※これはかつて、家族が寝静まる深夜に自宅から7歳の少女が姿を消した『石井 舞ちゃん行方不明事件』に関する記事の【パート6】です。本記事をお読みになる前に、ぜひとも【パート1~5】をお読みください。
【未解決事件】『石井 舞ちゃん行方不明事件』の真相に迫る -1- 【考察シリーズ】
【未解決事件】『石井 舞ちゃん行方不明事件』の真相に迫る -2- 【考察シリーズ】
【未解決事件】『石井 舞ちゃん行方不明事件』の真相に迫る -3- 【考察シリーズ】
【未解決事件】『石井 舞ちゃん行方不明事件』の真相に迫る -4- 【考察シリーズ】
【未解決事件】『石井 舞ちゃん行方不明事件』の真相に迫る -5- 【考察シリーズ】
舞ちゃん失踪発覚後 事件の動き
1991年
8月22日
2週間の勾留、取り調べを経てKが釈放される。その後、Kは石井さん宅に戻る。ここで、それまで受け取れずにいた給料を受け取ると、Kは部屋の荷物をまとめてそそくさと実家へ帰っていった(このとき賢一さんに仕事を辞めることを申し出たか)。
釈放後、Kは交際相手である賢一さんの姪とラブホテルでシンナーを吸引している。このときKは「いま探してるところに舞ちゃんはいない」というまるで舞ちゃんの所在を知るような意味深な発言をする。これに恐怖を覚えた姪はその後Kと別れている。
釈放後の「ラブホテル」と「石井さん宅に戻って給料の受け取り」の前後関係は不明。とはいえ常識的、またラブホテル利用のことを考えると、「釈放⇒石井さん宅⇒ラブホテル⇒実家」というフローであったと推察できる。
事件発生から1ヶ月
対策本部に届いた情報提供はわずか12件。いずれも発見につながる有力なものではなかった。
聞き込み捜査は一般住民470世帯・2,500人、関係者490人、通行車両250台、通行人50人が対象となった。(各数字は概算)
事件発生から2ヶ月
母ヨシ子さんが事件当時のKに関する有力な証言を得る。
姉妹は事件後、警察による事情聴取を受けていたが、このとき何も答えられなかったようである。事件のショックもさることながら、小学生の子どもが大人(ましてや警察)から事情聴取されれば、すくんでしまうのは当然だろう。
事件から2か月ほど経ったこの頃、姉妹は気の許す舞ちゃんの母ヨシ子さんに当時の様子を話しはじめた。姉妹のこれら証言を警察に伝えたヨシ子さんであったが、このとき警察は子どもの証言ということでこれをまともに受け取らなかった。であるならば、そもそも一度姉妹に事情聴取を行った意味が問われる。
事件から半年以上が経過した頃、賢一さんは舞ちゃんの捜索に集中するために自身が経営する建設会社の廃業を決意。さらには家族とも別居した。この別居に関しては、事件の責任をめぐって夫婦関係が悪化したことも理由であるといわれている。
賢一さんは舞ちゃん捜索と平行して、かねてより疑いをかけていたKの監視を開始した。
廃業したはずのこの年、賢一さんは3月から相次いで公共工事に入札、そして工事を請け負っている。
また賢一さんはこの年の12月、メディアに露出。事件発生時、「専務」の肩書であった賢一さんであったが、このときの石井さんの肩書はなぜか「役員」であった。
1993年
賢一さんの1年に及ぶKの監視。しかしこれといった手掛かりをつかむことはできず、賢一さんはKの監視の打ち切りと併せて家族との同居を再開した。
以上、【パート6】となる本編では、事件後の詳細をお伝えしました。『石井 舞ちゃん行方不明事件』―。本記事筆者 テンペ・ワゾウスキによる考察はいよいよ【パート7】から。