全7回の連載『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』。ここまでの連載で、邪馬台国の正体や日本人のルーツ、そして日本神話や信仰の謎を民俗学の方法論でひも解いてきました。
邪馬台国は九州の山門(やまと)に作られたヤマト国。この邪馬台国が、畿内の奈良大和(やまと)に遷(うつ)ったものが大和朝廷です。
日本神話の「神武東征神話」のモデルは邪馬台国の東遷でした。天皇家の先祖神である天照大御神(アマテラス)の正体は卑弥呼だったのです!
……と結論を出したいところですが、邪馬台国と大和朝廷は社会や王権の仕組みが正反対で、文化もまったく異なっていました。
この謎をとくのが、天皇家のクーデター説です。
邪馬台国にいた天皇家の先祖「天孫族」が、邪馬台国にクーデターを起こし、大和朝廷を開いたのです。このクーデターこそが、邪馬台国(ヤマト国)が九州から畿内へ東遷した最大の理由でした。
【復習】邪馬台国と大和朝廷と天皇家と日本神話
本連載もいよいよ佳境。今回の第6回と次回の最終回で、邪馬台国と大和朝廷、そして日本という古代日本の謎をすべて解き明かします。
ここまでの連載では、事実の解説や既存の説の紹介を中心に行ってきました。
ということで、まずはここまでの古代日本の謎解きの結果とその問題点を復習としてしていこうと思います。「もうバッチリ!」という方は読み飛ばしていただいてOKです。
邪馬台国東遷説の根拠と問題点【復習】
そもそも「邪馬台国」とは……弥生時代の日本に存在したとされるクニです。現在では一般的に「やまたいこく」と読まれています。
邪馬台国の女王が「卑弥呼(ひみこ)」です。卑弥呼はまた同時に、倭国(当時の日本)の連合国家の王でもありました。
弥生時代の日本にはたくさんのクニがあり、それらのクニをまとめあげたのが、邪馬台国の卑弥呼だったということですね。
ただし当時の日本には文字文化がありませんから、邪馬台国について知るには同時代に書かれた中国の文献に頼るほかありません。それが『三国志』という歴史書の中にある『魏書』の「東夷伝」の「倭国条」で……日本では一般的に『魏志倭人伝』と呼ばれます。
邪馬台国というクニは、実は中国の文献にしか登場しないクニなのです。日本の歴史書である『日本書紀』や日本神話にはいっさい登場しません。
ですから邪馬台国にはさまざまな謎が存在します。江戸時代から200年以上に渡って論争が繰り返されているものの、いまだに真相がはっきりしないクニなんです。
最大の謎は、邪馬台国の比定地(場所)でしょう。
第2回で紹介したように、筆者は『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は、文献によれば間違いなく九州にあったと考えています。
しかし考古学的には、邪馬台国は畿内(近畿)にあったように思われます。
この矛盾を解決するのが、九州にあった邪馬台国が畿内へ移動したという「邪馬台国東遷説」です。
歴史学や考古学だけでなく、神話学や民俗学、地名学といった観点からもこの邪馬台国東遷説は支持できます。
実際に日本神話には、後の神武天皇となるカムヤマトイワレビコが九州から畿内へ移動し、大和朝廷を開いて初代天皇として即位する「神武東征」神話があります。神武東征は邪馬台国の東遷を神話化したものなのでしょう。
筆者は、邪馬台国の比定地は「筑後の山門(やまと)」=現在の福岡県 柳川~八女市一帯にあったと考えています。山門説は音韻学の立場から否定されがちですが、その否定根拠を否定できるとする理由も紹介しましたよね。
邪馬台国は「ヤマト国」でした。九州の山門(ヤマト)が畿内の大和(ヤマト)に遷(うつ)って、大和朝廷を開き、現代まで続く天皇制がはじまったのです。
ただしこの邪馬台国東遷説には3つの大きな問題があります。
- 外交上有利な九州を捨てて、畿内へ東遷する理由がない
- 邪馬台国と初期大和朝廷には文化や社会に大きな違いがあり、連続性があるとは思えない
- 三種の神器や鉄器といった道具はたしかに九州から畿内へ移動しているが、土器の移動は見られない(むしろ畿内から九州へ広がっている)
→少数の権力者や軍人の移動はあったかもしれないが、大多数の国民をともなった東遷はない?
