日本人のルーツから邪馬台国、大和朝廷、そして日本の誕生まで――民俗学の方法論古代日本の謎を解き明かしていく全7回の連載『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』

第1回では、日本神話の最高神の「天照大御神(アマテラス)」と邪馬台国の女王「卑弥呼(ひみこ)」の謎を追求。天照大御神のモデルが卑弥呼である可能性が高いことを紹介しながら、この説が成り立たない大きな問題についても解説しました。

今回は邪馬台国の最大の謎ともいえる「比定地」……つまり、邪馬台国の場所を徹底追及します。

邪馬台国はどこにあったのか……江戸時代から200年以上にわたって繰り返されるも、いまだに決着がつかない論争。主流は九州説畿内説(近畿説)の2つです。

歴史学者は九州説を主張し、考古学者は畿内説を主張する……なぜこんな矛盾が起きてしまうのか?

この矛盾を解決するのが、「邪馬台国東遷説」です。邪馬台国が九州から畿内に移動したという仮説です。

今回は邪馬台国東遷説の根拠を紹介。さらに「なぜ東遷したのか」という謎をはじめ、東遷説の問題点や批判点を音韻学地名学民俗学の方法論で読み解いていきます。

また「邪馬台国の場所がなぜわからないのか」「文献批判」といった問題についてもわかりやすく解説しますので、初心者にもオススメです!

邪馬台国がどこにあったのかわからない理由:歴史学と考古学

そもそも中世の日本では、「邪馬台国」は「やまとこく」と読まれ、当然のように邪馬台国は大和=畿内にあると思われていました。つまり邪馬台国は「大和朝廷」の前身だと考えられていたのです。

しかし江戸時代になり、新井白石や本居宣長といった学者による研究がはじまると邪馬台国は「やまたいこく」と読まれるようになり、場所は九州ではないかという説が唱えられます。ここから現代まで、邪馬台国はどこにあったのかという論争が繰り広げられることになりました。

出雲説四国説北陸説尾張説東北説、果ては韓国説東南アジア説など収束のきざしが見えない混迷っぷりですが、やはり本命は九州説畿内説(奈良・近畿説)です。

はじめは東大の学者が九州説を主張し、京大の学者が畿内説を主張していたのですが……中国の歴史学の研究が進んだり、C14年代測定といった化学的な手法が考古学に用いられるようになった結果、現在では主に歴史学者が九州説を、考古学者が畿内説を主張しています

もちろん畿内説を主張する歴史学者もいますし、九州説を主張する考古学者もいます。あくまで傾向の話です。

ところで、歴史学と考古学ってなにが違うのでしょうか?

古代史研究家には、おもに2種類の人間がいます。すなわち「歴史学者」と「考古学者」です。

文字のある時代=「歴史」を解き明かそうとするのが歴史学者で、史料(文献資料)を研究します。

対して文字のない時代=「先史」を解き明かそうとするのが考古学者で、遺跡や遺物(物的資料)を研究します。

邪馬台国のあった弥生時代は、日本には文字がありませんから「先史」ともいえます。しかしお隣の中国にはすでに文字が存在し、当時の日本のことを記した文献があるので「歴史」ともいえます。

そのため歴史学者と考古学者がそれぞれの方法論で邪馬台国の比定地(場所)を研究したのですが……その結果、おかしなことになってしまったのです。

考古学者が日本に残る古墳や遺跡を研究したら畿内説が有利となり、歴史学者が中国の文献を研究したら九州説が有利となってしまったのです。

奇妙ですよね。コナン君は「真実はいつも1つ!」と言いますが、これでは真実が2つあるようではないですか。

しかし、ここで逆転の発想をしてみましょう。

えらーい学者さんたちが長い年月をかけてその説を主張しているということは、どちらの説も正しいということではないでしょうか? つまり、邪馬台国は九州にも畿内にもあったと考えるのが妥当なんです。

なにをいっているんだと思う人もいるかもしれませんが、この矛盾を解きほぐす仮説があります。それが「邪馬台国東遷説」です。

「東遷(とうせん)」とは「東に遷(うつ)る」という意味で、つまり九州にあった邪馬台国が、畿内に移動したという説です。大正時代に古代史家の和辻哲朗氏によってはじめて提唱されました。

この東遷説は、今までの邪馬台国や日本の古代史に関するさまざまな謎に答えをもたらしました。しかし東遷説支持者は同時に、「なぜ東遷したのか」という新たな謎に悩まされることになりました。

しかしこれらの謎も、歴史学と考古学とが学問の領域を超えて研究し合えばあっさり解けそうな気がするものです。この現代の歴史学の問題や、民俗学がどういった学問かは第1回で説明しましたね。

ということで今回は、民俗学を専攻した筆者が東遷説の根拠を紹介し、なぜ東遷したのかという謎を民俗学の方法論で考察していきます。

『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は99.9%九州にあった

福岡県の吉野ケ里遺跡

99.9%と強気に書いてしまいましたが、これは邪馬台国東遷説の熱烈な支持者である古代史研究家の安本美典氏が、ビッグデータをもとに算出した統計分析の結果です。

筆者の説は安本美典氏のものとは異なるのですが、『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は、まぁどう考えても九州にあります。

