無事にシャルル7世との対面を果たし、その後の異端審問でもジャンヌ・ダルクを本物の神の声を聞いた少女だと判断したシャルル7世とアルマニャック派の貴族達は運命の戦場となるオルレアンへ彼女を送り出すことを決断します。

シャルル7世の拠点であったシノンではジャンヌ・ダルクが戦場に向かうための装備が整えられ、後にジャンヌ・ダルクのシンボルにもなる聖人が2人とイエス・マリアを刺繍の入った三角旗も作られました。

オルレアンに出陣するジャンヌ・ダルクが持っていた剣についても逸話が残っています。

王太子シャルルはジャンヌ・ダルクのために新しい剣を新調しようとしましたが、ジャンヌはこれを断り、神の声で示された聖カトリーヌを祭る礼拝堂(サント・カトリーヌ・ド・フィエルボア)に1本の剣があると言いました。

派遣された使者が探したところ、実際に1本の剣(後にフィエルボアの剣と呼ばれる)が見つかったことから、ジャンヌはこの剣を持って戦場へと向かったとされています。

絶体絶命のオルレアン包囲戦

ジャンヌ・ダルクがシャルル7世との謁見をしたり、その後出陣を認められるまでの間にイングランドの軍勢はオルレアンの北部を制圧していました。

イングランドがオルレアンを攻撃する際に指揮をとっていたのは、当時のイングランドでも屈指の将軍と呼ばれたソルズベリー伯という人物であり、非常に戦闘に優れた人物であったこともフランスにとっては脅威であったようです。

1415年にオルレアン公のシャルル(シャルル7世とは別人)は既にイングランドの捕虜となっており、領主のいなくなったオルレアンにはその異母兄弟であったデュノワ伯ジャンが守備にあたっていましたが、聡明な軍人であったソルズベリー将軍はオルレアンの周囲の都市から徐々に包囲をすすめており、最終的にはオルレアンの周囲は全てイングランド軍によって包囲されています。(ただし、ソルズベリー将軍はオルレアン包囲戦の途中で戦死しています)

ほとんどの補給路を絶たれたオルレアン市内は孤立した状態となり、デュノワ公ジャンは王太子であるシャルル7世に援軍の要請をしています。

この援軍要請は1429年の出来事だとされており、オルレアンが最初に侵攻を受けてから約15年の間は、デュノワ公ジャンによって死守されていました。

オルレアンで約15年耐えたデュノワ公ジャンもまたオルレアン私生児ジャンの異名を取る名将軍だったのです。

援軍要請をされたシャルル7世陣営は決断を迫られました。

オルレアンを解放させるべく進軍するのか?それともブルゴーニュ派との和解を優先するかという重要な判断です。

この判断を決したのがジャンヌ・ダルクという少女の登場であり、ジャンヌ・ダルクを含む援軍の出陣でもありました。

オルレアンにはジャンヌ・ダルクの噂が既に広まっていた?

一説によると、当時のフランスには少なくとも6名ほどの予言者と呼ばれる人が存在しており、ロレーヌ地方や南からフランスを救う救世主が現れるという予言をしていたそうです。

この予言はジャンヌ・ダルクがシャルル7世と出会う以前から存在していたらしく、オルレアンにもその情報と噂が広まっていた可能性が指摘されています。

また、ジャンヌ・ダルクという農村の少女が王太子に認められたというの経緯にも、こういった予言などが後押ししていた側面もあったとも言われています。

もちろん、こういった予言があったとしてもジャンヌ・ダルクが起こした奇跡的な行動やオルレアン解放、以降の戦果は、本人の才覚を無視出来ない問題です。

ジャンヌ・ダルクと戦友ジル・ドレの出会い

画像引用元:ジル・ドレ

オルレアン解放のために援軍として駆けつけたジャンヌ・ダルクが後のパテーの戦いなどでも共闘する戦友ジル・ドレと会ったのもこのオルレアン包囲戦でした。

このジル・ドレも一時は英雄であり、その後は悲劇的な最期を遂げてしまうのですが、オルレアン解放戦でのジャンヌ・ダルクを見て陶酔したと言われるほど協力的な戦友の1人です。

