「男女平等!」「どんな人にも平等に接しましょう」など、私たちは”平等”の尊さを教えられてきました。
その通り、平等とはすばらしいことに違いはありません。
しかし、もしそれによって不利益を被ることになったらどうでしょうか?
どんな場合でも不平等はいけないことなのか?どんな場合なら不平等が許されるのか?
今回はそんなテーマについて考えていきます。
ジョン・ロールズ「正義論」
20世紀に活躍したアメリカの政治哲学者ジョン・ロールズは、自身の「正義論」という著書の中でこうのような疑問を投げかけています。
ある夫婦は、息子3人へのクリスマスプレゼントを買いに出かけた。
両親は3人を平等に愛しており、プレゼントの金額も1人100ドルと決めていた。
その年のプレゼントは1台100ドルの携帯ゲーム機「プレイボーイ」を3つ、お揃いで買ってあげようと思い商品を手に取った。
その時、父がある店内広告を目にする。
「ひとつ150ドルの最新式・プレイボーイデラックスを2つ買うと、プレイボーイが無料で1個ついてきます!」
最終的に払う金額は同じだが、結果的に最新式のものを2つ手に入れることができるのだ。
ここで夫婦は口論になった。母は3人を平等に扱うことを優先し、父はその結果損をすることが許せないという。
兄弟を平等に愛することは素晴らしいことです。
しかしこの場合では、平等を追求した結果、もらえるはずだった2つの「プレイボーイデラックス」は「プレイボーイ」へとランクダウンしてしまいます。
父の意見に従っていれば3人のうち2人が最新機種をもらえるはずだったということを兄弟が知ると、不満が出てきてもおかしくないと思いませんか?
”平等”にこだわるあまり誰かが損をする、そんなことは社会でもよくあります。
これは”損のない不平等”と”損のある平等”を天秤にかけた、とても興味深い思考実験です。
ジョン・ロールズの「格差原理」
ジョン・ロールズは「最も恵まれない人の利益になる場合、不平等は許される」という考え方を「格差原理」と呼びました。
この原理にのっとって考えれば、本来なら3人が平等にプレイボーイをもらい、もちろん3人にとっては損も得もありません。
しかし、3人のうち2人が最新機種をもらい、残りの1人がプレイボーイをもらったとき、その残りの1人は「最も恵まれない人」となります。
この状況は、残りの1人にとって「利益になる」といえるのでしょうか?
集団の大きさが違うと感覚も変わる
ジョン・ロールズが「格差原理」を提唱したのは政治の話ですから、必ずしもこの原理が家族に当てはまるとはいえません。
社会全体を通してみると、格差原理は理にかなっているように思えます。
一方、それが家族となると意見が代わる人も多いでしょう。
小さな集団の中では「不平等」がいっそう目立ち、不満も生みやすいのです。
損のない不平等は身近にも起こり得る
このような「損のない不平等」は、いつ自分におこってもおかしくありません。
もちろん、状況によって何が正しいか、何を選択すべきかは変わってきます。
隣人が突然大金持ちになったら?
あなたの隣人が、ある日突然宝くじを当てて大金持ちになったとします。
その場合、もちろんあなたは何も損していません。
しかし、心理的に隣人と経済的な格差が生まれ、嫌な気持ちになるのではないでしょうか。
「平等」というものを、狭い集団で、ただ物質的(経済的)な面だけで見ていると損した気分になってしまうのです。
平等は必ずしも正しくはない
平等な世の中は基本的には素晴らしいですが、必ずしも正しいとは限りません。
例えば学校であなたがトップの成績だったとします。
しかしクラスには色んな学力の生徒がおり、格差原理にしたがうと授業のペースは最も学力の無い子に合わせることになります。
その場合、公平ではありますが学力トップのあなたは確実に損をしていますよね。
このように、平等が不利益になる場合は学力ごとにクラスを分けるだとか、対策を取らないといけません。
まとめ
ジョン・ロールズの「正義論」から「平等」について考えました。
何かと平等、平等と叫ばれる世の中ではありますが、何もかも平等にするべきなのでしょうか。
物質的、社会的様々な側面からものごとを見て、間違いないように判断していきたいですね。
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