天照大御神=卑弥呼説の根拠と問題点
次は天皇家に注目してみましょう。
天皇家は、系譜によれば「万世一系」……つまり初代天皇からずっと血が繋がっているとされます。さらに天皇家の先祖神(皇祖神)は天照大御神(アマテラス)だとされています。
天照大御神は日本神話の最高神ですが、この天照大御神の5代後の子孫が、初代天皇である神武天皇にあたります。戦前戦中まで、天皇が「現人神(あらひとがみ)」だとされたのは、こういった理由からなんですね。
この天照大御神のモデルは、邪馬台国の女王である「卑弥呼」(+その継承者である「台与」)という説があります。
天照大御神は太陽神ですが女神でもありました。卑弥呼もまた稲作漁労民の国(邪馬台国)を導くために、太陽神に仕えた巫女でした。
第1回で紹介したように、名前や職業、年代、家族構成、食事、そして日本神話と『魏志倭人伝』の記述、伊勢神宮と宇佐神宮の関係など、とても偶然ではすまされないほどの一致が見られます。
日本神話における「天岩戸隠れ」神話は、卑弥呼の死とその内乱、また跡継ぎである台与の王位継承を神話化したものでした。
しかしここでもまた、3つの問題が見られます。
- 天照大御神(天皇家の先祖神)は古くは男神(タカミムスビ)であった可能性が高い→卑弥呼とは無関係
- 卑弥呼が天照大御神のモデルなら、なぜ日本神話にそう記されていないのか→『古事記』『日本書紀』は天皇の権威付けの歴史書であり、ならば『魏志倭人伝』に載っているほどの古代王国を載せないのは不自然
- 『日本書紀』には、卑弥呼と神功皇后を結びつけるような記述がある→朝廷は卑弥呼を神功皇后に比定していたので、天照大御神は無関係
これらの事実や仮説を総合すると……
- 大和朝廷のルーツは九州の邪馬台国にあり、天皇家のルーツは卑弥呼(天照大御神)である
- しかし天皇家(大和朝廷)はそれらの事実を隠したかった
という2つの答えが導き出されます。
なぜ天皇家は邪馬台国を隠ぺいしようとしたのか……このタブーにこそ、九州の邪馬台国(ヤマト国)が畿内へ東遷した理由が隠されていました。
邪馬台国と大和朝廷に連続性はあるのか?違いと共通点
ここから本編開始……といきたいところなのですが、推理を始める前に、最後の材料を紹介します。
邪馬台国と(初期)大和朝廷には文化的・社会的隔たりがあると書きましたが、その違いと共通点について深堀りします。
まずは邪馬台国と大和朝廷の4つの違いから。
邪馬台国と大和朝廷の違い①女系女王(母系社会)と男系男王(父系社会)
邪馬台国といえば女王の卑弥呼が有名です。
しかし『魏志倭人伝』には「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う」と書いてあるように、もともとは男が王のクニでした。
70~80年間は男王の政治でしたが、その間倭国(九州)はずっと戦争(倭国大乱)をしていたといいます。しかし卑弥呼を女王とした結果、邪馬台国は倭国をまとめあげることに成功しました。この連合国家を中国では「女王国」と呼んでいます。
卑弥呼はその後60年ほど女王として政治をしていましたが、247年頃に死亡。その後、再び内乱や男王の時代を挟み、卑弥呼の一族であった「台与」が女王となったことで、邪馬台国は平和になりました。
邪馬台国は男も女も王位に就ける社会でしたが、安定していたのが女王の時代であったことを考えると、倭国は女系相続の母系社会(女性にすべての権利がある社会)だったのかもしれません。
中国(漢民族)は徹底的な父系社会(男性に権利がある)で、皇帝位は男系男王に限られました。
「武則天(ぶそくてん)」が中国史における唯一の女帝ですが、中国三大悪女の1人に数えられるほど悪く語られています。日本では「則天武后」という名が有名かもしれません。
そんな中国から見たら、邪馬台国の女王制など理解できない異民族の風習でした。ですからこうも女王について筆が割かれているんですね。
しかし大和朝廷に端を発する天皇は、原則「男系男子」継承でした。
「男系男子」とは、「男性天皇の皇子」のことです。しかしあくまで原則であり、女性天皇(いわゆる「女帝」)は歴代天皇126代中、10代(2人が2度皇位についているため8人)存在します。
しかし女性天皇はあくまでも「男系男子に皇位が継承されるまでの中継ぎ(ピンチヒッター)」でした。もちろん女性天皇の中には、日本史上重要な改革を成した者も多くいますが、朝廷にとってはあくまでも仮の天皇でした。
皇太子が幼い時や身体が弱いとき、またはまだ誕生していない時に、天皇の妻(天皇の血を引いた皇后に限る)や母親が即位して、次の男性天皇が皇位に就くまでつとめるのです。
また女性天皇は存在しても、「女系天皇」が存在したことは一度としてありません。
まぎらわしいのですが、「女系天皇」と「女性天皇」はまったくの別物です。女系天皇とは、女性天皇や母方が天皇の血筋を引く天皇のこと。
女性天皇は例外的に許されながらも、女系の継承が認められなかったのは、初代神武天皇から連なる天皇家の万世一系が絶たれてしまうからです。
父方の先祖をたどっていった際に、最終的に初代天皇にたどり着かなければならない……そのために男系男子継承が原則とされました。