ジル・ドレは自身の祖父がシャルル7世の義理の母であったヨランダ(ジャンヌ・ダルクに好意的だったとされる人物)と協力関係にあったため、軍人になった後にアルマニャック派の派閥として活動します。パテーの戦いでも多大な功績を上げたことで「救国の英雄」とまで呼ばれた人物でしたが、ジャンヌ・ダルクが居なくなってからは一気に狂気に目覚めるという数奇な運命をたどります。

ジル・ドレはこのジャンヌ・ダルクを取り巻く戦友の中でも最もオカルティックな人生を送った人物でもありますので、別途詳しく紹介します。

ジャンヌ・ダルクのオルレアン到着

話の流れをオルレアン解放戦に戻します。

絶体絶命の状態であったオルレアンではジャンヌ・ダルクの噂は広がっていたものの、デュノワ公ジャンが援軍要請を出した1429年の3月頃にはフランスの守備隊は少しずつオルレアンから離れていっていました。

そして1429年の4月29日にようやくジャンヌ・ダルク達の援軍がオルレアンに到着します。

ジャンヌ・ダルク自身は「声」によってオルレアンを早期に解放しなければいけないという使命感が非常に強かったため、すぐに包囲しているイングランド軍との戦闘を望んでいました。

しかし、デュノワ公ジャンがこれをたしなめ、「先にオルレアン市民へ行き渡っていない物資を届けることが優先」だとした上で、オルレアンの東側にある川で物資補給を優先させます。

この状況下でオルレアンの中に物資を補給する方法は、市内から流れているロワール川を使った方法しかなく、風向きの問題で当日の補給は難しいと考えられていました。

ここでもジャンヌ・ダルクはある種の奇跡を起こします。

オルレアンからの船が難しいと思われていた風向きはジャンヌ・ダルクが荷置き場に到着した瞬間に逆風となり、無事に補給に成功したそうです。

これは単なる偶然の一致の可能性も高いですが、デュノワ公ジャンはこの光景を見てジャンヌ・ダルクを信じるようになったとも語っていたそうです。

4月29日にオルレアンに到着したジャンヌ・ダルクを含む援軍とフランス軍は援軍到着、補給物資を確保した上で、オルレアンが包囲されている現状に対して打開策を練る作戦会議を繰り返します。

この作戦会議の結論が中々出なかったため、ジャンヌは苛立ちを募らせていました。「声」に従えない状況に歯がゆさを覚えていたのでしょう。

しかし、援軍到着から約1週間後の5月4日、ついに事態が動きます。

ジャンヌ・ダルク最大の功績:オルレアン解放戦

小競り合いが起こっていたオルレアンの東側でフランス軍が形勢不利な状況になり、撤退をしながらイングランド軍の追撃から退却していました。周囲を強固な城壁で囲まれていたオルレアンは籠城作戦が主な戦術として採用されていたのですが、この退却するフランス軍に気が付きすぐに合流。ジャンヌは自ら先頭に立ってすぐさま反撃をする命令を出します。

イングランド軍がオルレアンを包囲してから長い時間が経っていたこともあり、退却するものだと思っていたイングランド軍は不意打ちされた形になり、拠点の1つとしていた築いたサン・ルー砦まで退却を余儀なくされます。ジャンヌ・ダルクが率いた追撃命令からあっという間にフランス軍は攻勢に転じ、なんとその日の内にサン・ルー砦を落としてしまうのです。

ここからのフランス軍の猛攻は現在でも語り継がれる逆転劇になります。

その中心を担ったのがオルレアン解放を「神の声」によって指示されたジャンヌ・ダルクだったのです。

翌日、5月5日は当時のキリスト昇天の日であった事から、ジャンヌは戦闘をせず、代わりにイングランド軍に撤退勧告をする手紙を書かせます。この日は戦闘は起こらず、作戦会議で攻勢に出ることが決定されます。

