日本人のルーツから邪馬台国、大和朝廷、そして日本の誕生まで――民俗学の方法論で古代日本の謎を解き明かす全7回の連載『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』。
ついに連載最終回です。
前回は、邪馬台国と大和朝廷の関係性の謎をひも解きました。九州の邪馬台国(ヤマト国)でクーデターを起こした天孫族(天皇家の先祖)は、畿内へ東遷し、大和朝廷を開きました。
天照大御神は卑弥呼をモデルに作った民衆の人心を掌握するための仮の女神で、天皇家の本当の先祖神は男神である高御産日神(タカミムスビ)でした。
しかし今では天照大御神は、名実ともに日本神話の最高神であり、天皇家の先祖神として扱われています。この謎を解き明かす鍵が、倭国から「日本」への変化に隠されています。
『古事記』や『日本書紀』といった日本神話は、天照大御神(卑弥呼)の魂を鎮めるための鎮魂書でした……。
今回は、軍事国家だった初期大和朝廷が律令国家「日本」へ生まれ変わった謎を解き明かしていきます!
【復習】邪馬台国から大和朝廷へ:天孫族クーデター説
今回は連載最終回ということで、前回の続編的な位置づけになります。できれば前回を参照したうえで読んでいただけると幸いですが……
「それは面倒!」という方向けに、まずは前回までの内容をサクッと復習したいと思います。「前回までの内容はバッチリ!」という方は読み飛ばしていただいてOKです!
九州山門の邪馬台国と畿内大和の大和朝廷
「邪馬台国」は、弥生時代の日本に存在したとされるクニです。その女王が「卑弥呼(ひみこ)」です。
卑弥呼はまた同時に、倭国(当時の日本)の連合国家の王でもありました。
弥生時代の日本にはたくさんのクニがあり、それらのクニをまとめあげたのが、邪馬台国の卑弥呼だったということですね。
ただし当時の日本には文字文化がありませんから、邪馬台国について知るには同時代に書かれた中国の文献に頼るしかありません。それが『三国志』という歴史書の中にある『魏書』の「東夷伝」の「倭国条」で……日本では一般的に『魏志倭人伝』と呼ばれます。
邪馬台国というクニは、実は中国の文献にしか登場しないクニなのです。日本の歴史書である『日本書紀』や日本神話にはいっさい登場しません。
ですから邪馬台国にはさまざまな謎が存在します。江戸時代から200年以上に渡って論争が繰り返されているものの、いまだに真相がはっきりしないクニなんです。
最大の謎は、邪馬台国の比定地(場所)でしょう。
第2回で紹介したように、『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は、文献によれば間違いなく九州にありました。
筆者は「筑後の山門(やまと)」=現在の福岡県 柳川~八女市一帯にあったと考えています。山門説は音韻学の立場から否定されがちですが、その否定根拠を否定できるとする理由も紹介しましたよね。
しかし考古学的には、邪馬台国は畿内(近畿)にあったように思われます。
この矛盾を解決するのが、九州にあった邪馬台国が畿内へ移動したという「邪馬台国東遷説」です。
歴史学や考古学だけでなく、神話学や民俗学、地名学といった観点からもこの邪馬台国東遷説は支持できます。
実際に日本神話には、後の神武天皇となるカムヤマトイワレビコが九州から畿内へ移動し、大和朝廷を開いて初代天皇として即位する「神武東征」神話があります。神武東征は邪馬台国の東遷を神話化したものなのでしょう。
つまり邪馬台国は「ヤマト国」であり、九州の山門(ヤマト)が畿内の大和(ヤマト)に東遷したものが大和朝廷でした。現代まで続く天皇制はここにはじまったのです。
しかし大和朝廷が邪馬台国の前身だというには、両者の社会や文化には真逆ともいえる違いがあります。
邪馬台国は女系女王の母系社会でしたが、大和朝廷は男系男子の父系社会でした。
邪馬台国は海人族文化をもつ宗教国家でしたが、大和朝廷は騎馬民族文化をもつ軍事国家でした。
この違いは、両者を構成している主要民族に違いがあったからです。
邪馬台国の構成民族は中国南方沿岸部の長江文明にルーツをもつ第1波弥生人でしたが、大和朝廷の構成民族は中国北方内陸部の黄河文明にルーツをもつ第2波弥生人でした。
神武東征は天孫族のクーデター!邪馬台国東遷説の理由
邪馬台国は主たる構成民族や、その文化・信仰は南方の海人族(第1波弥生人)のものでしたが、政治や軍事を担当したのは天孫族(第2波弥生人)でした。
邪馬台国が九州倭国を統一できた理由は、人心を掌握する宗教国家と、征服と政治に優れた軍事国家としてのバランスがとれていたからです。
しかし天孫族は本当は、自分たちの理想とする男系男子王による国家樹立と、日本の統一という野望を抱いていました。
中国の文献に記録が残っていない、邪馬台国の消滅と大和朝廷の成立……いわゆる古代日本史「空白の4世紀」の裏で起こったのが、天孫族のクーデターです!
しかしこのクーデターには、2つの難点がありました。
- 当時の日本列島では、南方系の第1波渡来系弥生人と、日本に先住していた縄文人が人口の大多数を占めていた → 両者ともに天孫族(第2波弥生人)の文化や信仰とは相性が悪く、ゆえに邪馬台国では第1波弥生人の文化や社会と共存せざるを得なかった
- 北九州は大陸との外交上、もっとも都市に優れた地域だったが、当時は海人族(第1波弥生人)に支配されていた → 騎馬文化をもつ天孫族は陸戦では強かったが、航海術や漁労の腕はなく、九州での戦いや外交・生業には海人族の力が必要不可欠だった
この問題に対し、天孫族は次のような解決策をとりました。
- 死した卑弥呼を太陽神の女神=天照大御神として祀りあげ、偶像崇拝によって民族的にも文化的にも異なった民の心を掌握する
- 海人族の手が及んでいない東方・太平洋側の、また陸戦が生きる内陸部である畿内大和への東遷+第2波弥生人による連合国家=大和朝廷の結成
天照大御神は今でこそ、日本神話の最高神であり、天皇家の先祖神(皇祖神)という格別の地位を得ています。しかし実は初期大和朝廷では天照大御神は重要な神(宮中八神)として祀られていませんでした。
しかも原則「男系男子」継承である天皇家のルーツが、女神にあるのは不自然です。ゆえに天照大御神はもともとは男神だったともいわれていました。
こういった理由から、今では天皇家の真の先祖神は男神の太陽神である「高御産日神(タカミムスビ)」だったという説が、多くの神話学者から支持されています。
これは事実で、天照大御神は初期大和朝廷にとっては人心をつかむための仮の偶像に過ぎませんから、宮中では祀りませんでした。
また第5回で紹介したように、大和朝廷は奈良時代中期まで、卑弥呼(天照大御神)の墓である宇佐神宮を放棄し、八幡神という渡来人の神に明け渡していました。
画像引用元:産経新聞
邪馬台国東遷の理由は、天孫族のクーデターにありました。
海人族(第1波弥生人)を避けて、天孫族は瀬戸内海ルートから畿内入りしました。その道中、同じく第2波弥生人の軍事国家である吉備国や安芸国、摂津国、河内国の力を借ります。
そして畿内大和でニギハヤヒ=物部氏と協力し、ついに第2波弥生人の連合国家=大和朝廷を開きます。この邪馬台国東遷が、日本神話の「神武東征」のモデルでした。
その後、敵であるはずの海人族の一派「安曇族(アズミ族)」と同盟関係を結び、念願の九州征服を果たします。これがヤマトタケルの征西神話のモデルです。
以上が空白の4世紀の真相であり、邪馬台国と大和朝廷のミッシングリンクの答えでした。
倭国から日本へ:天皇制と律令国家の誕生
こうして大和朝廷が誕生したわけですが、この初期大和朝廷(天皇家)は中近世の朝廷(天皇)とは大きく性質の異なるものでした。
- 初期大和朝廷は軍事国家で、天皇は将軍を兼ねた武力王だったが、後の天皇はむしろ宗教を担当する祭祀王だった
- 初期大和朝廷にとって重要な、天皇家の真の先祖神はタカミムスビだったが、現在では天照大御神がその地位に就いている
この変化は7~8世紀のことで、つまりこの時期に、タカミムスビと天照大御神の地位が入れ替わっているのです。
そしてこの時期は同時に、『古事記』や『日本書紀』といった日本神話が成立した時期であり、また日本国と天皇制が本格始動した時期と一致します。それまでは日本は「倭国」を自称し、また天皇は「大君(オオキミ)」と呼ばれていました。
この日本の劇的革命の裏に隠れていたのが、「壬申の乱」と「白村江の戦い」です。
天照大御神の誕生と、日本という律令国家の成立はすべて繋がっていました!