中継ぎでさえ女帝の存在を認めなかった中国のように厳格ではありませんが、大和朝廷は父系社会だったことがわかります。
この父系社会は武家社会、また現代の民法にも引き継がれました。ですから戦前の日本では家父長制(父が家のすべての権力をもつ)が採用されたのです。
※ただし、今回の話には関係ないのでくわしくは触れませんが、農民などの庶民の間では近代まで母系社会が継承されていました。日本は天皇家や貴族、武家といった権力者のみ父系社会という奇妙な社会だったのです。
女系女王の母系社会であった邪馬台国と、男系男王の父系社会であった大和朝廷では、真逆の性質が見られますよね。
邪馬台国と大和朝廷の違い②海人族文化と騎馬民族文化
第3回で紹介したように、九州の倭国(邪馬台国)は海人族(あまぞく・航海術と素潜り漁に長けた海洋民族)の文化が色濃い土地でした。
『魏志倭人伝』によれば、九州倭国の食事は稲作と漁労と野菜だけで、邪馬台国の構成民は稲作漁労民だったことがわかります。
さらに邪馬台国の民全員がしていた入れ墨も、海人族が海難を避けるための文化に由来します。
しかし大和朝廷にとって入れ墨は「刑罰」の1つであり、また異民族の象徴でした。現代でも入れ墨=ヤクザという印象が根強く残っているのは、大和朝廷が入れ墨を悪としたことのなごりです。
ちなみに縄文文化を受け継いだ蝦夷(エミシ)やアイヌが入れ墨をしていたことから、縄文人はさかんに入れ墨をしていたと思われています。日本は縄文~弥生時代は入れ墨国家だったのに、大和朝廷が統治する古墳時代に入って、真逆の態度を取るようになるのです。
大和朝廷の入れ墨への認識は、中国中華帝国(漢民族)の入れ墨観と同じです。
中国でも入れ墨はやはり刑罰の1つであり、異民族の象徴でした。大和朝廷は明らかに北方内陸の文化に影響を受けています。
また忘れてはならないのが、大和朝廷には騎馬民族の文化があったことです。
邪馬台国には家畜がおらず、弥生時代には馬に関連する遺物はほとんど見つかっていません。
しかし古墳時代に入ると、途端に馬が全国的に普及します。こういった理由から、中国北方の騎馬民族が日本を征服し、大和朝廷を築いたという「騎馬民族征服王朝説」が持ち上がったこともありましたね。しかし、現在はまず支持されていません。
というのも、騎馬民族は島国では戦えないからです。中世において最強をほこったモンゴル帝国(元)も、島国である日本には惨敗しました(元寇)。馬は海には弱いのです。
とはいえ大和朝廷――天皇家に騎馬民族の文化が多分に見られるのは事実ですから、筆者は天皇家は騎馬民族……というより騎馬文化を持つ中国北方内陸の民族にルーツがあると思っています。
それは次のような、国家の特徴からもわかります。
邪馬台国と大和朝廷の違い③宗教国家(祭祀王)と軍事国家(武力王)
初期大和朝廷は、軍事国家(武力王朝)でした。その名の通り、武力で征服する王朝です。
しかも陸戦でした。だから馬が必要だったのです。古墳時代に馬が急に普及したのは、武力王朝である大和朝廷が馬を必要とし、中国大陸から仕入れたからです。
初期大和朝廷の王は、まだ天皇ではなく大君(オオキミ)と呼ばれていましたが、歴代大君は何度も中国皇帝のもとを訪ね、「安東将軍」という極東を統治する将軍の位を求め、中には「安東大将軍」を勝手に自称していた大君もいます。
『宋書』倭国伝には、倭の武王(雄略天皇とされる)が中国の宋の皇帝に送った上表文が載っています。
「昔から祖躬ら甲冑を環き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国」
上表文にはその国家の特徴が記されるとされますが、ここでは軍事国家(武力王)としての成果や誉れがつらつらと書いてあるのみで、たとえば宗教や祭祀(さいし)、神様に関する記述は一切ありません。
こういったことからも、初期大和朝廷が武力王朝であったことがうかがえます。
また先ほど、天皇家は男系男子継承を原則としたと書きましたが、この理由も当時の天皇が武力王だった証拠です。
当時の天皇は実際に兵を率いて戦う将軍だったので、健康で有能な成年男子でなければならなかったのです。
女帝は飛鳥~奈良時代に集中しており、その次に女性天皇が誕生するのは江戸時代にまで飛びます。これは平安時代になると、藤原家や幕府が政治の実権を握るようになったからです。
そうなると天皇は別に子どもでも病弱でも構いませんよね。ある意味ではお飾りの王ですから、女帝というピンチヒッターは不要になったのです。
なお江戸時代には、天皇家と徳川幕府の確執がありましたから、再び天皇家は「戦える王」を天皇とするようになったのでしょう。そのためにはふさわしい王が生まれるまで女帝が中継ぎをせねばなりません。
とはいえ、現代も「新嘗祭(にいなめさい)」などの祭祀や儀礼が天皇家の主な仕事としてあるように、中世からの天皇は宗教的な王(祭祀王)です。武力王とは真逆の存在です。
ですから「初期大和朝廷は軍事国家だった」と限定したのです。
ちなみに先に書いたように、卑弥呼は太陽神の巫女(シャーマン)でしたから、邪馬台国は宗教国家でした。卑弥呼や台与などの女性が王位に就けたのは、邪馬台国が宗教国家だった証拠です。
弥生時代(邪馬台国)→古墳時代(初期大和朝廷)→奈良時代(大和朝廷)という時代の変遷を見ると、宗教が重要視されていない古墳時代という異分子的な時代が挟まっているのがわかりますね。