ただし「『魏志倭人伝』に書かれた」という前提が重要です。

第1回のおさらいになりますが、「邪馬台国」は弥生時代の日本に存在したとされるクニです。

当時の日本(倭国)にはたくさんのクニがあり、それらのクニをまとめあげたのが邪馬台国の女王「卑弥呼」でした。

しかし当時の日本に文字はありません。邪馬台国は、中国の歴史書『三国志』の中にある『魏書』の「東夷伝」の「倭国条」で紹介されています。これを日本では一般に『魏志倭人伝』と呼びます。

弥生時代の東アジア

なお『魏志倭人伝』(3世紀末に成立)以外にも、『後漢書』(5世紀)や『旧唐書』(10世紀)など邪馬台国は他の中国の文献にも登場します。しかし『魏志倭人伝』が初出で、他はここからの孫引きであるとされています。そのため邪馬台国があった3世紀の人間である「陳寿」が書いた『魏志倭人伝』がもっとも重要視されているのですね。

『魏志倭人伝』では中国人は、朝鮮半島の帯方郡(現在のソウル付近)から日本海を南下し、九州北部の対馬国(対馬島)から日本に入ったことが記されています。そこから邪馬台国までの行程が書かれているのですが……この行程の通りに位置を算出すると、九州南端を突き抜けて太平洋上に着いてしまうのです。

ですからこの行程記事に、さまざまな修正や解釈を加え、九州や畿内に納めようとしたわけです。

最大の問題は「南、邪馬台国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月」という記述です。九州から南に向かって海で10日間、陸で1月も移動すれば、九州を突き抜けてしまいますよね。

これを畿内説では、「当時の中国人がを間違えて記述した。本当は九州から東へ向かっている。よって邪馬台国は畿内である」と解きます。しかしこれは、とうてい受け入れられない解釈です。

なぜなら畿内説も、朝鮮半島から奴国(現在の博多辺り)までの方位は正しいとしているのです。そして奴国から先は方位が間違っているというのです。そんな都合の良い読み方はないでしょう。

そもそも国から派遣された航海のプロが東西南北を誤るというのは、古代人をバカにしすぎです。航海士にとって方位はもっとも重要でした。

そこで九州説では、「短里説(当時の一里と今の一里は異なる)」「放射説(記述の仕方が異なる)」「誇張説(数値をわざと大きく書いている)」、「『水行十日+陸行一月ではなく『水行十日or陸行一月』である説」、「水行は『海旅』ではなく『川旅』である説」などの解釈や修正を加えます。原文のままではないものの、『魏志倭人伝』の中では矛盾がないため受け入れらます。

そもそも中国人や台湾系の学者で、日本の歴史を専門に研究している人は総じて九州にあったと解釈しています。

九州の中のどこかは説が別れるようですが、畿内なんて話はそもそも浮上せず、日本における四国説や東北説のようなマイナーな説なんです。それくらい、『魏志倭人伝』を文献史料として普通に読めば、邪馬台国の場所は九州になるのです。

また『魏志倭人伝』では倭国の各クニを紹介した後、「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有りて、皆、倭種」と書いています。つまり九州のの海を渡った先にまた国があって、これも倭人(日本人)だと紹介しているのです。

これは明らかに四国中国地方のことでしょう。ここでも『魏志倭人伝』の方位が正しいことがわかりますし、畿内説のいうように本当に東と南を間違えているのなら、それこそ太平洋上に日本の国があることになります。

畿内説は「漢文の読み方はどうとでも読みとれる」と言いますが、それは漢文の誤解ですし、バカにしすぎでしょう。

中国・台湾系の歴史学者の邪馬台国の本では、沈仁安氏や謝銘仁氏、王金林氏などの本は日本でも訳本が出ているので、興味のある方は一読をオススメします。

つまり『魏志倭人伝』に書かれた倭国とは九州のことなのです。もちろん九州の東にも倭人の国があることは中国人は知っています。ただそれらの国は中国に朝貢(中国皇帝に貢物を持っていき王国として認められること)していないので、「倭国」に勘定していないというだけのことです。

では、なぜ日本では畿内説がこれほどメジャーな説なのでしょうか。

それは主に2つあります。大和朝廷との関係と、考古学上の証拠です。

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【考古学】纏向遺跡と箸墓古墳は邪馬台国畿内説の根拠になるか?