白村江の戦いと日本の誕生
安曇族と同盟関係を結んだ大和朝廷はイケイケドンドンで征服を進め、中部~西日本を統一。さらに朝鮮半島の南端「任那(みまな)」を植民地化するまでに至ります。
しかしその歩みは、663年の「白村江の戦い(はくそんこう-)」で止められました。
日本・百済の連合軍vs唐・新羅の連合軍との戦争です。
古代日本における最大の対外戦争でしたが、これがもう惨敗。安曇比羅夫が率いる日本の水軍はほぼ全滅しました。
ここまで格別の地位と待遇を得ていた安曇氏は、この敗戦の戦犯として、一気に没落することになります。
日本が朝鮮半島にまで大軍を派遣した理由は、任那を守るためだけではありません。朝鮮半島が中国との唯一の外交航路だったからです。
白村江の敗戦で朝鮮半島からの中国航路を封じられた日本は、未開の琉球航路から当時の中国……唐(とう)との関係構築を急ぎます。
同時に、今のままではいけないと、大和朝廷は勢力拡大と征服をいったん停止。国内の再整備を図ります。
これが、律令国家「日本」の誕生でした。
つまり律令=法律による統治と、国の土地や人民、政治を朝廷(天皇)のもとに集約させる中央集権化です。
都の設立、地方行政の管理、戸籍の把握、土地や租税、軍役制度の確立、歴史書の編さん、貨幣経済化といった国内整備が一気に進められました。大国である唐と対等の関係を結ぶには、これらの整備が必須だったのです。
ペリーの黒船ショックによって起こった明治維新のような大改革が、古代にも起こったということですね。
【旧唐書】倭国と日本と邪馬台国の違い【日本国者倭国之別種也】
実際に「日本」という国号が使用された最古の文献は、『旧唐書』という唐の歴史書です。
白村江の戦いから約40年かけた702年に遣唐使を派遣し、ついに唐との外交にまでこぎつけたわけです。この『旧唐書』にちょっと興味深い記述があるので紹介します。
「日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるをもって、故に日本をもって名となす。或いは曰く:倭国自からその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となす。或はいう:日本もと小国、倭国の地を併わすなり」
1文目には2つの解釈があります。①倭国の別の呼称が日本国である ②倭国と日本は別の国である
前者で読み解けば、「倭国は(太陽が昇る極東の国であるから)国名を『日本』と改称した。(日本人は)『倭』という漢字を嫌っていたともいう」となります。
第4回で紹介したように、太陽信仰をもっていた渡来系弥生人にとって、大陸から見て太陽が昇る東の国である日本列島は「聖地」でした。ですから彼らは日ノ本の国……「日本」と名付けたのです。
ただ後者の読み方でいくと……「倭国と日本は別の国であった。日本はもともと小国だったが、倭国を征服して併合した」となります。
意味がまったく異なってしまいますよね。しかし筆者の説なら、どちらの解釈でも説明可能です。
第2回で書いたように、『魏志倭人伝』に書かれた「倭国」とは、九州のことでした。なぜなら朝貢(中国皇帝へみつぎものを送り国王として認めてもらうこと)をしたクニが九州にしかなかったからです。
朝貢していない=冊封体制を結んでいない地域は、中国帝国は「国」として認めません。つまり当時の倭国とは、九州の邪馬台連合国家と言い換えてもいいわけです。
一方「日本」とは大和朝廷によって作られたクニで、もともとは畿内の連合国家でした。ですから、「日本もと小国」なんです。
その後九州を征服し、西日本を併合したのですから、「倭国(九州)の地を併わすなり」という記述は正しいでしょう。日本と倭国はもとは別の国と解釈することは可能です。
とはいえ大和朝廷が九州を征服(併合)した当時は、朝廷側もまだ日本ではなく「倭国」と名乗っていました。ですから倭国が日本へ改称したと解釈してもおかしくはありません。
中国から見たら、邪馬台国(九州)=倭国、大和朝廷(畿内)=日本、という見方でした。ただ大和朝廷もしばらくは「倭国」を名乗っていたので、混乱してしまうのですね。
律令国家日本と天皇制と天武天皇
白村江の戦いは「天智天皇(てんじ-)」の時代ですから、律令制のはじまりは天智天皇に求めることができます。
しかし、実際に日本で律令制を本格的に推し進め、天皇制を開始し、大和朝廷に大改革を行なったのは「天武天皇(てんむ-)」です。
そして天武天皇の意志を引き継ぎ、「日本」を完成させたのが「持統天皇(じとう-)」と「文武天皇(もんむ-)」です。
ということで、この4代の天皇の歴史をサラッと解説します。
天智天皇は律令制を敷くにあたっての土台作りをしました。官僚制の整備、地方行政区画の形成、戸籍の作成など……しかしそんな第1歩を歩み始めたところで、天智天皇は急死してしまいます。
その後672年、天智天皇の息子の「大友皇子」と弟の「大海人皇子」が皇位をめぐって対立。古代日本最大の内乱である「壬申の乱(じんしんのらん)」です。
壬申の乱の勝者は大海人皇子でした。彼は天武天皇として即位します。
天武天皇は中国帝国にならった専制的な統治体制を備えた新たな国家=律令国家「日本」の建国に向けて、精力的に活動しました。
681年に律令の制定を命じ、また日本の正式な歴史(正史)と神話の編さんを命じます。続いて都の造営に着手……というところで病死。
この悲劇に、天武天皇の嫁(皇后)が持統天皇として即位します。
持統天皇は夫の願いを受け継いで、689年に日本最初の律令である「飛鳥浄御原令」を発布。694年には藤原京が完成。大国に引けを取らない日本最初の壮麗な都城でした。
他には「富本銭(ふほんせん)」という日本最古の金属貨幣も作っています。
最古の貨幣というと歴史の授業では「和同開珎(わどうかいちん)」と習った方も多いかもしれませんが、これは全国的に流通した最初の貨幣でした。富本銭は大和周辺でのみ使われたようで、貨幣のパイオニアといえます。
持統天皇の後を継いだのが、天武天皇と持統天皇の孫である「軽皇子(かるのみこ)」で、文武天皇として即位します。
文武天皇の代に施行されたのが有名な「大宝律令」ですね。これは天武天皇代の「飛鳥浄御原令」をブラッシュアップさせたものでした。
こうして念願の律令国家「日本」が完成し、遣唐使を再開し、見事、中国との国交回復に成功したわけです。
ただし681年に命じた史書の完成には、もう少しかかりました。
日本最古の歴史書である『古事記』は、文武天皇の次の代である「元明天皇」の時代に完成。
元明天皇は藤原京をさらに壮大にした「平城京」を造営し、和同開珎による貨幣経済を開始しました。
710年に平城京へ遷都してから、いわゆる「奈良時代」がはじまります。
さらに日本最古の正史史書である『日本書紀』は、元明天皇の次の「元正天皇」代に完成。
大宝律令や藤原京、和同開珎に日本書紀など……完成時期だけ見ると、日本の本格始動は奈良時代の開始と同時期のように見えますが、その着手や命令はすべて飛鳥時代の天武天皇にはじまっています。