邪馬台国と大和朝廷の違い④長江文明(南方沿岸)と黄河文明(北方内陸)
邪馬台国と大和朝廷の性質に違いがあるのは、両者の由来(ルーツ)が異なるためです。
邪馬台国は稲作漁労民の海人族の国でした。これは中国大陸南方沿岸部の長江文明を担った東南アジア人や、呉越の越族(百越)などの海洋民族の影響が大きいです。
第3回で書いたように、彼ら長江文明人は日本に水田稲作を広め、弥生時代を切り拓きました。
弥生人は①渡来系弥生人と②縄文系弥生人の2種類から成りますが、さらに渡来系弥生人は①第1波弥生人と②第2波弥生人の2種類にわけられます。
第1波弥生人は、長江文明にルーツをもつ南方系民族で、入れ墨や漁労(狩猟採集)、蛇神信仰という縄文人の文化に近しい性質をもっていました。
ですから渡来系弥生人と縄文人の間では戦争や征服は起こらず、稲作は信じられないスピードで日本全国に普及しました。
第3回で紹介したように、日本神話のほとんどは南方に由来する神話をもっていますし、高床式の神社や鳥居、注連縄などもやはり長江文明にルーツがあります。
しかし弥生時代中期以降に日本にやってきたのが、中国北方・内陸部の黄河文明にルーツをもつ第2波弥生人です。
中国帝国の多くを担う漢民族をはじめ、モンゴルなどの騎馬民族や遊牧民族も合わせて北東アジア人といいます。彼らは内陸に住んでいましたから、漁などはヘタで、船ももっていませんでした。
しかし彼らは武力を持っており、その武力で各地を征服して中国帝国を起こしました。南方の民族を追い出し、第1波弥生人を日本へ渡来させる原因にもなりました。
おそらく北方内陸系の一部族が、朝鮮半島の高句麗(こうくり)か新羅(しらぎ)、百済(くだら)に移住し、そこから九州倭国との交易で日本列島にやってきたのでしょう。
そんな第2派弥生人が日本に持ち込んだものは、武力と戦争です。日本で戦争の痕跡が見られるようになるのは、弥生時代中期からです。
卑弥呼が女王位に就くまで、ずっと日本が内戦(倭国大乱)に明け暮れていたのは、『魏志倭人伝』に書かれてある通りです。
初期大和朝廷は軍事国家でした。初期大和朝廷=天皇家のルーツは、この第2派弥生人にあったのでしょう。
その証拠として、日本神話があげられます。
神話というのは基本的に世界中に似通った話があり、その類型がパターン化されています。日本神話を解体すると、先ほど書いたように、ポリネシアや東南アジア、中国南部などの南方由来の神話が大部分を占めます。
南方からやってきた海人族=第1波弥生人が、日本の根源的な信仰や神話を形作ったことがわかりますね。
しかし日本神話のごく一部には、北方内陸や騎馬民族にルーツをもつ神話が存在します。これらはごく一部ですが、これが大和朝廷(天皇家)にとってもっとも重要な「高天原」や「天孫降臨」神話なんです。
天皇家にとっての神は天上世界の高天原(たかまがはら)に存在しましたし、天皇家の先祖神は天から降臨しました。
第3回で紹介したように、神の世界が天上にあるという「天空信仰」は北東アジアに共通する世界観です。南方系の世界観では、神の国は海の向こうにあるとされました。
実際に海人族の文化を色濃く残す出雲(島根)の神話や信仰では、「ワタツミの宮」や「常世の国(とこよのくに)」など、海の向こうにある異界が現れます。
朝鮮半島の「伽耶(かや)」の建国神話や「檀君朝鮮(だんくん朝鮮)」の檀君神話、モンゴルのゲセル神話には、天から王が降臨する神話があり、日本神話の「天孫降臨」神話とそっくりです。
また再三述べた、天皇家の「男系男子」継承ルールもまた、北東アジアの社会と共通します。父系社会なのはもちろんのこと、騎馬民族の多くではとくに王の「血統」が重要視されました。
「男系天皇」でなければならなかったのは、神武天皇からずっと血が連なるという「万世一系」に天皇家がこだわったからです。これは騎馬民族の王権(武力王)の特徴です。
そして極めつけが「日本語」です。
日本語は発音(単語)は南方系の言語や江南の呉音と一致しますが、文法はモンゴルやトルコ、朝鮮半島などと同様のアルタイ諸語です。朝鮮半島系の言語に限っては単語の面でも一致が見られます。
第1波弥生人(南方系)が日本語の言葉の基礎を作り、第2波弥生人(北方系)が文法を後からあてはめたと推測できますね。
天皇家の先祖神やその一族を「天孫族(てんそんぞく)」といいます。
こういった理由から、天孫族はアルタイ語族の東北アジア人のなかでも、朝鮮半島にいたツングース系民族か、烏丸(烏桓)や鮮卑などの東胡系民族あたりにルーツがあると推測できます。
邪馬台国と大和朝廷では、その構成民族が異なることがわかりましたか? 下に主な違いをまとめてみました。
- 長江文明=東南アジア人・稲作漁労民と海洋民族(米と魚)・南方系沿岸部・海上信仰=海の向こうから昇る海照神(アマテル神)
→第1波弥生人(海人族)=邪馬台国(卑弥呼)→女系女王・宗教国家・天照大御神信仰 - 黄河文明=北東アジア人・畑作牧畜民と遊牧民族(小麦と馬)・北方系内陸部・天空信仰=天空に浮かぶ天照神(アマテル神)
→第2波弥生人(天孫族)=大和朝廷(天皇家)→男系男王・武力王朝・タカミムスビ信仰