弥生時代が終わり古墳時代に入ると、日本を支配したのは「天皇」の統治する「大和朝廷」です。近年は「ヤマト王権」や「ヤマト政権」などの表記が適切との意見がありますが、ここでは大和朝廷とします。

そもそも江戸時代までは邪馬台国は「やまとこく」と読まれ、当たり前のように邪馬台国は大和朝廷と同一、もしくは前身であと解釈されてきました。「やまたいこく」と読まれるようになってからも、邪馬台国と大和朝廷には連続性があるという説は根強く、ならば邪馬台国は大和――つまり畿内にあると思われたのです。

もちろん、邪馬台国と大和朝廷には関係がないという説を唱える人もたくさんいます。現在、邪馬台国畿内説が唱えられている最大の理由は、考古学上の知見によるものでしょう。

なんといっても奈良県桜井市の「纏向遺跡(まきむくいせき)」です。

奈良盆地東南部に位置する大規模集落遺跡で、日本最初の計画都市とされています。今までは古墳時代前期を中心とする遺跡で、ヤマト政権発祥の地と呼ばれていたのですが……畿内説では邪馬台国の最大の候補地でした。日本最古級の前方古円墳、「箸墓古墳(はしはかこふん)」こそ卑弥呼の墓だとしたのです。

纏向遺跡の箸墓古墳

放射性同位体を使った「C14測定法」という、まぁ難しい化学的な調査方法が考古学に導入され、2008年から纏向遺跡の調査がはじまりました。

その結果古墳時代前期ではなく弥生時代末期まで掘り下げられ、2018年の桃の種の調査結果では、纏向遺跡が3世紀中頃までに成立した可能性が高まりました。

3世紀中頃といえばまさに卑弥呼の時代です。3世紀中頃の遺跡としては当時最大級のものであり、この奈良盆地に強大なクニがあったことは疑いようもありません。

考古学はウソをつかないからです。もちろんC14年代測定法には誤差もありますが、それでもこの事実は揺るぎません。

つまり畿内説では、当時の倭国の統一王は畿内にあった邪馬台国は畿内にあった、というのですね。

一見すると筋が通っているように思えます。

しかし、ではなぜ『魏志倭人伝』の記述と矛盾するのでしょうか。

民俗学で読み解く邪馬台国九州説


行程だけではありません。

『魏志倭人伝』には倭国の風習気候風土慣習生業が細かく書いてあります。それらはことごとく北部九州のものと一致し、畿内と異なります。

「禾稲、紵麻を種え」「倭の水人は沈没して魚、鰒を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭う」「真珠、青玉を出す」「倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す」

倭人は海でアワビを獲るのが得意な稲作漁労民です。海人族に共通する海難除けの入れ墨の習俗をもっていました。奈良に海はありません。また環境は九州を思わせる温暖な気候でした。

「紵麻を種え、蚕桑す。緝績して細紵、縑、緜を出す」「木弓は下を短く、上を長くす。竹箭は或いは鉄鏃、或いは骨鏃」

鉄の矢じりを用い、上質な絹織物を作っていたと書いてあります。絹織物は中国への朝貢の記録にも残っています。どちらも弥生時代の北部九州では出土するものの、畿内では発見されていません

「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩」「その死には、棺有りて槨無し」

畿内説では纏向遺跡にある箸墓古墳を卑弥呼の墓としていますが、卑弥呼の墓は円墳(円形の古墳)です。箸墓古墳は前方後円墳(かぎ型)です。

さらに倭人の埋葬には棺(ひつぎ)はあるが、棺を保護する外槨(がいかく)はないとしています。これは北部九州で見られる「甕棺墓(かめかんぼ)」と一致しますが、纏向遺跡の古墳はことごとく外槨をもっています

こういった記述の矛盾を、畿内説では「『魏志倭人伝』は中国側の一方的な記録だから信用できない」と退けます。たしかに考古学のデータはウソをつきませんが、だからといって文献を有利にねじ曲げていい理由にはなりません。

弥生時代の畿内に、大和朝廷の元になった当時日本最大勢力のクニがあったということが今後わかったとしても、それは邪馬台国ではなく、プレ大和朝廷でしかないのです。

なぜならそもそも邪馬台国は、中国の文献にしか登場しないクニだからです。『日本書紀』などの日本神話や日本の歴史書には一切登場しません。

棺有槨無の甕棺(吉野ケ里遺跡)

中国の文献にしか登場しないクニを、中国の文献をねじ曲げて研究するというのを奇妙だと思うのは、筆者だけでしょうか?

本当に中国の文献がアテにならないなら、「『魏志倭人伝』は真っ赤なウソであり、邪馬台国なんて存在しない」もしくは「邪馬台国の情報はすべてウソであり、中国に隠蔽された真の邪馬台国は畿内にあった」とでもいったほうがまだ筋が通っているといえるでしょう。

はじめに「『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は99.9%九州にあった」といったのは、こういった理由からです。

「邪馬台国は中国の文献にしか登場しないのだから、中国の文献を最大限尊重すべきである」というのが筆者の邪馬台国観です。

なお箸墓古墳の問題と、本当の卑弥呼の墓がどこにあったのかは、第5回でくわしく紹介しています。

地名学と神話学と考古学が示す「邪馬台国東遷説」

ここまでのお話をまとめます。

歴史学(文献調査)の研究によれば、邪馬台国は北部九州にあった。しかし考古学のデータでは同時期に、畿内には当時最大級のクニが存在したことがわかっており、それはおそらく大和朝廷に繋がった