フランス軍の目的はオルレアン包囲網の要所となっていたレ・トゥーレルと呼ばれる砦の奪還でした。このレ・トゥーレルを奪還するためには、2つの小さな砦も落とさなければなりませんでしたが、5月6日、最初の砦に向かったフランス軍が見たものは、4日の攻勢で砦を捨てていたイングランド軍でした。

つまり、無傷のまま1つ目の砦をクリアします。

レ・トゥーレル砦へ攻め込むにはオーギュスタン砦と呼ばれる場所でしたが、ジャンヌ・ダルクは兵士を鼓舞し、フランス軍の猛将であったラ・イール将軍の奮戦によりオーギュスタン砦も陥落させます。

オーギュスタン砦を拠点としたフランス軍は5月7日にいよいよ目標のレ・トゥーレルへ攻撃を仕掛けます。

この場所は非常に強固な守りが固められており、長期戦が予想されていました。また、ジャンヌ・ダルクも午後の戦闘中に矢傷を受けます。

早朝から続いた戦闘はジャンヌの負傷により一時的に中断され、兵士たちは休息を取っていました。

兵士たちが休息を取っている間、ジャンヌは森の中で祈りを捧げていたところ、ジャンヌの荷物の1つであった軍旗が普段と違う人物によって持ち去られたのを見て急いで奪い返しに行くと、旗を振ります。

既にジャンヌ・ダルクを中心として士気を高めていたフランス軍の兵士はこの旗の動きを開戦の合図だと思い、またもイングランド軍の虚を突く形でレ・トゥーレルへ突撃します。

実際にはこの旗の交換はジャンヌの副官による指示であったそうですが、運命的な偶然によってフランス軍はついにレ・トゥーレルも陥落させます。

ジャンヌ・ダルクが追撃を命じたのが、5月4日であり、それからたったの3日後。約15年間オルレアンを優勢に攻撃し、包囲していたイングランド軍の重要な拠点であったレ・トゥーレルまで奪い返すことに成功します。

まさに電光石火と言えるような逆転劇です。

この翌日、イングランド軍とフランス軍は全軍兵士同士のにらみ合いになりますが、イングランド軍はついに撤退します。

こうしてジャンヌ・ダルクは「声」によって指示されていたオルレアン解放に成功したのです。

ジャンヌ・ダルクは優れた戦術家であった?

現代のジャンヌ・ダルク研究家や歴史学者の中で論争となっている問題に、ジャンヌ・ダルクが従軍した事によってどの程度の役割を史実で果たしたのか?という点が挙げられます。

一般的に知られているジャンヌ・ダルク像は、戦闘は素人であり、軍事会議でも「声」に従って攻撃を主張し、戦場においては旗手を務めて兵士の士気を鼓舞していたというものです。

しかし、上記で紹介したようにオルレアン解放戦において、ジャンヌがしきりに反撃を主張したのは戦略的な要素もあったのではないか?という議論が行われています。

この戦場となったオルレアンは約15年もの間イングランド軍に攻撃、侵略を受けており、ジャンヌ・ダルクが援軍に来た時期には、ほぼ全てを包囲され、補給路すらもままならない状況でした。

名将軍であったデュノワ公ジャンによってギリギリの状態がなんとか保たれていた訳です。

しかも、当時のイングランド軍はフランス軍よりも少ない軍勢でした。しかし、イングランド独特の長距離射程の弓部隊による戦略によってフランス軍を次々と撃破していきました。

この状況はある意味フランス軍が同じ戦略に捕らわれていた状況でもあると考えられています。

そこに攻勢を主張したジャンヌ・ダルクはイングランド軍の弱点を突いたとも解釈され始めています。弓部隊は通常、距離を置かなければ有利に戦うことが出来ません。

偶然にしろ、戦略にしろ、少なくともジャンヌ・ダルクが参戦したことによってフランス軍の士気が上がり、攻勢に転じたことは史実としても認められているのです。

文字も書けなかったジャンヌ・ダルクが戦術家であったかどうかという判断は難しいですが、ジャンヌ・ダルクの存在がそれだけの影響をフランスにもたらしたことだけは確かな事実でした。

 

参考図書

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