実は「天皇」という称号を最初に使ったのも天武天皇です。ですから天皇制を整えた人物でもあるのです。
また倭国から「日本」という国号に改称したのも天武天皇である、とする説が研究者のあいだでも大勢を占めていますから、律令国家「日本」は、天武天皇が作ったといっても過言ではありません。
【民俗学で読み解く】天武天皇と天照大御神と日本神話
……と、ここまでが「歴史学」の情報です。
日本(天皇)が中国(皇帝)と対等に渡り合うために行ったことは、中央集権政治のための律令制施行だけではありません。
天武天皇は、大和朝廷と天皇家に大革命を起こしました。それが「宗教」です。
歴史学では、なぜか宗教や信仰が軽視されがちです。宗教を同時に読み解かなければ、日本誕生の謎は解けません。
ここからは民俗学的な視点で日本の誕生をひも解いていきます。
天武天皇が行った宗教政策は主に2つ。
- 政祭一致政治のための神祇制(じんぎせい)
- 日本神話の編さん
ですがこれはあくまでも表の名目で、2つとも裏の目的が隠されています。それが……
- 天皇の祭祀王化
- 天照大御神(卑弥呼)の鎮魂
順に解説していきます。
天武天皇の目指した超越神聖王権【武力王と祭祀王】
第6回で述べたように、初期大和朝廷は軍事国家であり、当時の天皇(大君)は将軍――「武力王」でした。
古墳時代の歴代天皇は中国皇帝のもとを訪ね、こぞって将軍の位をほしがりました。
『宋書』倭国伝には、倭の武王(雄略天皇とされる)が中国の宋の皇帝に送った上表文が載っています。
「昔から祖躬ら甲冑を環き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国」
上表文からその国家の特徴がわかるといいますが、ここでは軍事国家(武力王)としての成果や誉れがつらつらと書いてあるのみで、宗教や祭祀、神様に関する記述は一切ありません。
これは天孫族のルーツである北方系の騎馬民族の影響で、天皇が原則「男系男子」継承だったのも、天皇が戦闘指揮可能な将軍位を兼ねていたからです。
女王卑弥呼は鬼道(宗教)で国を治めていましたから、邪馬台国が宗教国家だったのと真逆ですね。
しかしこういった祭祀の軽視や武力王としての天皇像は、中世~現在にまで続く天皇像とはまったく異なります。
中世以降の天皇は、むしろ祭祀や儀礼を中心の仕事とする「祭祀王(さいしおう)」です。天皇の行う祭りは、日本の政治にとって非常に重要なものでした。
実はこの天皇の祭祀王化と、朝廷の祭祀復活を行ったのが天武天皇でした。
中国という大国と肩を並べる大国――律令国家「日本」を生み出すには、天武天皇は今の天皇像ではいけないと思ったのでしょう。
天武天皇が目指した天皇像とは、「超越神聖王権」でした。
初期大和朝廷の天皇――つまり大君は、政治的指導者・軍事的指導者でした。
天武天皇が目指した天皇は、政治的・軍事的指導者であると同時に、宗教的指導者でもありました。
社会学者の上野千鶴子氏が提唱する、「世俗王と祭司王」という王権論があります。
古今東西の王は、軍事的指導者である「世俗王(武力王)」と、宗教的指導者である「祭司王(祭祀王)」の2種にわけられるといいます。そして安定した政治には、軍事と宗教の両立が必要です。
たとえば中近世の日本では、武力王である幕府の征夷大将軍(世俗王)と、祭祀王である朝廷の天皇(祭司王)という2人の王によって政治が行われました。このように2つの王が行う政治を「二重王権」といいます。
このような政治ではなく、1人の王が世俗王と祭司王を兼ねることを「超越神聖王権」といいます。天武天皇が目指した天皇像はまさにこの超越神聖王権でした。
……が、結局この野望は成就することなく、天皇は中世以降、祭司王として存在することになったのは、歴史に記されている通りです。
ですが、この天皇の祭祀王化がなかったら、天皇制はとっくに滅んでいたのかもしれません。
よく、「天下統一を果たした幕府の征夷大将軍はなぜ天皇を滅ぼさなかったのか」という議論が起こることがありますが、当時の天皇は、祭祀王として幕府にとっても必要な存在だったのです。
武力王は下剋上の世界です。ですが祭祀王というのは世界的に見ても、神聖不可侵であることが多いです。ローマ教皇が古代ローマの時代から現在まで存続しているのと同じですね。
祭祀王としての天武天皇【律令制と神祇制】
古墳時代には軍事国家として破竹の勢いを続けてきた大和朝廷でしたが、飛鳥時代に入ってその安定性はゆらぎます。白村江の敗戦が日本に与えたショックは大きく、天武天皇は軍事と祭祀を両立させた超越神聖王権の確立を急ぎました。
そのために律令制の施行と同時に、「神祇制(じんぎせい・神道や神社仏閣の体形的な制度化)」も進めたのです。
天武天皇はもともと宗教や超自然的な力に関心が強く、神仏への信仰も厚い、それまでの天皇とはまったく異なった存在でした。
天武天皇は壬申の乱の勝者ですが、日本書紀を見ると軍事的指導者として優れた記述はほとんどなく、戦闘で活躍したのは天武天皇の長男である高市皇子(たけちのみこ)でした。
代わりに天武天皇は、とにかく宗教に熱をあげ、壬申の乱で勝利をつかむためにあらゆる加持祈祷や祭祀を行っています。
さらに『日本書紀』には天武天皇が行った事績が書かれているのですが、仏教に関しては40、道教や陰陽道に関しては9、神祇祭司(神道)に関しては35もの記事が載っています。これは異常ともいえる量です。
飛鳥時代の仏教伝来によって、たとえば聖徳太子も仏教を重視したりはしましたが、ここまでの信仰心はありませんでした。今では当たり前ともいえる「祈る天皇像」は、天武天皇の代からはじまっているのです。
天皇の祭祀といえば、なんといっても11月23日(勤労感謝の日)に行われる「新嘗祭(にいなめさい)」です。
新嘗祭は天照大御神に「稲の初穂」をささげるもので、新天皇の即位年には代わりに「大嘗祭(だいじょうさい)」が行われます。そして新嘗祭・大嘗祭の前日に行われるのが「鎮魂祭」です。
「新嘗祭」という名称自体は第16代仁徳天皇の代から見られますが、これは要するに世界各地で見られる「収穫祭」です。ルーツは稲作農耕のはじまった弥生時代にまでさかのぼれるでしょう。
ですが現在にまで続く新嘗祭の儀礼を制度化したのは、天武天皇だったと考えられます。
というのも、大嘗祭をはじめておこなったのが天武天皇であり、また鎮魂祭の儀礼である「招魂(たまふり)」を最初に行ったのも天武天皇だからです。
大嘗祭・新嘗祭・鎮魂祭という3大儀礼が完成したのは、天武天皇の政治を引き継いだ文武天皇の代です。『養老律令』にその記述が見られます。
これだけではありません。天照大御神を天皇家の先祖神(皇祖神)と日本神話の最高神に据え、伊勢神宮に祀ったのも、筆者は天武天皇だと考えています。
これが天武天皇の2つ目の大仕事である「日本神話の成立」です。
大神神社と出雲大社を作ったのは斉明天皇【最古の怨霊信仰】
