようと思うが、少なくとも論理的な思考や科学的な根拠だけではなく、ナチスドイツやヒトラーにはオカルトの思想があったことをここでは伝えておきたい。

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