四国地方の香川県善通寺市には弘法大師空海の故郷であるとされている「善通寺」があります。
市の名前になるほど地元では有名なお寺であり、四国八十八ヶ所の中の1つにもなっており、昔から多くのお遍路さんなどで賑わっていました。
筆者の幼年期の地元付近にあったので、当時は初詣やお祭りなどで何度か訪れたことを覚えています。
[char no=”1″ char=”オカルトマト”]実は善通寺は真言宗善通寺派の総本山でもあるんだ[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]真言宗と言えば、空海が中国から持ち帰った仏教だよね?[/char] [char no=”1″ char=”オカルトマト”]そうなんだけど、実は空海が持ち帰った仏教は正式には「真言密教」というものなんだよ[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]密教って言われると急にオカルトチックになるなぁ・・・[/char]画像引用元:空海
空海は社会や歴史などの授業で教科書にも登場する人物ですので、知っている方も多いと思います。
日本天台宗の最澄と並んで、平安時代の初期に仏教の派閥を大きく変えたことでも有名ですが、実は当時の中国へ渡るまでの空海の足取りには謎が多く、詳細があまり分かっていません。
遣唐使として認められた時、最澄は既に名のある僧侶でしたが、空海はほぼ無名でした。
しかし、遣唐使として中国での実績が認められると遍照金剛(へんじょうこんごう)という密教における正統後継者としての名前を与えられます。
空海は中国で学んだ密教を、日本に持ち帰った後、真言宗の開祖として歴史に名前を残すことになります。
その後、同香川県にある満濃池の補修などの公共事業にも大きく貢献したと伝わっています。
また、空海や最澄の時代に修行を主にした仏教が日本に入って来たことから、山岳信仰や修験者などが増えたとも言われています。
そして空海が山岳修行時代などに回っていたとされる寺院とその道が、現在でも多くのお遍路さんがお参りしている四国八十八ヶ所の元になっているのです。
日本では空海の時代以前よりも仏教の伝来が確認されていますが、鎌倉時代起こる民間信仰がメインの仏教と比べて高貴な人が教えを受ける学問とされてきた背景もありました。
空海が日本へ持ち帰った仏教も、当時民間信仰に重きを置いていたヒンドゥー教との対立があり、仏教修行の保護や怨敵の降伏を目的とした大黒天(現在の七福神であり、元々はヒンドゥー教における最高位の神であるシヴァ)などを仏として取り入れるなど、一般大衆に教えを広めるというよりは、師匠から弟子へと受け継がれるという性質の強いものでした。
[char no=”2″ char=”すぱもん”]なぜ敵対関係にあったヒンドゥー教の神様が大黒天になったの?[/char] [char no=”1″ char=”オカルトマト”]これには諸説あるけれど、インド発祥の仏教と日本古来の神道が融合していく内に体系的にヒンドゥー教の神様を仏として扱ったというのが良く言われている。ただし、初期の大黒天は憤怒相(怒りや破壊)で表されることもあったから、破壊の神であったとも伝わっているね[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]七福神ってもっと穏やかな神様達だと思ってた・・・[/char]この後、鎌倉時代に多くの民間信仰が主流となる仏教が起こるまでは、いわゆる修験者や僧侶など、朝廷に仕える人などが信仰してきたのが真言宗や天台宗といった仏教でした。
先にも紹介しましたが、香川県にある満濃池が氾濫した際に、朝廷は池の修繕工事を命じます。
しかし、専門家が3年かけても池の氾濫は収まらず、これを現在のアーチ型にしたのが空海でした。
この土木工事の技術は真言密教の中で覚えたものだとも言われており、単純に思想や世界観だけではなく、空海が実務の面でも多くの知識を密教から習ってきたことを表しています。
つまり、当時の仏教とは一種の文化形態と宗教が折り混ざったものであり、現在のような形態とは様子が違っていたと思われます。
空海の学問はこれだけにとどまらず、全国各地には現在5000以上の逸話が残っていると言われています。(ただし、空海が実際に移動したと考えられている距離や場所よりも多いため、虚実混同されているとの説もあります)
また、香川県で一大ブームになった「讃岐うどん」の発祥も、空海が中国から持ち帰った食文化だとする説があります。
弘法大師の諡号は時の醍醐天皇によって贈られたものでした。これだけでも朝廷に対してどれほどの影響力を持った人物であったのかが伺えます。
四国八十八ヶ所巡りには、ご利益があると言われている一方で、様々な都市伝説が語られています。
たとえば、1番札所から順番にお参りすることを「順打ち」と呼び、逆に周ることを「逆打ち」と呼びます。
ホラー映画「死国」で描かれたのは、この「逆打ち」を題材にした物語でした。
逆打ちには死者を蘇らせるという効果があるという言い伝えがあり、これを行ったことによって様々な怪奇現象が引き起こされるというものです。
実際に、四国八十八ヶ所の巡礼には形式が決まっておらず、お遍路中に不可解な現象を体験したことがあるという人は数多く存在しています。
その不可解な現象には、あの人気テレビ番組である「水曜どうでしょう」の企画の中でも確認されています。
画像引用元:崇徳天皇
崇徳天皇は第75代の天皇でしたが、朝廷内での貴族間の争いに負けた結果、讃岐(香川県)へと島流しにされます。
この時、崇徳天皇は自らの争いに巻き込まれて死んでいった兵や人々に悔い改める意味で多くの写経を残したそうです。