この2つの事実から導きだされる、もっとも単純な仮説は……大和朝廷(畿内)と邪馬台国(九州)は同時期に成立していた無関係なクニ、となります。

しかしここまでの歴史学と考古学の知見に、地理学や神話学、音韻学に民俗学の視点を加えると、面白い事実が見えてきます。

それが、邪馬台国東遷説です。

九州と近畿(畿内)の地名相似(一致や類似)

まずはこの画像を見てください。

九州と近畿(畿内)の地名の一致(著者作成)

九州畿内(近畿)の地名を比較した地図です。

山門(やまと)郡、三潴(みずま)郡、鷹取(たかとり)山、平群(へぐり)郷、住吉神社、志賀島、春日市、京都(みやこ)郡、海部(あま)郡、五十鈴(いすず)川、日向(ひゅうが)、伊勢ヶ浜、大森岳、桑原郡、出水(いずみ)郡、日置郡、笠祇(かさぎ)岳、大島、市木川、鵜戸(うど)神社、熊野……

大和(やまと)、水間(みずま)郡、高取(たかとり)山、平群(へぐり)郡、住吉神社、滋賀国、春日、京都市、海部(あま)郡、五十鈴(いすず)川、日向(ひゅうが)、伊勢湾、大森山、桑原郷、和泉(いずみ)郡、日置町、笠置(かさぎ)山、大島、市木川、鳥止野(うどの)神社、熊野市……

漢字は違うものの、驚くほどに地名が一致、もしくは類似しています。

しかもただ似ているだけではありません。位置関係までほとんど同じなのです。

この九州と近畿の地名相似は、地名学者のあいだではもともと有名でした。地名学者の鏡味完二氏が最初に指摘したのですが、その後、考古学者の奥野正男氏の追跡調査によって80以上の地名の類似が確認されました。

ただ、地名なんてわりとどこでも同じだったりするものです。そこで全国の地名相似の研究がはじまりました。

その結果、たしかに日本全国に地名の類似や一致はみられるものの、九州と近畿の地名相似数はズバ抜けているというデータが得られたのです。民俗学者の折口信夫氏はこの現象を、九州と畿内の間で大きな集団の移住があったのでは、と解釈しました。

たとえば近代でも、北海道を開拓した屯田兵が、かつての故郷の名に因んだ地名を各地に名づけた例があります。奈良県の十津川と北海道の新十津川や、北広島などは有名ですね。

鏡味完二氏や奥野正男氏はこの民族移動の事実を、日本神話における「神武東征」の元ネタであり、邪馬台国東遷説の証拠だとしたのです。

そもそも歴史学者や神話学者のあいだでは、邪馬台国東遷説は戦前からメジャーな説でした。

というのも、『古事記』や『日本書紀』といった日本神話を読めば、大和朝廷(天皇家)のルーツは九州にあるとはっきり書いてあるからです。

日本神話の舞台が九州である理由

日本神話を読んだことがある人はご存知だとは思いますが、日本神話の舞台はほとんどが九州です。その次に多いのが出雲(島根)です。

『古事記』や『日本書紀』は、神話でありながら歴史書でもあります。

たとえば『古事記』なら上巻が神代、中・下巻は史書、『日本書紀』は1・2巻が神代、3~30巻は史書とわけられていて、この神代にあたる部分を一般的に「日本神話」と呼びます。

日本神話はまず、創世神話からはじまります。イザナギとイザナミの「国生み神話」は有名ですね。

次が根の国(死者の国)や高天原(神々が住む天上世界)の神話です。イザナギや天照大御神(アマテラス)が活躍し、第1回でお話した「天岩戸隠れ神話」はここに含まれます。ここまでは日本列島は舞台ではありません。

天岩戸隠れ神話

この次が、スサノオや大国主命(オオクニヌシ)の「国造り神話」です。ここから日本列島の出雲が舞台になります。「ヤマタノオロチの退治」が有名ですね。

しかし天照大御神率いる天津神(高天原の神々)が日本列島に現れ、オオクニヌシは日本列島の統治権を天照大御神(天津神)に渡します。いわゆる「国譲り神話」です。

今回は関係ないのでスルーしますが、国譲り神話にはおぞましい真実が隠されているという話を以前しましたね。興味のある方はコチラからご覧ください。

こうして天照大御神による日本列島の統治がはじまります。天照大御神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)が九州に降臨します。

天照大御神の子孫を「天孫(てんそん)」というため、「天孫降臨神話」と呼ばれます。日本神話によれば天照大御神の孫のひ孫が初代天皇にあたるため、天皇家及び天皇家の祖先は「天孫族」とも呼びます。

日本神話の「神武東征」は史実?邪馬台国東遷説とは

神武東征の図

ここからしばらく九州が舞台になるのですが、ニニギノミコトのひ孫である磐余彦尊(カムヤマトイワレビコ)の誕生によって神代は終了します。

というのも、日本神話によればカムヤマトイワレビコは神ではなく人間だからです。

しかしカムヤマトイワレビコや、その後の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の話も、「歴史的事実のように書かれた神話的物語」だとされているため、彼らのお話も一般的には日本神話に含まれます。ということで、もう少し話を追ってみましょう。