そもそも、天武天皇はなぜこうも宗教に対して熱を上げたのでしょうか。
筆者は、天武天皇の母親である「斉明天皇(さいめい-)」の影響だと考えています。
それは、日本で最初の怨霊信仰(御霊信仰)を行ったのが斉明天皇だと考えられるからです。
怨霊信仰とは、「恨みを残して死んだ者は、怨霊となって祟りを成す」と考え、その祟りを鎮める(鎮魂する)ために怨霊を祀ることをいいます。平将門の怨霊は有名ですよね。
この怨霊信仰は、平安時代になると「御霊信仰(ごりょうしんこう)」へと進化します。これは怨霊を神として祀ることで、むしろその祟り(負のパワー)を神の加護(正のパワー)に変換しようとする思想です。
北野天満宮(天神社)の菅原道真が有名ですよね。菅原道真は島流しに遭って怨霊となりましたが、天神様として祀ることで、現在では学問の神様として全国の崇敬を集めています。
日本神話における「国譲り神話」を知っていますか?
天照大御神率いる天津神(あまつかみ)と、大国主命(オオクニヌシ)率いる国津神(くにつかみ)が日本列島の統治権をめぐって争い、最終的に天津神が勝利し、天孫族である「邇邇芸命(ニニギ)」が降臨するという話です。
負けたオオクニヌシは、日本を譲るかわりに、大きな社を立ててほしいとお願いします。こうして作られたのが、現在も島根県出雲市に残る「出雲大社」です。
オオクニヌシは出雲の神でしたから、この国譲り神話は、大和朝廷(天孫族)の出雲族征服を神話化したと解釈するのが一般的です。
ですが史実では、譲るなどということはなく、普通に征服・殺害されたと思われます。というのも、当時の日本にはまだ「怨霊信仰」がなかったからです。
日本神話によれば、出雲の神であるオオクニヌシは、怨霊となりました。神話では「荒魂(あらみたま)」という表現で書かれていますが、こういった記述からも、オオクニヌシが酷い殺され方をしたのがわかります。
出雲大社はオオクニヌシを祀り、その怨霊を鎮魂するための社でした。
オオクニヌシが怨霊である証拠についてはコチラの記事でくわしく解説しています。ぜひご覧ください。
第10代「崇神天皇(すじん-)」の時には、大和で疫病が流行して民が死に絶えます。すると大物主(オオモノヌシ)という神が夢に現れ、「我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と伝えました。
オオモノヌシとはオオクニヌシの別名です。このお告げに従って、崇神天皇は大和の三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)にオオモノヌシを祀りました。
すると疫病は本当に治まりました。つまり疫病は、怨霊となったオオクニヌシの祟りだったのです。
この大神神社には神社の本殿がありません。三輪山という山そのものが御神体で、鳥居が1つあるだけの特殊な神社で、日本最古の神社だといわれています。
しかしこれでもオオクニヌシの祟りは止まりません。
『古事記』によれば第11代「垂仁天皇(すいにん-)」の子「誉津別命(ホムツワケ)」も、オオクニヌシの祟りで失語症=言葉が話せない唖(あ)になってしまいます。
そこで垂仁天皇はオオクニヌシを祀る「神宮」=出雲大社を作らせました。すると誉津別命は言葉が話せるようになったといいます。
つまり神話上では出雲大社は神代に作られたことになっていますが、歴史書上では垂仁天皇の時代に作られたとあるのです。
ですが、本当に出雲大社が作られたのはもっと後の37代斉明天皇(天武天皇の母)の時代だとされています。
『日本書紀』には、659年(斉明天皇5年)に「厳しき神之宮を修る」という記事があります。多くの歴史学者はこれを本当の出雲大社創建の記事だとしています。
「厳しき」は祟りや穢れを表します。オオクニヌシは祟り神でした。
出雲大社創建者を斉明天皇とする根拠として、斉明天皇の孫である「建皇子(たけるのみこ)」が誉津別命同様に失語症だったという事実があります。建皇子はその上8歳で死亡してしまいますが、斉明天皇から溺愛されていました。
オオクニヌシの祟りで失語症になってしまったのは、斉明天皇の孫である建皇子でした。この祟りを鎮めるために、斉明天皇は659年に出雲大社を創建したのでしょう。
しかし天武天皇が、この建皇子の祟りの記事を垂仁天皇の時代にコピーして移し替えたのです。つまり誉津別命の祟りの記事は創作でした。
その理由は、天武天皇がオオクニヌシの怨霊を恐れ、もっと古い時代から祀っていたように見せかけるためです。
祟り神・怨霊としてのオオクニヌシを恐れた斉明天皇と天武天皇
『古事記』『日本書紀』の成立に、天武天皇の手が大きく入っていることは前述しました。
そう言い切れる根拠は、垂仁天皇の記事には、明らかに天武天皇の事績を反映した記事がたくさんあるからです。これについては後でくわしく解説します。
ですから恐らくは、崇神天皇が大神神社にオオモノヌシを祀ったというのも、史実では斉明~天武天皇の時代の事績かと思われます。
大神神社が古代の初期大和朝廷の太陽信仰の祭祀場だったことはたしかですが、崇神天皇が天皇(大君)だった時代には、太陽神(おそらくタカミムスビ)を祀っていたのでしょう。
蛇神・竜神であるオオクニヌシ=オオモノヌシを祀るようになったのは、怨霊信仰が誕生した斉明天皇の代以降だと思われます。
ちなみにオオクニヌシがここまで祟り神として恐られたのは、出雲が日本でもっとも死の世界に近く、出雲王朝が当時最大級の宗教国家だったからです。
第4回で説明したように、太陽信仰にとって東方が陽(プラス)の聖地とされたのと反対に、西方は負(マイナス)の聖地とされました。
ですから大和から見て太陽が昇る東方にある伊勢に、日本最高格の神社=伊勢神宮が作られたのです。
そして太陽が沈む西方の出雲は、霊力に満ちた、死の世界にもっとも近い場所と考えられました。
ですから日本神話における死の世界「黄泉の国(よみの国)」の入口は、出雲の「黄泉比良坂(よもつひらさか)」(現在の伊賦夜坂)にあるとされたのです。
加えて出雲王朝は当時最大級の青銅器文明でした。
朝鮮半島との交易が盛んだった出雲では、もっとも早い段階から鉄が見つかっています。にもかかわらず、出雲では鉄に劣る青銅器を優遇しました。
これは出雲が軍事国家ではなく、宗教国家だった証拠です。
弥生時代の出雲の遺跡「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」からは、それまでに全国で発掘されていた銅剣すべてを合わせた300数本を上回る、358本もの銅剣が見つかっています。
しかしこれらの銅剣は戦闘では使えないほど幅が広いので、武器ではなく、祭りや信仰に用いた祭器だったとされています。出雲王朝の王=オオクニヌシは、呪術に優れた祭祀王だったのでしょう。
死の世界にもっとも近く、また呪術に優れたオオクニヌシの祟りを恐ろしいと考えたのは、不思議ではありません。
【天武天皇】日本書紀と古事記は鎮魂書だった!?
