これはかつて、京都府の山中で2人の主婦が凄惨な死を遂げた『長岡京ワラビ採り殺人事件』に関する記事の【パート8】です。本編をお読みになる前に、ぜひとも【パート1~7】をお読みください。
【未解決事件】『長岡京ワラビ採り殺人事件』を徹底解説
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第二の事件
当時の新聞
本事件からおよそ5年後の1984年(昭和59年)5月15日の白昼。本事件と同じ長岡京市にて、ある凄惨を極める事件が起きた(「長岡京主婦放火殺人事件」)。
ひとりの主婦が自宅にて首や背中をメッタ刺しにされた上、布団に包まれた状態で火を点けられ殺害されるという残忍な犯行によるものであった。
このおぞましい殺害事件の被害者―、それは『長岡京ワラビ採り殺人事件』唯一の生存者Aさん。木下 京子さん(当時48歳)であった。
事件当日14時50分頃、木下さん宅1階居間付近から出火。つまりこの直前までこの事件の犯人は木下さん宅内にいたと思われる。現場に残された血痕や足跡から、犯人の血液型がO型(「長岡京ワラビ採り殺人事件」の犯人と同じ)であること、右足の人差し指が突出していることが明らかになった。
この「第二の事件」後、警察はこれが「長岡京ワラビ採り殺人事件」との関連性を持つと睨み、これら2つの事件の因果関係の調査を開始した。しかし平日火曜日の昼下がり、かつ屋内での犯行であったことから目撃証言が乏しく、この事件においても捜査は難航。事件は迷宮入り、後に公訴時効を迎えることになる―。
※この事件と『長岡京ワラビ採り殺人事件』の関連性は確証がなく、あくまで都市伝説のレベルである
『長岡京ワラビ採り殺人事件』の発生後、殺害された2人に関しては報道された。そのため、この事件当時、木下さんの存在は世間に知られることはなかった。これは警察がマスコミと報道協定を結び、木下さんの身の安全を確保するために公表しなかったためである。
『報道協定」』は
警視庁や道府県警がテレビ・新聞などのマスメディア(マスコミ)に対し、特定の人物や事柄に関する報道の一切を控えることを求めるもの。警察からの要請により仮協定が発効された後、警察本部と記者クラブの会議による本決定を経て発効される。
報道協定が結ばれた場合、指定された人物・事柄に対する報道を一切行わないマスコミに対して、警察は入手した情報や捜査の経緯、過程など平時(無協定状態)よりもマスコミに公表しなくてはならない。
報道協定により、警察は犯人を刺激することを防ぐことができる。マスコミは報道協定によって詳細に得た情報を基に、協定解除後に確度の高い記事を発信することができる。故に、報道協定は警察、マスコミ双方にメリットがある。
ちなみに、この報道協定は日本特有のものであり、諸外国には存在しない。
『問題のレシート』についての考察
ここからは、いよいよ本記事筆者 テンペ・ワゾウスキによる本事件の考察に入ります。事件の真相を導きだす前に、その根拠となるポイントをひとつずつ解説していきます。まずは、『問題のレシート』から導き出した警察の見解からご覧ください。
※ここでの「真実」とは筆者の考察から導き出した結論のことを指します
「レシートに書かれたメッセージ」:警察の見解
本事件において最も謎が深いといえる『レシートに書かれたメッセージ』。1979年(昭和54年)5月28日の中日新聞によれば、この字は明石さんに書かれたものであると判明したことが明らかになっている。
尚、この不可解にも映るメッセージに関しては、多くの憶測が至るところで生まれている。この1枚のレシートから導き出される殺害時の一幕、警察の見解は以下のとおり。
犯人は犯行時、まずは水野さんの殺害から行った。その際、犯人は水野さんに包丁を突きつけながら「逃げたらこいつ(水野さん)を殺すぞ」と明石さんを脅した。
そして犯人が水野さんに暴力を振るっている隙をついて、レシートの裏に”SOSのメッセージ”を書きなぐった。明石さんはこれを犯人にバレないように、ジーパンのポケットにしまい込む。
こうしているうちに水野さんは殺害され、やがて明石さんも誰にこのレシートを渡せることもなく殺害された。
このように、警察の見解は的外れな上に釈然としない―。
筆者による考察は続く。【パート9】へ。