イワレビコは九州を発ち、山陽地方(中国地方の瀬戸内海側)を経由して、現在の大阪から畿内に入り、長髄彦(ナガスネヒコ)を中心とした土蜘蛛(つちぐも)を倒します。

土蜘蛛とは、まつろわぬ民=イワレビコやその後の大和朝廷に服属せずにあらがった民族の蔑称です。

こうして畿内を征服したイワレビコは、大和(現在の奈良盆地)の地で初代天皇として即位し、大和朝廷を開きます。これが「神武天皇(じんむてんのう)」です。天皇による日本の統治は、象徴というかたちに変わったものの、現在まで続いているといえます。

この神武天皇の戦いを「神武東征」といいます。

神武天皇像

天皇家が神の一族であるとか、天皇家の先祖神(皇祖神)が天照大御神だとされているのは、こういった経緯があるからなんですね。

日本神話をそのまま素直に受け取れば、天皇家のルーツは九州にあり、その後畿内に移動したということになります。

現在の歴史学会や考古学会では、日本神話は天皇家(大和朝廷)の権威付けのための創作であるとして、史料として扱いません。

しかし、よくよく考えてみればおかしな話です。天皇家(大和朝廷)の権威を高めるためにまったくの空想をでっちあげたのなら、日本神話には畿内(大和)の地名が一番多く出てきそうなものです。ですが実際は、九州の地名が一番多い

だいたい天皇家のルーツが畿内にあるのなら、素直に日本神話や天孫降臨の舞台を畿内とし、大和を本拠地に全国の統治を進めた……と書いたほうが朝廷の権威を高められるでしょう。

ちなみに日本神話には、天皇家以外に「大伴氏」「中臣氏」「物部氏」といった大和朝廷の中心的役割を担った豪族のルーツも描かれていますが、それらもことごとく九州の神々で、天孫族と同じ天津神(あまつかみ)です。

反対に大和にルーツをもつ「三輪氏」や「磯城氏」、「宇陀氏」などはすべてオオクニヌシといった天津神に日本をゆずった「国津神(くにつかみ)」を先祖神としています。

朝廷の創作であるなら、わざわざ権威を損なうような書き方をするわけがありません。このような解釈は非合理的です。

天皇家、および大和朝廷の人たちは、「自分たちの祖先はもともと九州にいた」という伝承、もしくはそういったおぼろげな記憶を持っていたと考えるほうが合理的ではないでしょうか?

もちろん、日本神話には神話的な荒唐無稽なエピソードもありますし、天皇が本当に神の子孫であるわけがありません。脚色だって大いに含まれているでしょう。神武東征には、奈良時代の「壬申の乱」の事績が反映されていることがわかっています。

筆者は日本神話は完全なるフィクションではなく、先祖から伝えられてきた神話や説話に、史実を加えて、朝廷側が脚色や編集を行って作りあげられたと考えています。

日本神話は史実?創作?誤った文献批判

戦前は日本神話と結び付けて、天皇および大日本帝国の権威付けが行われました。いわゆる皇国史観です。この時代には、神話を疑うことは国家への反逆と見なされ罰されました。

しかし戦後においては反対に、日本神話はすべて荒唐無稽なフィクションだとされ、文献資料として扱うことはタブーになってしまいました。

たしかに神話を絶対的な事実とした、戦前の歴史観は科学的とはいえません。しかしアレルギーのようにすべてを無視するのも、非科学的でしょう。

こういった神話の軽視は世界中で起こった現象です。「文献批判(テキスト・クリティーク)」と呼ばれる研究方法が世界を席巻した時代です。

もちろん文献批判は、歴史の研究において非常に重要な作業です。しかしかといって、すべてを疑い、神話の類は全部フィクションであると切り捨てるのでは、文献批判ではなく「文献無視」です。

実際に近代の歴史学や考古学では、この文献無視のために重要な真実から遠ざかった問題がいくつも起こりました。

もっとも有名なのが、シュリーマンの「トロイア」発掘です。

トロイア遺跡

トロイアとは、『イリアス』や『オデュッセイア』といったギリシア神話に出てくる伝説の都市です。「トロイの木馬」で有名ですね。

歴史学者たちは、『イリアス』や『オデュッセイア』はホメロスのフィクションであり、トロイアは実在しないと研究対象にしていませんでした

しかしアマチュア学者だったシュリーマンによってトロイアが発掘されてしまい、歴史学会は混乱の渦に落とされてしまいます。

中国でも「夏王朝」「殷王朝」は近代には神話であるとされていましたが、現在では殷王朝は史実として扱われています。また夏王朝の存在を示す遺跡も続々と発見されています。

日本でも同じです。先ほど書きましたように、日本神話の第2の舞台は出雲(島根)です。ですから古代の出雲には、かつて強大なクニがあったのだろうとされていました。

しかし戦後、日本神話が文献資料として扱われなくなってしまうと、「出雲に考古学的な遺跡は見るものがないから」と日本神話は無視され、古代出雲に大きな勢力は存在しなかったというのが、戦後40年間における歴史学界の通説でした。そのため出雲における大規模な発掘はながらく行われなかったのです。