怨霊や祟りを恐れた天武天皇が、「日本」国誕生のために極秘に行ったプロジェクトが、日本神話の編さんでした。
681年に天武天皇が歴史書の編さんを命じ、天武天皇の死後に『古事記』『日本書紀』が完成したことは上に書いた通りです。
律令国家成立のためには、国家の正史をまとめる必要がありましたから、遅かれ早かれ史書が誕生したとは思われますが、『古事記』と『日本書紀』は天武天皇なしには生まれ得ませんでした。
それは『古事記』の序文を見ればわかります。
『古事記』の編さん経緯が「序文」として載っているのですが、その40%は天武天皇と壬申の乱について割かれているのです。壬申の乱の勝者である天武天皇への讃歌・祝典歌ではないかと思われるほどです。
記紀には恐ろしいほどに天武天皇の意志がこめられ、明らかに天武天皇と、その遺志を継いだ持統天皇による「歴史修正」が行われています。
最大の修正が、天照大御神とタカミムスビの地位がすり替えられたことです。天照大御神を日本神話の最高神、かつ天皇家の先祖神(皇祖神)にした犯人は、天武天皇と持統天皇でした。
なぜこんなことをしなくてはならなかったのかというと、天照大御神=卑弥呼の魂を鎮めるためです。
『古事記』『日本書紀』は、歴史書であると同時に、天照大御神(卑弥呼)の鎮魂書だったのです。
壬申の乱と伊勢神宮創建(倭姫命巡幸)と神武東征
初代神武天皇~14代神功皇后までの天皇は、実在性がはっきりしていません。確実に実在したと考えられているのは15代仁徳天皇からです。
非実在説派の説明としては、中国皇帝に比肩しうる天皇家の伝統を創作するためとされていますが、ここでは14代までの天皇の実在性について議論はしません。
しかし実在したにせよ、14代天皇までの事績には、明らかに天武・持統天皇による創作や修正が行われています。第10代崇神天皇のオオモノヌシ祭祀や、第11代垂仁天皇の出雲大社創建についての記述の怪しさは上で書きました。
もっとわかりやすく天武・持統天皇による歴史修正が行われている記事が、神武天皇の神武東征と、垂仁天皇の伊勢神宮創建(倭姫命の御巡幸)です。
神武東征神話は、邪馬台国の東遷(天孫族の東征)がモデルになっていると説明しましたが、畿内に入ってからのルートや展開は創作だと思われます。
画像引用元:関ケ原町歴史民俗資料館
その根拠は、壬申の乱における天武天皇軍の進軍ルートや、戦績がそのまま流用されているからです。神武東征の畿内攻略は、明らかに壬申の乱をもとに書いているのです。
天照大御神が伊勢に祀られ、伊勢神宮が作られた経緯や理由は第4回で紹介しました。
天照大御神(八咫鏡)はもともと、朝廷(大和)の皇居でまつられていた。垂仁天皇の皇女の倭姫命(ヤマトヒメ)は、天照大御神を祀るにふさわしい場所を求めて旅(御巡幸)を開始。
日本各地を巡って伊勢の地にやってきたとき、神(天照大御神)からお告げがあった。「この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。この国に居らむと欲ふ」
このお告げに従って、伊勢に神宮を建て天照大御神を祀った。
天照大御神が伊勢に祀られた理由は、大和から見て太陽が昇る東方に位置するからです。
この伊勢神宮創建は、『日本書紀』によれば垂仁天皇の時代だと書いてありますが、実際には天武・持統天皇の代だったと思われます。
というのも、天照大御神を祀るにふさわしい場所を求めて旅をする倭姫命の御巡幸ルートが、これまた明らかに壬申の乱を反映しているのです。
加えて最初に述べたように、初期大和朝廷では天照大御神は重要な神(宮中八神)として祀られていませんでした。
伊勢神宮では天照大御神以前に、タカミムスビを祀っていた痕跡が残っています。これは当然で、天皇家の本当の先祖神は、男神の太陽神であるタカミムスビでした。
天照大御神は卑弥呼をもとに想像された、人心をつかむための仮の偶像に過ぎなかったからです。
【炊屋姫天皇の紀に見ゆ】削除された推古天皇の記事
決定的な記述が、用明天皇と推古天皇の記事の矛盾です。
『日本書紀』の用明天皇の代に「是の皇女、此の天皇の時より炊屋姫天皇の世に逮ぶまでに、日神の祀に奉る。自ら葛城に退きて薨せましぬ。炊屋姫天皇紀に見ゆ」という記事があります。
「用明天皇の娘である『酢香手姫皇女(すかてひめのひめみこ)』は、用明天皇から炊屋姫天皇(カシキヤヒメノスメラミコト=推古天皇)の時代まで伊勢の日神を祀った。推古天皇の記事にそう書いてある。」
……という意味になるのですが、実は推古天皇の記事にそのような記述はないのです。
民俗学者の新谷尚紀は、推古天皇の記事から、この「炊屋姫天皇の紀に見ゆ」にあたる記事が削除されているとし、それは推古天皇の日神奉祭の記事だと推測しています。
『古事記』や『日本書紀』は、原資料として、「帝紀」と「旧辞」といった今はない文献を参照して書かれました。
原資料では、「炊屋姫天皇の紀に見ゆ」に相当する推古天皇の日神奉祭の記事があったのでしょう。天武・持統天皇は、これが不都合な事実であったために削除したのです。
用明天皇や推古天皇が祀った日神とは、おそらく当時の太陽神であるタカミムスビでしょう。
実は「天照大神」というワードは、歴史時代では壬申の乱に書かれた「望拜天照大神」という記述まで一度も登場しません。天武天皇は壬申の乱に勝利するために、6月26日に伊勢で天照大神を望拝した(おがんだ)といいます。
※ここでいう歴史時代とは、神話的な表現がない=実在性が確実視されている仁徳天皇以降の時代のことです。
それまでは用明紀にあるように、「日神」という表現しか見られません。そしてこれはタカミムスビのことなのでしょう。
こういった理由から、天照大御神を現在のように最高神として祀るようになったのは、筆者は天武・持統天皇だと考えています。
タカミムスビと天照大御神を入れ替えた天武天皇と持統天皇
母親である斉明天皇がオオクニヌシに祟られたのを見た天武天皇は、自身も祟られるのではないかと恐れました。
そしてオオクニヌシの次に祟りを成すのは、天照大御神(卑弥呼)だと考えました。勝手にかりそめの神として長年利用したのですから、そう考えるのも無理はありません。
実際に、飛鳥時代から疫病が流行ったり、天皇が早死にしたり、皇太子が死亡したりする悲劇が頻発しました。ですから飛鳥~奈良時代には中継ぎである女帝が多いのです。
とくに壬申の乱の関係者は悲劇に見舞われました。
天武天皇も早死にし、皇位継承予定だった草壁皇子も死亡。ですから天武天皇の嫁であった持統天皇が中継ぎとして即位したのですが……息子の軽皇子が天皇を務められる年齢になり、文武天皇として即位したかと思ったらこれまた20代で早死に。
とくに草壁皇子は、「日並皇子(ひなみしのみこ)」=日の皇子という名をつけられたように、太陽神の子孫である天皇位の継承を嘱望された人材でありました。
天武・持統天皇はこういった災厄を、怨霊となった天照大御神(卑弥呼)の祟りだと考えたのです。
ですから日本神話を編さんする際には、天照大御神をタカミムスビと入れ替えて最高神として描き、天皇家の先祖神(皇祖神)だとしました。
そして歴史書では、天照大御神を祀る記事を過去の天皇の記事に差し替えて、歴史修正をはかりました。古い時代から祀っていたとするためです。
