三国志の登場人物の中でも、ずば抜けた強さを語られているのが呂布です。

古代中国の物語には多くの強さを語られる武将がいますが、呂布はその中でも特別視されやすい存在でしょう。

馬術、弓の扱いに非常に優れており、愛馬であった赤兎馬も駿馬であったことから、「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞賛されました。

その一方で仕えた君主を何度も変えてきたため、「裏切り者」の代名詞にもなっています。

後世の評価でも「武においての強さは抜きん出た人物であったが思慮が浅く政治力に欠けていた」と言われることも多いですが、実は呂布の統治が評価されていた史実も存在してます。

今回は呂布の強さと政治力についても紹介していきます。

呂布が最強の武将だと呼ばれたキッカケとは?

画像引用元:三国志演義

呂布が三国志において最も強く、最強の武将であるというイメージの多くは「三国志演義」から来ていることが多いでしょう。

特に、最近ではゲームなどでも多く取り上げられる「虎牢関の戦い」において、董卓の配下として守備を任されたのが呂布でした。

この時の逸話としては、反董卓連合軍であった盟主の袁紹をはじめ、曹操、孫堅なども強すぎる呂布を攻めあぐねていたところを、当時は兵卒でしかなかった劉備軍の張飛と一騎打ちを始め、さらに関羽、劉備も加勢してようやく退却させたというものです。

しかし、史書の三国志にはそもそも「虎牢関の戦い」自体が存在しておらず、この逸話はあくまでも創作だと言われています。

史実において呂布が猛威を奮った戦いは、董卓を裏切って都落ちした後に、袁紹の元へ身を寄せていた時のことです。

この頃、袁紹は黒山賊と呼ばれた犯罪者集団の統領であった「張燕(ちょうえん)」と戦っていました。

この張燕という人物はあまり詳しい情報は残っていないものの、一説には100万人もの配下を操ったと言われる人物で、後に魏の武将になります。

さて、この袁紹がてこずっていた張燕軍は約1万の兵力を持っており、これの対応にあたったのが呂布でした。

呂布は1万もの軍に僅か手勢の数十騎で一日に何度も攻撃を繰り返し、数十日かけて張燕軍を離散させてしまいます。

事実上、呂布が暴れまわったこの戦いで黒山賊と呼ばれた勢力は解体されました。この時の活躍が前述した「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」に繋がったのです。

政治力を評価された呂布と王允

呂布の強さはこの後も続いていくところですが、そのエピソードについてはまた別の機会に紹介します。

少し話が戻りますが、董卓の配下になった呂布は王允という人物と手を組んで董卓を暗殺します。

三国志演義では、この王允の娘が貂蝉であり、王允は娘の美貌を利用して董卓と呂布を仲違いさせたというエピソードに変わっていますが、史実の三国志では呂布が董卓を裏切った理由は諸説言われており、ハッキリとしていません。

董卓の横暴な態度に愛想を尽かしていたという説や、董卓の側室であった女性と関係を持っていた事が発覚することを恐れたとも言われているのです。

余談ですが、この後者の側室の女性説のモデルが三国志演義の貂蝉になったという話です。

さて、理由は様々な説が挙げられていますが、王允と呂布は一時的に朝廷を牛耳る立場に立っていたのです。

実は、この期間の呂布と王允の統治の評判はおおむね良好であり、一概に呂布に政治力がなかったとは言いづらいのです。

結果として、この統治は長く続かず、董卓の配下であった李傕と郭汜によって攻め込まれたため、再び朝廷は混乱します。

この戦いでも剛勇の士と呼ばれた郭汜を一騎打ちで呂布は破り、郭汜自身は撤退しましたが、軍としての戦いでは圧倒的に差があり、呂布と王允は敗北してしまいます。

また、呂布の軍師として仕えた陳宮も「呂布公は正しく戦えば敵はいない」と評価しており、潜在的には能力の高い人物であったことを伺わせるのです。

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