邪馬台国と大和朝廷の共通点
……と、ここまで大和朝廷と邪馬台国の違いを述べてきましたが、両者に共通点があるからこそ、連続性があると語られているわけです。
- 九州の邪馬台国も、畿内の大和朝廷も同じ「ヤマト国」であった可能性が高い
- 九州の邪馬台国が畿内へ東遷して、大和朝廷になったような痕跡がある
- 日本神話でも、天孫族は九州から畿内へ移動している(神武東征)
見逃してはならないのが、考古学的な証拠です。
弥生時代、九州では銅剣と銅鉾(どうほこ)が多く出土し、畿内からは銅鐸(どうたく)が多く出土します。
銅鐸とは、鐘(かね)のことですが、実はこのアイテム、日本神話には一度も登場しません。
日本神話になんども登場し、また天皇の証でもある三種の神器――つまり鏡と剣と勾玉の3点セットは、弥生時代には北九州の墳墓からしか出土しません。当時の権力者の象徴だったことがうかがえます。
しかし古墳時代に入ると、畿内の墳墓からも三種の神器が出土するようになります。そして同時に、弥生時代末期に盛りを迎えた銅鐸文化は突然にして消滅するのです。まるで三種の神器の文化と入れ替わるように。
銅鐸文化の消滅は外部勢力による征服のせいだと考えられていますが、古墳時代になると、北九州の墳墓からは逆に三種の神器が出土しなくなるのが注目ポイントです。
三種の神器だけではありません。
墳墓の棺を朱色で塗る習慣や、鉄製品と絹織物の出土も、弥生時代にはほぼほぼ北九州でしか見られませんが、古墳時代になると畿内からも大量に発見されるようになります。鉄と絹は、『魏志倭人伝』にも書かれた邪馬台国の特産品です。
これらの事実は明らかに、北九州のヤマト国(天孫族)の畿内への移動――邪馬台国東遷説を示しています。
加えて最初に述べたように、大和朝廷(天皇家)のルーツ=天孫族の先祖神である天照大御神は、邪馬台国の卑弥呼がモデルであるように思われますし、第5回で紹介したように、九州の「宇佐神宮」には天皇家のルーツ=先祖神「卑弥呼」の墓があると考えられます。
大和朝廷のルーツは九州邪馬台国にあると考えるのが自然です。
ここで謎を解く鍵になるのが、第1回でもお話した天照大御神=卑弥呼説の問題点です。
- 天皇家の先祖神は、古くは高御産日神(タカミムスビ)という男神の太陽神であった可能性が高い
- 天照大御神は初期の大和朝廷では重要な神(「宮中八神」)として祀られていなかった
天皇家のルーツと思われる北方内陸系の王族は、先ほど書いたように男系男子継承でしたから、当然最高神も男神でした。
さらに第4回で書いたように、彼らは太陽信仰(天空の太陽神)ももっていましたから、タカミムスビはまさに天孫族の先祖神として日本神話で最もふさわしい神にあたります。
天照大御神は海を照らす洋上の太陽女神=海照神(アマテル神)で、これは明らかに南方系の邪馬台国の神です。
これらの事実から導き出されるのは、天皇家の先祖神であるタカミムスビは、邪馬台国の神(卑弥呼)である天照大御神にすり替えられたという仮説です。
タカミムスビと天照大御神の入れ替わりは、奈良時代中後期に起こったのでしょう。それはちょうど、日本神話である『古事記』『日本書紀』が制作された時期と一致します。
神武東征は天皇家(天孫族)のクーデター!? 邪馬台国東遷説の理由
お待たせしました。
謎解きの時間です。
邪馬台国と大和朝廷には考古学的・神話的な連続性が感じられるのに、文化や社会はまったく異なっている。この矛盾を解くために筆者が唱えているのが、「天孫族クーデター説」です。
天孫族とは天皇家の先祖一族のことです。つまり、邪馬台国にいた天孫族がクーデター(政変)を起こし、畿内へ東遷し、新たに王権を作ったのが大和朝廷だということです。
わざわざ外交上有利な九州を捨てて畿内へ東遷した理由は、クーデターを起こしたからです。
この説についてくわしく解説していきます。
邪馬台国ヘのクーデター:天孫族(天皇家)による男王政権
邪馬台国は稲作漁労民で、また信仰も南方系でしたから、海人族系の第1派弥生人がその構成民族であると先ほど紹介しました。
ここで思い出してほしいのは、邪馬台国はもともと男王政権の国だったということです。しかしずっと内乱が治まらず、卑弥呼という女王を立てたところ平和になりました。
日本から戦争の痕跡が出土するのは、第2波弥生人がやってきた弥生時代中期からです。
第1波弥生人より優れた政治力と武力をもった第2波弥生人は、倭国(日本)を統一しようと戦争を繰り広げたのでしょう。これが『魏志倭人伝』に書かれた「倭国大乱」です。
しかし国は治まりませんでした。それもそのはず。当時の倭国の国民の大半は、縄文人か南方系の第1波弥生人だからです。
第1波弥生人と第2波弥生人の相性の悪さは先述した通りです。しかも第1波弥生人と縄文人は相性がよかったものですから、大多数の国民の心を得られなかったのでしょう。
そこで第2波弥生人がとった手段が、第1波弥生人との共存という名の妥協です。それが女王卑弥呼の擁立でした。
これは完全な妄想なのですが、卑弥呼は第1波弥生人と第2波弥生人の権力者同士の政略結婚によって生まれた子だったのかもしれません。
実際卑弥呼が第1波弥生人の巫女なのか、第2波弥生人の王族なのかはわかりませんが、とにかく卑弥呼が行った宗教政治は南方系のものだったはずです。