これは先ほど説明した御霊信仰と同じで、怨霊を神として祀ることで鎮魂し、さらに祟り(負のパワー)を神の加護(生のパワー)に変換しようとしたのです。
こうなると天孫族が邪馬台国にクーデターを起こし、卑弥呼をモデルに天照大御神を創作したという事実は、天皇家のタブーとなりました。
天照大御神=卑弥呼説には偶然ではすまされないほどの一致が見られますが、以下のような問題点がありました。ですがその謎も、鎮魂説ならすべて解くことができます。
- 天照大御神(天皇家の先祖神)は古くは男神(タカミムスビ)であった可能性が高い→卑弥呼とは無関係
- 卑弥呼が天照大御神のモデルなら、なぜ日本神話にそう記されていないのか→『古事記』『日本書紀』は天皇の権威付けの歴史書であり、ならば『魏志倭人伝』に載っているほどの古代王国を載せないのは不自然
- 『日本書紀』には、卑弥呼と神功皇后を結びつけるような記述がある→朝廷は卑弥呼を神功皇后に比定していたので、天照大御神は無関係
卑弥呼と神功皇后を結びつけたのは、卑弥呼と天照大御神が同一だとバレないためです。人代においてもっとも女神的性質をもつ神功皇后と結びつけたのでしょう。
天照大御神が最高神・皇祖神となったことで、大和朝廷(天皇家)は卑弥呼の墓が眠る、その魂が祀られた九州の宇佐神宮を保護しようとします。(第5回参照)
しかし卑弥呼や天照大御神として公に祀ることはできませんから、本来は渡来人の神であった八幡神を応神天皇にすり替えて、「二所宗廟(にしょそうびょう)」としたのです。
とはいえ本当の祭神は卑弥呼=天照大御神ですから、脇神であるはずの「比売大神(卑弥呼)」を、本来の主神である中心の位置に祀りました。
天照大御神を最高神とする日本神話の創造、伊勢神宮の創建、宇佐神宮の保護と厚遇、これらすべてが天照大御神(卑弥呼)の鎮魂儀礼でした。
とくに鎮魂であることがわかるのが、『古事記』です。
古事記は鎮魂書?古事記と日本書紀の違い
『古事記』と『日本書紀』はどちらも日本最古の歴史書ですが、微妙に記述の仕方が異なります。
たとえば『古事記』は、「語り」を直接文字にしたような、日本語としても中国語としてもおかしな変体漢文で書かれています。また『日本書紀』に比べて、神話部分のボリュームが大きいのが特徴です。
対して『日本書紀』は本物の中国人を登用し、正しい漢文で書いています。『古事記』よりはるかに多くの人の手と時間がかけられているのですね。実際に完成は『古事記』の8年後です。
こういった理由から、『日本書紀』は外国に国の正史を伝える史書であり、『古事記』は国内向けに作られたのではないか、という解釈がよくなされます。
しかし、別に『日本書紀』を国内人が読んでも問題ないですし、そもそも日本語でも中国語でもない『古事記』は読み解くのが難解でしょう。実際に『古事記』は江戸時代に本居宣長が再評価するまで、まったく読み継がれていませんでした。
筆者は、『日本書紀』とは別に『古事記』をわざわざ作ったのは、怨霊鎮魂のためだと考えています。
もちろん天照大御神も含めますが、『古事記』はそれ以外のあらゆる怨霊を鎮めるための鎮魂書でした。
『古事記』と『日本書紀』を比較すると、同じ内容でも描き方が異なります。古代文学者である三浦佑之氏は、『古事記』は「滅びゆく者に寄り添う視点」で編さんされていると述べています。
たとえば葛城氏の頭領・ツブラノオオミが滅ぼされるエピソードを比較してみましょう。
『日本書紀』では「家を取り囲んで火をつけた」と外(攻撃者)からの視点で書かれていますが、『古事記』では内(犠牲者)からの視点で、家の中で死んでいく2人にスポットが当てられているのです。
天皇家の権威付けのために作られたとされるのに、天皇家の視点ではなく、天皇家に滅ぼされる側の視点で書かれているのです。これはよくよく考えたらおかしなことです。
『古事記』の特徴がもっとも現れているのが、出雲神話です。
先ほど『古事記』は『日本書紀』より神話のボリュームが多いと書きましたが、正確にはオオクニヌシを主役とする出雲神話が『日本書紀』ではほぼほぼカットされているのです。
『古事記』に記された出雲神話もまた、国を譲るオオクニヌシ=滅ぼされる出雲族からの視点で書かれています。『古事記』を読むと、天照大御神率いる天津神が、せっかく作った国を突然奪おうとする悪役のように見えてしまうくらいです。
他にも『日本書紀』との違いを細かく比較していくと、『古事記』では死者と敗北者への記述が多いことがわかります。
いうなれば、『古事記』には「滅びの美学」が織り込まれているわけですね。
同様に滅びの美学が書かれた物語といえば、『平家物語』があります。
『平家物語』は源平合戦から負けた平氏が滅ぶまでを描いた、軍記物語です。実際の出来事に基づいて書かれた物語ですが、『吾妻鏡』などの日記や歴史書を参照すると、微妙に違いがあります。
どちらが正しいのかはわかりませんが、『平家物語』には敗者の美学があり、滅びゆく者の視点から書かれているのがわかります。
そして『平家物語』のもう1つの特徴は、読み物ではなく、盲目の琵琶法師によって「語る」物語であるということです。このような作品を「平曲」といいます。
なぜ読み物ではなく平曲だったのかというと、『平家物語』には、滅んだ平氏や戦で命を落とした者の魂を鎮魂するという目的があったからです。だから敗者の視点で語られるのです。
『古事記』も『平家物語』と同様の鎮魂書だったというのが、筆者の説です。
『古事記』は「語り」を直接文字にしたような、日本語としても中国語としてもおかしな変体漢文で書かれていると先に書きました。これは、『古事記』も読み物ではなく「語り」が主体だった証拠です。
そして『平家物語』と同様に、滅びの美学と敗者の視点が織り込まれています。
稗田阿礼が誦習したのはなぜ?『古事記』鎮魂書説
『古事記』が鎮魂書であるという最大の根拠は、その奇妙な編さん方法です。
- 天武天皇が『古事記』の編さんを命じる
- 高い記憶力を持つ稗田阿礼(ひえだのあれ)という下級役人に、『古事記』の原資料を「誦習」させた(誦習とは、「何度も繰り返し読む」または「暗記したものを唱える」こととされる)
- 稗田阿礼が誦習した内容をもとに、太安万侶(おおやすのまろ)が4ヶ月かけて『古事記』としてまとめあげる
……どう考えても、②のプロセスは不要でしょう。
わざわざ資料を暗唱させて、それをまとめたというんです。太安万侶が、稗田阿礼が持つ原資料を見ながら編さんすれば、もっと簡単に終わるはずです。
これは手間暇かけてでも、稗田阿礼に「語らせる」必要があったことを表しています。
なぜか? 鎮魂するためです。
稗田阿礼は非常に謎の多い人物で、わかっている情報はごくわずかです。
- 名前:稗田阿礼
- 職業:舎人(とねり・下級役人)
- 年齢:28歳(命令時)
- 血縁:天鈿女命(アメノウズメ)の末えい(『弘仁私記序』による)
これ以外のことはなにもわかっていないんです。ですから、「稗田阿礼は誰か別の人のペンネームだった」、また「実在しなかった」と唱える人もいます。
ここで重要なのは、「アメノウズメの末えい」という血縁です。
天岩戸隠れ神話は卑弥呼の死と台与の継承!?