讃岐での生活の中で仏教に傾倒していった崇徳天皇は自戒の意味も込めて供養と反省の証として、これらの写経を京の寺に収めて欲しいと朝廷に伝えます。
しかし、後白河天皇一派はこれを許さず、「呪いがかかっている」という理由を付けて写本を全て送り返しました。
この行動に対して怒り狂った崇徳天皇は下を噛み切った上で写本に自ら魔の道に落ちて呪いを残すことを決意し、その後崩御するまで怪物のような姿で生きていたと言われています。
また、崩御した崇徳天皇を墓に埋めたさいには、血がとめどなく溢れ出すという怪奇現象が起こったとも言われており、この後の後白河天皇の時代にも多くの祟りを与えたとされたことから、怨霊鎮魂の意味を込めて数々の儀式によって怨念の沈静化が願われています。
実は、四国八十八ヶ所の内、香川県坂出市にある「天皇寺高照院」は79番目の霊場となっていますが、ここは崇徳天皇に縁のあるお寺として有名なのです。
一部では日本の三大妖怪の天狗としても語られる崇徳天皇の呪いは現代にも伝えられている土着信仰の1つです。
四国八十八ヶ所の都市伝説として語られるものの中には、これらの八十八ヶ所は結界であるという説があります。
空海よりもさらに昔、物部氏と蘇我氏による「廃仏派」と「仏教派」の2大勢力が争っていました。
一説によると、廃仏派であった物部氏は初代天皇の頃より神道に仕えており、蘇我氏は渡来人の流れを組んでいたとも言われています。
この争いでは物部氏が敗北し、実質的に仏教の文化、大陸の文明が日本に融合していく訳ですが、ここにもあの秦氏が絡んでいたと推測されるのです。
数々の寺院の建立に関わったとされる秦氏は京都を中心に勢力を持っていた一族ですが、四国にある剣山には秦氏が関わったとされる神社も存在しています。
空海は中国の仏教を学問として習得し、密教独特の文化を多く持ち帰った人物でした。
山岳信仰や巨石信仰は秦氏に関する寺院にも多く見られる習慣であり、稲荷神社の起源となったエピソードにも山岳信仰と空海自身が関わっています。
上記記事では、東寺について少ししか触れていませんが、空海の真言密教は当初、この京都にある東寺を道場として使用しています。
つまり、同年代に存在した秦氏と空海には交流があったのです。
未だに秦氏の出自に関しては不明点が非常に多いですが、この秦氏との関係性によって四国の八十八ヶ所を結界とし、霊山として知られる剣山を外敵から守る目的があったとも言われています。
[char no=”1″ char=”オカルトマト”]四国随一の霊山である剣山には「ソロモンの秘宝伝説」など渡来人や日ユ同祖論に繋がる噂が豊富にあるんだ[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]剣山にはアークが隠されているとも聞いたことがあるような・・・[/char] [char no=”1″ char=”オカルトマト”]渡来人の秦氏と弘法大師空海、そして日ユ同祖論は切っても切れないような物的証拠が数多く残っているからね[/char]少し話を戻しますが、空海が中国の青龍寺で習っていたのは「真言密教」と呼ばれるものでした。
この密教の習慣の中には「護摩焚き」と呼ばれる儀式があり、この内の一部は初期密教における呪いや呪術の類いに近い性質を持っています。
基本的には自身の煩悩や無病息災を願うこの「護摩焚き」の儀式ですが、唯一「調伏法(ちょうぶくほう)」と呼ばれる使い方は、現在でも「怨みのある敵や魔障から身を守る」という意味合いの元に行われています。
これは呪詛などが元になったバラモン教やヒンドゥー教初期の密教の影響だとも言われていますが、先に書いたように、空海の学んだ密教でも勢力拡大を図っていたヒンドゥー教に対して打ち払うという意味を込めての方向性を見出していたことから敵対関係には攻撃的な一面を持っていることを伺わせています。
[char no=”1″ char=”オカルトマト”]護摩焚きは基本的に密教系の宗派でしか行われない特徴のある儀式だと言えるよ。実際に僕も調伏法の護摩焚きを見たことあるけれど、嫌いな人の名前を書いた護摩の札を次々と燃やしていくんだ[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]それはちょっとこわい[/char]ちなみに、真言宗善通寺派の年中行事では、お正月から3日間の間に護摩焚きの行事を行なっています。
さて、ここまで空海や四国八十八ヶ所の様々なお話を紹介してきましたが、善通寺も四国八十八ヶ所の1つ、75番霊場となっています。
善通寺は西院と東院に分かれており、境内は非常に広い造りです。
また、田舎の神社ではありますが、空海が唐から持ち帰ったとされる杖などが国宝として奉納されていたり、数々の建造物が重要文化財に指定されています。
西院は空海生誕の地として有名であり、明治時代以降にも多くの建物が増築されてきた歴史があります。
善通寺は日本の戦国時代に一度消失しており、大部分が失われました。
その後、地元の地方豪族などの援助を受けて再建し、1900年代には戦争に関連して参拝所も整えられてきたという歴史があります。
敷地内には小さな五重の塔や釈迦如来像の納められているお堂があり、さらに南北朝における犠牲者を弔う足利尊氏利生塔など建てられています。
西院には仁王門に金剛力士像も設置されており、善通寺全体をお参りすると、小さな京都のような気持ちになってきます。
善通寺の本堂には数万にも上ると言われる書物などが保管されていましたが、これまでに細かい調査などが行われたことがありませんでした。
しかし、平成12年からこれらの史料や書物の本格的な整理と調査が開始されており、今後、これらの史料が調査されていけば、当時の空海などの実像なども蘇ってくるのかも知れません。