しかし1983年、出雲ロマン街道という道路の建設にあたって、荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)という弥生時代の遺跡が偶然発掘されます。

荒神谷遺跡の出土品

荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が見つかったのですが、これは当時全国で発掘されていた銅剣をすべて合わせた300数本を大きく上回る本数です。古代出雲には強大なクニが存在したことが明らかになり、古代史学界はひっくり返りました。

それから発掘調査が行われるようになり、近年でも続々と遺跡や遺物が見つかっています。日本神話を軽んじた結果、古代出雲の研究は40年も遅れることとなったのです

話が逸れてしまいましたが、つまり日本神話には「史実の核」が含まれている可能性が高いということです。そこには当然、邪馬台国の時代も反映されているでしょう。

天皇家のルーツが九州にあるのは、大和朝廷のルーツは九州の邪馬台国にあるからで、その後の畿内への東遷が、神武東征に反映されているのではないでしょうか?

なお九州と近畿(畿内)の地名相似は、「九州→近畿ではなく、近畿→九州の可能性もあるのでは?」と思う人もいるかもしれません。

ということで九州→近畿である根拠を、次に紹介します。

考古学が示す神武東征(邪馬台国東遷説)の証拠

実は考古学上のデータからも神武東征=邪馬台国東遷説を裏付ける証拠が見つかっています。

弥生時代の銅剣・銅鉾文化圏銅鐸文化圏といえば、高校の日本史でも習う弥生文化の基礎知識です。

北九州から瀬戸内海にかけては銅剣と銅鉾(どうほこ)が多く出土し、畿内(近畿から中部)では銅鐸(どうたく)が多く出土します。

そのため畿内と九州では、異なる文化圏の勢力が存在したとされています。もちろん、九州でもわずかに銅鐸が出土することもありますので、両者にまったく交流がなかったわけではありません。

九州で出土するのは銅剣だけではありません。

日本神話になんども登場し、また天皇の証でもある三種の神器――つまり鏡と剣と勾玉の3点セットは、弥生時代には北九州の墳墓からしか出土しません。この時代の権力者の象徴だったことがうかがえます。

弥生時代の畿内で出土する銅鐸とは、鐘(かね)のことですが、楽器というより祭祀に使われた「祭器」だったとされています。しかし銅鐸は、日本神話には一度も登場しません。

銅鐸

こういった考古学との比較でも、日本神話の舞台が九州にあることがわかると思うのですが……面白いのはここからです。

なんと弥生時代には九州の墳墓から出土した鏡と剣と勾玉ですが、古墳時代に入ると畿内の墳墓からも三種の神器が出土するようになるのです

そして同時に、弥生時代末期に盛りを迎えた銅鐸文化は突然にして消滅するのです。まるで三種の神器の文化と入れ替わるように。

これは外部勢力による征服のせいだと考えられています。その外部勢力とは、三種の神器をたずさえた、北九州の人間ではないでしょうか。なぜなら古墳時代になると、北九州の墳墓からは三種の神器が出土しなくなるからです。

三種の神器だけではありません。墳墓の棺を朱色で塗る習慣や、鉄製品絹織物の出土も、弥生時代にはほぼほぼ北九州でしか見られませんが、古墳時代になると畿内からも大量に発見されるようになります。

鉄と絹が『魏志倭人伝』に書かれた倭国の特産品であることは先に述べました。そもそも大陸との交易をあらわす大陸産の遺物も、北九州が圧倒的ですから、中国と密接に結びついていた倭国九州を指すと見るべきでしょう。

そしてこれらの考古学上の事実は、北九州の権力者たちが畿内へ移動し、もともといた勢力を征服したことを雄弁に物語っています。この民族移動が神武東征の元ネタになったと筆者も考えています。

これらの理由から、九州説と畿内説の矛盾を解消する邪馬台国東遷説は、九州系や東大の歴史学者を中心に支持されています。井上光貞氏原田大六氏などは、古代史を学んだ人なら誰もが知っている大家ですが、東遷説を熱心に唱えました。

邪馬台国は九州の筑後山門にアリ

ここまで筆者は漠然と、「邪馬台国は九州にある」と説いてきましたが、正確には、筑後山門(ちくごやまと・現在の福岡県 柳川~八女市一帯)」にあったと考えています。

現在、福岡県の山門といえば、みやま市の小さな地域を指しますが、2005年の市町村合併までは柳川市に「大和町」があったように、明治初期まではみやま市~柳川市の大部分を山門郡と呼んでいました。古墳などの出土状況から、古代においては現在の八女市も「山門」に含まれていたのでしょう。

九州と畿内の地名の類似でも触れたのですが、「ヤマト」は九州にもあるんです。

しかも畿内には「国名」としての大和・倭(ヤマト)は存在するものの、固有地名としての 「ヤマト」 は存在しません。

対して九州には、福岡県の「筑後山門」や熊本県の「肥後山門」、大分県の「豊前山戸」など、地名としての 「ヤマト」 がいくつか残っています。

畿内に花開いた大和朝廷による、「国名としての大和(倭)」は、弥生時代の九州邪馬台国の名称を、東征後に大和朝廷が引き継いたと考えられます。

つまり、邪馬台国は「ヤマト国」だったということです。

邪馬台国(邪馬臺)の読み方はヤマト?当時の発音はヤマドィ?

