青森県弘前市の護国山奥深くにある「久渡寺(くどじ)」は観光地やパワースポットでありながら、同時に恐ろしい心霊スポットでもあります。
青森といえばイタコや恐山が有名なように、霊的濃度の濃い土地です。久渡寺も民間信仰や風習が反映された、普通の事故物件などとは一風変わった趣きをもつ心霊スポットです。
今回は久渡寺で起こった心霊現象を紹介し、またなぜ心霊スポット・パワースポットとなったのかを、青森津軽のお遍路「津軽三十三観音霊場」やオシラサマ信仰をキーワードに、民俗学の視点で読み解いていきます。
青森県の心霊スポット:久渡寺の観音像と幽霊画
画像引用元:誰も紹介しない津軽
久渡寺は青森県弘前市の護国山の奥深くにあります。寺に着くとまず目につくのが、200を超える観音像です。かつてこの地で起きた土石崩れによって生じた多くの死者を慰霊するために作られたといいます。
数々の心霊現象はこの災害による被害者たちの思念によるものなのでしょうか。
久渡寺は観光地でもありますが、その理由の1つに円山応挙の「幽霊画」があります。
江戸時代の有名な絵師なのですが、幽霊の絵が描けず苦しんでいました。苦しむ円山を見かねた妻は、自ら命を絶って幽霊となり、その前に現れたといいます。円山は悲痛な想いを筆に込め、必死に幽霊画を描いたそうな……。
円山応挙は「足のない幽霊」をはじめて描いた画家ともいわれ、後世の日本の死生観に大きな影響を与えました。
しかし彼の幽霊画は弟子による贋作(偽物)が非常に多く、実は円山応挙のほぼ唯一の真作の幽霊画が、どういうわけかこの久渡寺に祀(まつ)られているのです。
ただし公開は旧暦5月18日の、わずか1時間のみなので、見たい方はしっかり調べてから行きましょう。
幽霊となった妻の想いが渦巻き、この地に心霊現象を呼んでいるのかもしれません。
青森県の心霊スポット:久遠寺の心霊現象・体験談
久遠寺には公衆電話があります。携帯電話が普及した令和の今でも電話ボックスが残っているのは、災害時の公共インフラサービスの一環です。久遠寺の電話ボックスは、突然鳴るといわれています。ワン切りなので、誰も出た者はいませんが……。
またある男性は、この電話ボックスで自分を入れて写真を撮ったそうです。自撮りです。今どきめずらしいと好奇心からの撮影か、それとも心霊スポットのウワサを聞きつけてのおふざけか……動機はわかりませんが、写真には男性の首から上がなかったそうです。
その帰路、彼はバイクで事故にあい、首の骨を折る重傷を負いました。
ほかには寺の池をのぞくと、自分の死に顔が映るといいます。デスマスクです。山門から227段ある階段のどこかに手形があり、それを踏むと災いが降りかかるという噂もあります。
深夜、ある男性が座頭石地区から久渡寺に抜ける林道をドライブ中、座頭石の休憩所に白いセダンが駐車しているのを見かけました。
気に止めず走っていると道幅が狭くなってきたので、これ以上進むのは危険と判断し、Uターンできる場所を探しました。すると、さっきのセダンが後ろから迫ってくるではありませんか。狭い道なので、後ろから来られたら引き返せません。舌打ちしつつ、前へ進めました。
ガードレールが欠落しているいわゆる酷道で、スピードを出すことはできません。それなのに後ろのセダンは、追突するかという勢いで迫ってきます。迫り来るヘッドライトに怯えながら、彼はなんとかふりきることに成功しました。
すると林道が明けて、民家の灯りが見えはじめました。安心しきって車を停めたところ、それは民家ではなく久渡寺でした。
彼は知らずのうちに心霊スポットに入っていたのです。
一見すると心霊とは関係なさそうな恐怖体験にも思えるのですが、「白いセダンが追いかけて来る」というのは、青森県の心霊スポットの鉄板ネタだそうです。「とくに久遠寺の近くでは気をつけろ」……地元では有名な話だとか。
民俗学で読み解く心霊スポット:久遠寺はオシラサマの寺
画像引用元:文化遺産オンライン
心霊スポットとは話がそれますが、久遠寺は「オシラサマ」信仰が有名です。オシラサマは東北地方で信仰されている家の神様で、一般には蚕、農業、馬の神とされています。
なかでも青森県久遠寺のオシラサマは「久遠寺型」と呼ばれ別格扱いされています。
しかし久渡寺の観音堂では、オシラサマは見当たりません。それもそのはず。オシラサマが祀られた本堂は、観音堂をやや下った民家のような建物にあるからです。田舎の休憩場を思わせる庶民的なたたずまいは、心霊スポットとはほど遠い雰囲気を感じさせます。
祀られているオシラサマ(御神体)は桑の木でできており、先端に男女二体の顔や馬の顔などが彫られ、もしくは墨描きしてあります。オセンダクと呼ばれる華美な衣装を、すっぽりと頭から、または包むように着せられています。この豪華さが、青森県以外の他とをへだてて「久渡寺型」と呼ばれる所以です。