国民の大半は第1波弥生人ですから、その文化や信仰は南方系の海人族のものでした。しかし政治的権力者や軍隊には確実に第2波弥生人がいたはずです。邪馬台国とは、いわば第1波弥生人と第2波弥生人のハイブリッド国家です。
その根拠は、実際に邪馬台国が九州倭国をほぼ統一したことです。このような偉業は、政治力と武力に優れた第2波弥生人の力なくしては成功しなかったでしょう。
邪馬台国が倭国を統一できたのは、宗教と武力と政治のバランスが取れた国家だったからです。
そして邪馬台国の中枢にいた第2波弥生人こそが、のちの天皇家となる天孫族です。
こうして一応は権力者としての地位を手に入れた天孫族でしたが、やはり不満はあったでしょう。自分たちが王位に就いて倭国を統一したいという野望は捨てなかったはずです。
だからこそ、卑弥呼が死んだ後にはすぐに天孫族から男王を立てようとしました。しかし結果は『魏志倭人伝』に書かれた通り……内乱が起こり、卑弥呼の一族である「台与」の女王政権が再び誕生することになります。
台与政権の成立後から、中国が戦争状態に突入したので日本との関係は途切れ、古墳時代に入るまで日本の歴史は文献上から姿を消します。
これが日本古代史の有名な「空白の4世紀」です。天孫族のクーデター(東遷)は、おそらくこの時代に起こったのでしょう。
天孫族は今度こそ自分たちの国を作り、男系男子王権を確立させようとしました。そこで第2の妥協として選んだ手段が、卑弥呼の偶像化=天照大御神の創造です。
民衆の心をつかむためには宗教(信仰)が重要であることを、天孫族は十分知ったのでしょう。民族も文化も異なる邪馬台国の民の人心をつかむには、宗教しかありません。
ですから死んだ卑弥呼を、太陽神の女神として祀りあげたのです。これが海照神(アマテル神)であり、大日孁貴(オオヒルメ)=天照大御神でした。
このような神格化や、敵国の神を取り込むことは他の国でも行われました。たとえばキリスト教の「聖母マリア」です。
ヨーロッパのガリア地方(現在のフランス)にはかつて「ドルイド教」という土着信仰を持つケルト人が住んでおり、女神「大地母神」を信仰していました。しかし4世紀ごろ、ガリアはキリスト教によって支配されます。
唯一神を信仰するキリスト教にとって、大地母神は異教の神=悪魔であり、はじめこそ弾圧するつもりでした。しかし宗教の持つ人心掌握力もまた、強大でした。
そこで大地母神をキリストの母「聖母マリア」とすることで、神格化して自分たちの宗教に取り込んで(ただしあくまでも唯一神は別に存在する)、ケルト人の支配・統治に成功したのです。
しかしマリアも天照大御神も、あくまでも人心をつかむための仮の偶像です。天孫族の真の先祖神は、男神の高御産日神(タカミムスビ)でした。
天孫族の邪馬台国東遷=神武東征の理由は?
とかくこうして邪馬台国でのクーデターは成功しましたが、彼らは九州から畿内への東遷を決めます。
なぜか?
九州が海人族=第1波弥生人によって支配された地域だったからです。
九州は外交上有利な地域ですが、中国や朝鮮半島との外交には当然航海術が必要です。また九州の特産は魚貝類ですから、食っていくためにも海人族の技術は必須だったでしょう。
天孫族のルーツは北方内陸系の民族にあります。中世最強を誇ったモンゴル(元)軍が元寇で鎌倉幕府に惨敗したように、彼らは馬を使った内陸では強いのですが、航海が苦手でした。
また『後漢書』鮮卑伝には、面白い話が載っています。178年、遊牧民であった鮮卑(せんぴ)は食料不足で、普段は食べない魚貝類を獲るために大河に行くのですが、はじめての漁労なので魚がまったく獲れません。
そこで漁労に優れていると有名だった東方の倭人(日本人)を1000人ほどさらってきて、魚獲りをさせたとあるのです。内陸の民族は航海や漁労の術をまったくもっていなかったことがわかるエピソードですよね。
天孫族もこの問題にぶち当たったのでしょう。九州では、海人族の力なくしては国家を運営できない。
そのために、内陸の畿内(奈良大和)へ移動することを決めたのです。
これが邪馬台国東遷説の真相であり、日本神話の「神武東征」のモデルとなった出来事です。
この説を裏付けるのが、神武天皇の神武東征のルートです。
大和朝廷と吉備国の関係:神武東征のルートの真相
画像引用元:産経新聞
カムヤマトイワレビコ(神武天皇)は、安芸国(今の広島県)から吉備国(今の岡山県)を経由して、摂津国・河内国(今の大阪府)から畿内に入ります。
畿内に入ってから大和に着くまでのルートには、明らかに「壬申の乱」の事績が反映されていますから、史実とは異なるのでしょう。これは『古事記』『日本書紀』の編さんを命じたのが壬申の乱の勝者である天武天皇だからです。
ここで大事なのは九州から畿内へと至る道で、これはおそらく史実通りなのでしょう。天孫族は瀬戸内海ルートで東遷を果たしたのです。
しかしこれは奇妙なことです。
なぜなら第4回でも紹介したように、日本海では北九州から北陸に向かって対馬海流が流れており、この対馬海流を利用すれば簡単に畿内入り(東征)できるからです。実際に海人族である安曇族(アズミ族)は対馬海流を使って東方へ植民しました。
画像引用元:日本の島へ行こう