第1回でも書きましたように、『魏志倭人伝』に書かれた「邪馬台国」という国名は当時の中国人の聞き書きです。正しい漢字も発音もわかっていないというのが現状です。

そのため「ヤマト」を「ヤマタイ」と聞き間違えた可能性はおおいに考えられるわけです。

たとえば『隋書』に、600年ごろに中国に来た倭国の王の名が載っています。「姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌」

これは「名はアメのタリシヒコ 称号はアヘギミ」という意味になります。「アメのタリシヒコ」が誰かは説がわかれますが、「アヘギミ」「オオキミ」のことだというのは、どの学者の意見でも一致します。つまり、古墳時代の大和朝廷の王の称号「大王」です。

オオキミとアヘギミではまったく発音が違いますよね。

そもそも「邪馬台」を「ヤマタイ」と読むのは、現在の日本の訓です。邪馬台国は中国人の聞き書きなのですから、中国式の発音で読まなくてはなりません。

しかし『魏志倭人伝』を含む『三国志』が編集された時代(280年ごろ)の中国の音韻は、「上古音」から「中古音」へ、発音システムの移行期にあたるため、正しい発音は確定していません

学研から出ている『学研漢和大字典』によれば、「邪馬臺」(邪馬台の旧字体)は上古音では[ŋiǎg-mǎg-dəg]、中古音では[yiǎ-mǎ-dəi]となります。

ただし確定している地名は、中古音の方が適合度が高いため、中古音だったと仮定します。

「yiǎ-mǎ-dəi」は「ヤマドィ」と読みます。「ヤマト」に非常に近い発音になりましたね。

古代の日本語は母音が8つあった?大和(乙類)と山門(甲類)の音韻

実は奈良時代までは、日本語(上代特殊仮名遣い)には8つの母音があったことがわかっています。「a・i・ï・u・e・ë・o・ö」の8つです。

つまりイ・エ・オの発音が2通りあったのですね。「ヤマト」の「ト」は「to(甲類)」「tö(乙類)」の2種類の音韻にわけられます

「大和」のヤマトは「乙類のト」であり、「山門」のヤマトは「甲類のト」だということがわかっています。

このため音韻学においては、大和と山門は別のクニになるので邪馬台国山門説を否定する声が大きいです。

ただし「と(甲)」と「と(乙)」が通用される例はたくさんありますし、音韻が変化する例もまた多くあります。

そもそも「山門」という地名は7~8世紀に記されたものです。たとえば同じく「ヤマト」と読む「山処」は、「大和」と同じ「乙類のト」です。

山処と山門は、「山のある場所」と「山の入口」で意味(由来)が似ています。かつて「山処」と呼ばれていた地が「山門」に変化した可能性もあるでしょう。

こういった理由から、音韻上の違いはあくまで1つに意見に過ぎず、早稲田大学の名誉教授をつとめた水野祐氏をはじめ、「山門説」を唱える著名な学者は今でも多くいます。

筆者も邪馬台国筑後山門群説を唱えておりますが、その理由は地名だけではありません。大分県の「宇佐神宮」との関係性からも筑後大和に比定しています。また卑弥呼の墓は山門にはないと考えています。

これは邪馬台国を民俗学で読み解く、筆者独自の仮説になります。宇佐神宮と邪馬台国の関係は、第5回でくわしく説明します。

邪馬台国東遷説(神武東征)の問題と批判

そんな畿内説と九州説のいいとこどりというか、矛盾を解消する邪馬台国東遷説ですが、もちろん問題点批判も多くあります。それは主に3つです。

邪馬台国東遷説(神武東征)の問題①弥生時代の土器の移動

先ほど墳墓の慣習や、鉄、銅鐸の出土といった考古学上のデータからも、邪馬台国東遷説を裏付けられるとお話しました。

しかし「土器」の出土においては、むしろ東遷(九州から畿内への民族移動)は否定されているのです。

邪馬台国のあった3世紀の前半から中葉にかけての土器は「庄内式土器」と呼ばれますが、この頃は土器が日本全国で活発に移動する時期でもあります。

ただし北部九州の土器は、ほとんど瀬戸内海沿岸各地や畿内地方には移動していません。ただ、その逆は見られます。瀬戸内の土器は北部九州に流入していますし、わずかですが畿内の土器が北部九州に移動した例も確認できます。

つまり土器を見る限り、九州と畿内の民族大移動はなかったということです。そしてあったとしても「征西」だったといえます。

しかしここで大事なのは、鉄器(武器)や三種の神器は九州から畿内へ移動しているという点です。

武器や神器は王権を象徴する権力者の道具です。対して土器は、主に飲食に用いられる生活に密着した、一般人の道具です。

つまり、大多数の国民をともなった東遷はなかったが、少数の権力者や軍人の移動があったと見ることが可能なのです。

実際に日本神話の神武東征をよく読めば、神武天皇は非常に少ない人数で東征をしています。そのために、畿内では何度も豪族に敗北しています。

そんな神武軍が畿内統一に成功したのは、饒速日尊(ニギハヤヒ)という当時畿内で大きな力をもっていた民族の力を得られたからです。ニギハヤヒと神武軍は、同じ太陽信仰をもつ「天孫」だったと記されています。