アメノウズメは芸能の女神です。
天照大御神の「天岩戸隠れ神話」で、岩戸に閉じこもってしまった天照大御神を、全裸で舞を踊って興味を引き、岩戸からおびき出させたことで有名な神です。
「裸で踊って」というところから、最古のストリップといわれ、今でも芸能の神としてあがめられています。しかしこの舞はただの演芸や性的娯楽ではありません。
芸能――つまり「能」や「狂言」などの起源は神祭りにあり、古代の芸能人とは、神憑りのシャーマンや巫女のことだったからです。
民俗学者の折口信夫氏や谷川健一氏も、アメノウズメはシャーマン(巫女)であり、天岩戸隠れの舞も、神祭りを表していると指摘しています。
また第1回で書いたように、筆者は、天岩戸隠れ神話は、卑弥呼の死と台与の継承を神話化したものと考えています。
卑弥呼の死と、天岩戸隠れで起こった出来事を並べてみるとわかりやすいです。
- 卑弥呼の死
- 邪馬台国の内乱
- 台与が王位に就く
- 内乱が治まる
- 天照大御神が岩戸にこもる
- 世界が闇に包まれ荒れる
- 岩戸から天照大御神が出てくる
- 荒廃した世界が治まる
「岩戸にこもる」という表現は、古代日本では「皇族の死」を表します。また生田神社などでは、スサノオの暴走によって梭(ひ・機織りの道具)が刺さって天照大御神が死んだと伝えています。
興味深いのが、247年の3月24日と248年9月5日に日本で皆既日食が起こったという事実です。卑弥呼の死は『魏志倭人伝』によれば、247年か248年なのです。とても偶然とは思えません。
天照大御神が岩戸にこもると、太陽が消えて世界は闇に包まれたといいます。これは皆既日食のことでしょう。
太陽神に仕えた女王である卑弥呼の死、皆既日食、そして内乱……このような災厄が人々の心に残り、神話化されたのが「天岩戸隠れ神話」だったのでしょう。
そう言える最大の証拠は、天岩戸隠れ以前と以降で、天照大御神の性質が異なっている点です。
天岩戸隠れ以前の天照大御神は、最高神として神々に命令を下す姿が描かれていますが、天岩戸から再び出てきてからは、タカミムスビと一緒に行動し、それどころかタカミムスビの命令で他の神々が動いているのです。
たとえば『古事記』では、天岩戸以前に天照大御神とタカミムスビのペアでの行動は0回ですが、天岩戸隠れ以降は7回。加えてタカミムスビが神々に命令を下す回数が2回もあります。
しかも『日本書紀』では、天岩戸以降、天照大御神の姿は一度も描かれていません。
「〇〇の神は天照大御神の子である」といった説明や分注に名前は登場しますが、意思をもって行動している描写はありません。かわりに天岩戸以降は、タカミムスビが最高神として他の神々に18回も命令しているのです。
まるで、天岩戸で天照大御神が消えた(=死んだ)ような書かれ方です。この現象に合理的な説明をつけられるのは、卑弥呼の死と台与の継承説以外にありません。
天岩戸から出てきた天照大御神は、卑弥呼を継いだ台与だったということです。台与は13歳の少女ですから、宗教者としての才能はあっても、実際の政治には、大人の補佐役がいたと思われます。
こうした歴史を反映しているのなら、天岩戸以降の天照大御神がタカミムスビと行動を共にしているのもうなずけますよね。
そしてタカミムスビが、天皇家の真の先祖神であることは言うまでもありません。天孫族が卑弥呼の死を契機に、邪馬台国の政治を乗っ取ろうとしたことは説明した通りです。
【天岩戸隠れ】卑弥呼の死を鎮魂したアメノウズメ
舞の起源が神祭りにあるのは先ほど話しましたが、天岩戸隠れが卑弥呼の死を描いているのなら、もっとわかりやすい解釈が可能です。
『魏志倭人伝』には、「倭国では人が死ぬと、喪主は号泣するが、他の人々は酒を飲んで歌や舞をする」と、邪馬台国の葬送儀礼が紹介されています。
現在の日本で死者にお経をあげるように、弥生時代には歌と舞で、死者の魂を鎮(しず)めようとしたのです。
筆者は、アメノウズメの裸の舞は天照大御神の葬式を表していると考えています。
実際にアメノウズメの子孫である「猿女君(さるめのきみ)」と呼ばれる人々は、大和朝廷で祭祀を担当しました。
ですからアメノウズメの末えいである稗田阿礼も、シャーマンや宗教者である可能性が高いのです。
民俗学者の柳田国男氏などは、アメノウズメの女性説(巫女説)まで唱えています。
稗田阿礼は、姓(かばね)も官位ももらっていない、非常に位の低い人間です。いくら記憶力があっても、このような下級の人間に、国の歴史書編さんなどという国家事業が任されたことは、『古事記』最大の謎でした。
しかし稗田阿礼が天照大御神(卑弥呼)の鎮魂を行なったアメノウズメの末えいだから、と考えれば納得できます。
血統に優れたシャーマンである稗田阿礼が誦習=「語る」ことで、天照大御神の敗者の怨霊を鎮魂しようとしたのです。
『古事記』がなぜ「語り」口調で記されているのか、なぜ「誦習」という無駄に思えるプロセスを挟んだのか、なぜ稗田阿礼が関わったのか……古事記鎮魂書説なら、すべての謎を解決できます!