なぜ東征に最適な日本海ルートを使わなかったのかというと、日本海は完全に第1波弥生人=海人族に支配されていたからです。
島根の出雲国や北陸の越国に、日本海文化圏ともいうべき海人族の一大勢力地があったことは第3回で紹介した通りです。ですから天孫族=天皇家は、海人族の力の及ばない瀬戸内海ルートで東遷を果たしました。
神話の記述でも吉備国を経由していますが、土器や古墳といった考古学的な共通点からも、初期大和朝廷と吉備国が協力関係にあったことがわかっています。
吉備国をはじめとした瀬戸内海沿岸や、摂津国といった大阪湾沿岸からは「高地性集落」の弥生遺跡が見つかっています。これは農耕には不便ですが敵を見つけやすい、軍事国家に特徴的な集落です。
出雲からはこの高地性集落は見つかっておらず、海人族=第1波弥生人の性質が色濃い宗教国家だったことがわかります。
なお軍事国家とはいえ、瀬戸内海沿岸や大阪湾などの畿内からは鉄器はほとんど見つかっていません。
先にも書いたように、鉄器が見つかるのは日本海沿岸のみです。これは海人族=第1波弥生人が鉄を含む交易を独占していた証拠でしょう。
これらの事実から導き出されるのは、瀬戸内海沿岸や大阪湾の各国は北方内陸系(第2波弥生人)のクニだったという説です。
天孫族は同族である瀬戸内海の民の力を借りながら東遷=東征を果たしました。
なおこの東遷は、第2回でも紹介したように、少人数で行われた可能性が高いです。いくら天照大御神という信仰があっても、民族大移動というエクソダスは難しかったのでしょうか。
大和朝廷の成立:神武東征とニギハヤヒ
ではそんな少数で海軍ももたない天孫族が、どうして畿内に大和朝廷を開き、日本を統一するという偉業を成し遂げることができたのでしょうか。
実際に神武東征の記述を見ても、神武軍は何度も敗北を経験しています。そんな神武軍が大和朝廷を開くことができたのは、饒速日(ニギハヤヒ)という神の協力でした。
ニギハヤヒには色々な謎があり、これまた面白い神なのですが、今回はあまり関係ないので深追いしませんが……大事なのは、第2波弥生人だったと思われる点です。
ニギハヤヒはもともと九州にいたのですが、吉備国などの瀬戸内海沿岸を通って大阪から畿内入りします。そして登美(とみ・現在の大和)にいた豪族「長髄彦(ナガスネヒコ)」を従えます。
まるで神武東征とそっくりですよね。さらに日本神話によれば、ニギハヤヒは天孫族と同じ太陽神をルーツにもつといいます。だから神武天皇に協力したのですね。
初期大和朝廷でもっとも力をもっていた氏族の1つが物部氏(もののべし)です。ニギハヤヒはこの物部氏の先祖神でした。
神武東征で出てくるニギハヤヒとは、物部氏の先祖一族を表すのでしょう。
そして物部氏もまた、天孫族とは別の、第2波弥生人でした。天孫族のように、海人族のいない畿内で天下をとろうと東征した人々がいたのです。
物部氏と並んで力をもっていたのが大伴氏(おおともし)です。大友氏のルーツは摂津国・河内国といった大阪湾沿岸にありました。大伴氏もまた、天孫族に協力した第2波弥生人だったのでしょう。
初期大和朝廷とは、天孫族を中心に、物部氏と大伴氏といった第2波弥生人によって作られた軍事国家(武力王朝)でした。大和朝廷の文化が邪馬台国とまったく異なるのは、構成民族が北方系の第2波弥生人だったからです。
大和朝廷の統一:安曇族とワタツミと神武天皇
さてこうして畿内に開かれた大和朝廷ですが、天孫族(天皇家)の真の目的は畿内統一なんてちっぽけなものではありません。次なる目的は日本統一です。
そのためにはにっくき海人族(第1波弥生人)を滅ぼし、九州を手にし、交易権を得なければなりません。
この野望はご存知の通り果たされたわけですが、日本統一に乗り出すには、やはり水軍(海軍)が必要不可欠。しかし第2波弥生人は航海術がヘタ……。
そんな大和朝廷に手を貸したのが、安曇族(アズミ族)でした。
安曇族とは、第4回でお話した海人族の中心的存在です。もちろん、第1波弥生人です。
この安曇族が、大和朝廷に手を貸した唯一の第1波弥生人でした。大和朝廷の実力を見抜いて、己に利益をもたらすと思ったのでしょう。すさまじい先見の明です。
初期大和朝廷の水軍統括長として活躍したのが安曇氏で、これが安曇族であることは言うまでもありません。
実際に安曇族の力を借りた大和朝廷は、一気に日本統一を進めます。
安曇族と並ぶ海人族(第1波弥生人)である出雲族は、中国地方から北陸までの日本海沿岸を支配し、巨大海洋国家を形成していましたが、大和朝廷に滅ぼされてしまいます。
この出雲族(第1波弥生人)と大和朝廷(第2波弥生人)の戦争が神話化されたのが、日本神話における有名な「出雲の国譲り神話」でした。
出雲の国譲りと古代史の史実については、コチラの記事でくわしく紹介していますので、興味のある方はご覧ください。
安曇族が、出雲族のように大和朝廷に征服されたのではなく、志願して協力したと断定できる理由は、格別の好待遇を受けていたからです。
安曇族の先祖神は海の神であるワタツミですが、これは竜神・蛇神でもあります。
実は神武天皇には、ワタツミの血が入っています。
天照大御神の直系子孫である「彦火火出見尊(ホオリ)」は、別名「山幸彦」といいます。彼は「海幸彦」という兄をもっていましたが、海神ワタツミの力を借り、兄を倒します。