また初期の大和朝廷は、各豪族が寄り集まってできた連合政権であるというのが通説です。ですから天皇家の東征は少人数で行われたと見てもおかしくないのです。

よって、考古学(土器)の観点から邪馬台国東遷説(神武東征)は否定できないとします。

この神武東征の実態、また謎の見方ニギハヤヒついては、次回以降にくわしく解説していきます。

邪馬台国東遷説(神武東征)の問題②東遷の理由がない

邪馬台国東遷説の最大の問題は、東遷の理由です。北部九州にあった邪馬台国が、畿内に移動する理由がないのですね。

九州は朝鮮半島と本州の中間に位置し、大陸との交易をほぼ独占していました。中国や朝鮮は当時の倭国(日本)における先進文明です。統一王朝を作るなら大陸の武器や技術は欠かせません。

そんな外交上有利な九州を捨てる理由はないでしょう。また仮に九州から東征を行ったとしても、その本拠地――つまり首都(邪馬台国)までも畿内大和へ移したとは考えにくいということです。

邪馬台国東遷説は、今までの邪馬台国や日本の古代史に関するさまざまな謎に答えをもたらしました。しかし東遷説支持者は同時に、「なぜ東遷したのか」という新たな謎に悩まされることになったのです。

邪馬台国東遷説(神武東征)の問題③邪馬台国と大和朝廷の文化的違い

最後は東遷説の問題というより、大和朝廷のルーツが邪馬台国にあるという説に対する批判です。

邪馬台国と大和朝廷は文化がまったく異なり、連続性が感じられないことは古代史では常識です。

邪馬台国は女王のクニでしたが、大和朝廷の天皇は原則「男系男子」継承です。邪馬台国に馬はいませんでしたが、大和朝廷には初期からが存在します。

そしてなにより、『魏志倭人伝』に「鬼道をもって衆を惑わした」とあるように、邪馬台国は宗教的に統治された「祭祀王朝」でした。反対に、初期の大和王朝は武力的に統一された軍事政権です

他にもさまざまな文化的・社会的違いがあるため、邪馬台国と大和朝廷に連続性はないと唱える者がいます。

しかし先に述べたように、三種の神器墳墓の慣習など、九州から畿内へ移された文化も存在します。

筆者はこの矛盾点にこそ邪馬台国東遷のキモがあり、また東遷の理由という最大の問題を解決するカギだと考えています。

この邪馬台国と大和朝廷の関係(連続性)については、今連載『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』の最大のポイントにもなるので、第6回でくわしく解説し、民俗学の視点から独自の仮説を立てていきます。

邪馬台国の東遷はなぜ起きたか?:参考文献

今回は邪馬台国の最大の謎である、邪馬台国の比定地(場所)についてお話しました。

そして畿内説と九州説の矛盾を解消する邪馬台国東遷説を紹介し、その根拠を地名の一致や日本神話、考古学上の視点から解説しました。

『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は九州の筑後山門郡にあり、畿内に東遷し、大和朝廷につながったというのが筆者の説です。

しかし邪馬台国東遷説には「なぜ東遷したのか?」という最大の問題と、邪馬台国と大和朝廷の文化の違いという謎がついてまわります。

この邪馬台国と大和朝廷をむすぶミッシングリンクが、2種類の弥生人です。日本の王朝は2種類の弥生人によって成立しました

次回は、民俗学と東洋史の視点から、邪馬台国と倭人(日本人)のルーツを探ります。弥生人という渡来人は、いったいどこから来たのか。その謎を解くことで、邪馬台国と大和朝廷の関係性が見えてくるのです。

ここまで読んでいただきありがとうございました。次回「【民俗学で読み解く邪馬台国】日本人のルーツは呉越の海人族」もぜひご覧ください。

また本記事執筆にあたっての参考文献リストは、記事の一番最後に載せてあります。

参考文献

『神社と古代王権祭祀』1989 大和岩雄
『日本神話の起源』1961 大林太良
『日本の地名』1964年 鏡味完二
『邪馬台国 中国人はこう読む』1990 謝銘仁
『巨大古墳と古代王統譜』2005年 宝賀寿男
『「神武東征」の原像』2006年 宝賀寿男
『学研漢和大字典』1978 藤堂明保
『倭国伝 全訳注』2010 藤堂明保 他
『弥生時代の考古学』1973 大塚初重
『邪馬台国をとらえなおす』2012 大塚初重
『日本文化の形成』〈上・中・下〉1994 宮本常一
『新版 日本古代王朝史論序説』1992 水野祐
『卑弥呼は日本語を話したか―倭人語を「万葉仮名」で解読する』1991 安本美典
『地名の研究』1936 柳田国男
『日本古代文化』1920 和辻哲郎