オシラサマは東北地方の各家で祀られていますが、青森県では年に一度、オシラサマを「遊ばせる」日があります。皆でオシラサマを囲み、宴会を開くのです。
酒を飲むための口実のようにも思えますが、祭りごというのは、えてしてそういうものです。心霊スポットにも不謹慎な者による酒盛りの跡があったりします。
大人も子どももオシラサマを手に取り、好き勝手に振ったりして、オシラ様に遊んでもらうのです。なんだか奇妙な祭りですが、オシラ様は遊ぶのが大好きなので、「オシラ遊ばせ」をすることによって機嫌がよくなり、その家を守護してくれると伝えられています。
かつてはどこの家でも盛大に行われていた「オシラ遊ばせ」ですが、時代とともに見かけられなくなり、今ではイタコが代行することがほとんどです。イタコが御先祖様の依り代(よりしろ)となって下ろし、その年の注意事項を告げるそうです。
青森県のオシラサマ信仰にイタコが関与しはじめたのは、デフレの時代の影響もあるのでしょう。先細りする需要、否応のない合理化の波が、地方のイタコにも押し寄せてきたのです。
「オシラ遊ばせ」の祭りはなくなってしまいましたが、青森県の津軽地方には、今でも3000ほどのオシラサマがいるといいます。
久渡寺の本堂にひっそりと忘れ去られるように置かれたオシラサマたちが、寂しさから、訪れた人々に心霊現象を起こしているのかもしれません。なにせ、オシラサマは遊ぶのが大好きですから。
民俗学で読み解く心霊スポット:久遠寺のルーツは「津軽三十三観音霊場」
久遠寺は「津軽三十三観音霊場」の一番札所です。青森県弘前市にある護国山の「久遠寺」からはじまって、同じく青森県弘前市の観音山の「普門院」で終わりです。
江戸時代の承応年間(1652~1655年)、家康の天下平定後50年が経ち、戦火で荒れた街道も整備され、人々の行き来も活発になっていました。
そんなときに日本中で大流行したのが、「お遍路(おへんろ)」です。近畿を中心とした「西国三十三箇所」や、「四国八十八箇所」を巡ってお参りするのです。
その波がここ、青森県津軽にも押し寄せました。高価な旅費にも関わらず、巡礼者の西国や四国行きが後を絶たなかったといいます。ほとんどは仲間内で「観音講中」という費用を積み立てて、代表者数人を送り出す仕組みでした。
お遍路から帰ってきた者のなかには、高校球児のように巡拝地から土を持ち帰る者がいました。日本には、古くから土を持ち帰る風習があったようです。
青森県津軽にあった観音を祀る寺から三十三箇所を選び、この土を埋めました。これが「津軽三十三観音霊場」の由来です。
この土を持ち帰り、各地に霊場を作るという風習は全国で見られ、「お砂踏み」「写し霊場」と呼ばれました。
青森県から四国は遠すぎます。往復に100日余りの行程を必要としました。旅費も時間もかさみますが、津軽藩にしてみれば、労働力と銭をむざむざ領外へ逃がすことになります。
お上の事情でなくとも人は便利さを求めるもの。両者の思惑の合致から、津軽領内に、後の心霊スポットとなる「霊場」がつくられたのでした。
久遠寺はその記念すべき一番札所なんですね。
東北一帯どころか、青森県内の観音寺を巡礼するだけですから、だいぶリーズナブルです。
ところで、お遍路とくれば御朱印。令和元年の初日に、人々が寺社仏閣に御朱印を求めて列を成したのは記憶に新しいところです。まるで西洋の「免罪符」のようですが、御朱印帳にたくさん押してもらうと、極楽へ行けるという信仰か風習が昔からあったようです。
今なら心霊スポット巡りもレジャーの一環でしょう。
レジャーの楽しみとご利益への期待、そして日常では満たされない気持ちと悩み事の解決。欲求欲望に信仰と救いを求め、悲喜こもごも、青森県津軽の人々はこぞって、身近なプチ巡礼に向かったのです。
もしかしたら現在の心霊スポット巡りにも、似たような動機が働いているかもしれません。霊場・心霊スポットというからには、オカルト現象はつきものですから。
今回は普段とはちょっと違った、歴史や信仰に想いをはせる心霊スポット「久遠寺」について紹介しました。その裏には、オシラサマ信仰といった民間信仰や、津軽版お遍路といった風習や信仰が隠れています。
青森県には、他にも歴史や風習を感じさせる心霊スポットがたくさんあります。子殺しの風習から生まれた「崩川」や、水子の霊がさまよう地蔵堂など……コチラの記事で詳しく紹介しています。
また今回のように民間信仰や地方の風習から、島根県の最恐心霊スポットを読み解く記事には、コチラがありますので、こちらもぜひご覧ください。