さらにワタツミの娘である「豊玉姫(トヨタマヒメ)」を嫁にし、「鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)」を生みます。ウガヤフキアエズが、神武天皇の父です。
これが日本神話の有名な「山幸海幸神話」ですが、これは明らかに安曇族の力を借りて大和朝廷を開いたことを示していると思われます。
そうでなければ、神武天皇にワタツミの血を(しかもかなり濃い位置で)入れる神話を書くわけがないのです。
第3回で書いたように、海人族が信仰した竜はヘビと同一です。
天空信仰をもつ天孫族にとって、ヘビとは地を這う底辺の象徴。天孫族や中国帝国であがめられた龍は、角と手足をもって天を飛ぶ龍であって、海人族が信仰するウミヘビではありません。
しつこく言ったように、第1波弥生人と第2波弥生人は文化がまったく異なります。実際に山幸彦(ホオリ)は、トヨタマヒメに子を産ませた後、トヨタマヒメが竜だったことに気づいて別れてしまいます。相容れない存在なのです。
それなのにこんなタイミングで天孫族にワタツミの血が入っているのは、安曇族の協力を表していると考えなければ納得できません。
これだけではありません。
日本神話の序盤において、日本列島を作り出す「国生み神話」がありますが、この主役はイザナギとイザナミです。実は両者とも、安曇族がかつて信仰していた神です。
しかもこの国生み神話において最初に作られたのは、大和となんの関係もない、「淡路島」です。
なぜ淡路島が一番に作られたのかは謎なのですが、わかっているのは淡路島が安曇族の一大勢力地だったということです。
これらの安曇族へのサービスともいえる待遇からは、厚遇を条件に大和朝廷(天皇家)に協力した安曇族の交渉力がうかがえませんか?
その後も安曇族は日本列島を東へ東へ進み、開拓し、自分たちの名にちなんだ「アズミ地名」をつけました。愛知県の渥美半島や、静岡県の熱海、滋賀県の安曇川、長野の安曇野、果ては山形県の飽海群まで……。
こういった日本神話における優遇や格別の地位をもらった安曇氏ですが、悲しくも1世紀後にはすっかり没落してしまいます。
その原因が、663年の「白村江の戦い」です。
日本・百済の連合軍と唐・新羅の連合軍との戦争で、古代日本における最大の対外戦争でしたが、これがもう惨敗。
安曇比羅夫が率いる日本の水軍はほぼ全滅。
この敗戦がきっかけで、日本は交易相手を朝鮮から中国にシフトし、また倭国から「日本」という律令国家の成立へ向かうことになります。
問題はその戦犯となってしまった安曇氏でした。ここから安曇氏の朝廷でのパワーはどんどん衰退していきます。水軍としての活躍の場を失った後は、漁労の腕を活かして「内膳司(ないぜんし)」という食料担当部門に就きます。
しかしその後も同じく内膳司であった高橋氏に敗れ、以降安曇氏は中央政界からその姿を消します。
……と、安曇氏から時代を前後して大和朝廷に話を戻しますが、とにかく水軍も手に入れた大和朝廷はもう無敵でした。
『古事記』や『日本書紀』には、天皇家の「日本武尊(ヤマトタケル)」による熊襲(クマソ)討伐などの九州征伐譚(ヤマトタケル征西神話)が載っています。この記述を読むと、景行天皇の頃までは九州が大和朝廷の勢力圏外にあったように思われます。
九州には天皇家のルーツがあったはずですから、これはよく考えたらおかしな話です。ですが、クーデター説なら矛盾なく解決できます。
九州を離れて畿内で大和朝廷を開いた天孫族(天皇家)が、力を蓄えて九州をついに支配したというのが、ヤマトタケル征西神話の真相だったのでしょう。
倭国から日本へ:天皇家が先祖神を天照大御神に入れ替えた理由
今回は天皇家のタブーともいえる、邪馬台国での天孫族のクーデター説を紹介しました。
邪馬台国と大和朝廷に連続性があるように思われるのに、両者の社会や文化は真逆といえるくらいに異なっている。
それもそのはずです。邪馬台国の社会や王権に異を唱えた天孫族(天皇家)がクーデターを起こして作ったのが、大和朝廷だからです。
天照大御神は天皇家の先祖神でありながら、初期大和朝廷では、宮中で祀られたこともないランクの低い神でした。また第5回で紹介したように、朝廷は奈良時代中後期まで、卑弥呼(天照大御神)の墓である宇佐神宮も放棄し、八幡神という渡来人の神に明け渡していました。
ですがそれも当然です。
大和朝廷(天皇家)の真の先祖神はタカミムスビであり、天照大御神は卑弥呼をモデルに作った、人心掌握のための仮の偶像に過ぎないからです。
しかし、ここで新たな謎が生まれてきます。
今では天照大御神は仮の神などではなく、実際に日本神話の最高神・天皇家の先祖神として扱われています。タカミムスビとその位置が入れ替わっているのです。
大和朝廷が宇佐神宮の祭神を応神天皇にすり替えてまでして、保護したのは第5回で説明した通りです。
この大和朝廷の態度の変化にこそ、日本神話の誕生と、倭国から「日本」への変化が関わっていました。
次回の連載最終回で、古代日本の最後の謎を解き明かします。
ここまで読んでいただきありがとうございました。次回もぜひご覧ください。
また本記事執筆にあたっての主な参考文献リストは、記事の一番最後に載せてあります。
参考文献