鎮魂祭と天岩戸隠れと天照大御神とアメノウズメ
天武・持統天皇が行った天照大御神の鎮魂政策はもう1つありました。「鎮魂祭」です。
上で少し触れたのですが、新嘗祭(大嘗祭)の前日に天皇が行う儀礼が、鎮魂祭です。
『古語拾遺』という平安時代の文献に、鎮魂祭の由来が書かれています。
「凡そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡なり」……つまり鎮魂祭の起源は、天岩戸隠れ神話のアメノウズメの舞にある、というのです。
実際に、先ほど紹介したアメノウズメの子孫である猿女君は、鎮魂祭で舞を踊りました。
卑弥呼=天照大御神の死と鎮魂が繋がりましたね。
鎮魂祭とは?平安時代は魂を糸で結んだ【魂結び】
ただこのこの鎮魂祭は、いわゆる死者の魂を慰める――現代の「鎮魂」とは意味合いがかなり違っている点に気をつけなければなりません。
鎮魂祭とは、天皇の魂が身体から遊離しないように(鎮めて)繋ぎとめることで、その長命を祈る儀式です。
平安時代では、人の魂は放っておくと身体から遊離する(あくがれてしまう)と考えられました。すると霊力が落ち、命を失うことになります。ですから「魂結び(たまむすび)」という鎮魂のまじないをして、自身の魂をつなぎとめようとしました。
『源氏物語』や『伊勢物語』などに「魂結び」の歌が残っています。魂結びの具体的な方法が、「木綿結び」です。木綿の糸や紐を結ぶのです。
実際に鎮魂祭は4つの儀式にわかれており、「木綿結び」「神宝振り」「鉾(ほこ)でつく」「猿女の舞」と、木綿結びが用いられています。
鎮魂の意味が違うのだから、「古代の鎮魂祭に、死者の魂を慰める=怨霊鎮魂の意味はない」と唱える者は多いです。
ただ先ほど紹介した『古語拾遺』や、他にも『先代旧事本紀』などに鎮魂祭の解説が載っているのですが、そこでは「鉾でつく」「猿女の舞」「神宝振り」のことしか書かれていないのです。
つまり「木綿結び」は、初期の鎮魂祭にはない儀礼だった可能性があるのです。
鎮魂祭をすることで天皇が長命になる……というのは、逆にいうと行わないと短命になるのでは?
飛鳥奈良時代の天皇家は代々短命だったり、皇太子が死亡したりしました。天武・持統天皇は、これを怨霊となった天照大御神(卑弥呼)の祟りだと解釈しました。
ですから天照大御神を最高神とする日本神話の編さんや、伊勢神宮の創建、『古事記』の語りなど、あらゆる手段を用いて天照大御神の鎮魂を行おうとしました。
鎮魂祭ももともとは、天照大御神の鎮魂の儀式だったのでしょう。
ですから卑弥呼の葬送儀礼(舞)を担当したアメノウズメの子孫である、猿女君の舞が必要だったのです。
鎮魂祭に木綿結びの儀式が追加されたのは、魂結びの観念が生まれた平安時代以降のことだと思われます。
民俗学者の折口信夫氏は、鎮魂祭の古い形は「死者の魂を自らの魂に結びつけ、自らの霊威力を高めること」だと説明しています。
ですから鎮魂祭の解釈には、次のような変遷があったのでしょう。
- 飛鳥時代……死者(天照大御神)の魂を慰めて鎮める
- 奈良時代……死者の魂を自らの魂に結びつけ、自ら(天皇)の霊威力を高める
- 平安時代……生者(天皇)の魂が遊離しないように結びとめる
- ~現在………天皇自身の魂を結び留めて長命を祈る
【豊受大神】謎の神トヨヒルメのモデルは台与?
最後におまけとして、台与について解説します。
伊勢神宮では、天照大御神と豊受大神(トヨウケノオオカミ)が一緒に祀られています。
天照大御神が卑弥呼なら、豊受大神は卑弥呼の後を継いだ「台与(とよ)」ではないか、と唱える人がいます。
これは正しくもあり、間違っているともいえます。
そもそも豊受大神とは「トヨウケビメ」という神で、これは穀物の神です。女神という共通点はあるものの、神の性質や経歴、神社の分布などを見ても台与との関連は見られません。
ですから、トヨウケビメのモデルが台与ということはないと考えてよいでしょう。
ただし重要なのは、伊勢神宮の豊受大神は、かつて「豊日孁(トヨヒルメ)」と呼ばれていたという事実です。
豊日孁(トヨヒルメ)とは謎の神で、一般的には天照大御神の別名だと考えられています。
福島県の「日祭神社」や鹿児島県の「豊日孁神社」などではかつて豊日孁(トヨヒルメ)を祀っていましたが、今では天照大御神を祀っています。
他には、先ほど紹介した鎮魂祭で歌われる呪文でも登場します。
「あちめ一度 おおおお三度 上ります 豊日霊(とよひるめ)が 御魂ほす 本は金矛 末は木矛」(『年中行事秘抄』)
筆者はこのトヨヒルメこそ、台与のことだと考えています。
というのも、天照大御神の別名が「大日孁貴神(オオヒルメノムチ)」だからです。
「オオ ヒルメ ノ ムチ」は「大いなる日女(ひるめ)の神」という意味です。卑弥呼は太陽神の巫女でしたから、そのまま卑弥呼を表しているのでしょう。
ならば「トヨ ヒルメ」は「豊(台与)の日女」という意味ではないでしょうか?
古代においては卑弥呼は「オオヒルメ」、台与は「トヨヒルメ」と呼ばれたものの、やがて天照大御神に習合されたということです。
ですから豊受大神(トヨウケビメ)は台与=トヨヒルメとは本来無関係でしたが、天照大御神とトヨウケビメを一緒に祀られたことと、「トヨ」の字が似ていたために、伊勢神宮の豊受大神に限り、トヨヒルメ(台与)と同一視されるようになったのではないか……と解釈できるわけです。
もしかしたら、古代にはオオヒルメとトヨヒルメが祀られていて、後に天照大御神と豊受大神に置き換えられたのかもしれません。
天照大御神は天皇家の先祖神ではなかった!天武・持統天皇のタカミムスビすり替え説
天照大御神は本来天皇家の先祖神ではなかったものの、その怨霊による祟りを恐れた天武・持統天皇によって、本来の先祖神であるタカミムスビと位置が入れ替えられました。
『古事記』の誦習も、『日本書紀』の歴史修正も、伊勢神宮の創建も、宇佐神宮の保護も、鎮魂祭も、すべては天照大御神=卑弥呼を鎮魂するための政策だったのです。
この視点で見れば、邪馬台国と大和朝廷の謎のほとんどを解くことが可能です。
天照大御神の鎮魂完了とともに、武力王だった天皇は祭祀王へと変化し、倭国から律令国家「日本」が誕生しました。
まじないや祟りといった価値観が蔓延していた古代日本の謎は、歴史学や考古学だけでなく、民俗学の方法論なくしては解けないことがわかってもらえたと思います。
全7回の長い連載となりましたが、最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
次回は番外編「連載まとめ」として、縄文時代から弥生時代、邪馬台国、大和朝廷、そして日本までの古代日本史を、時系列順にわかりやすくまとめようと思います。
本記事執筆にあたっての主な参考文献リストは、記事の一番最後に載せてあります。
参考文献
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