時代を超えても評価をされ続ける芸術作品は数多くあり、何百年も前に作成された作品が心を鷲掴みにすることはよくあります。

浮世絵師写楽もそのうちの一人であり、天才という名前が相応しい芸術家でありました。

しかし魅力的な作品は全て10カ月という短い期間で作成されており、その後は忽然と姿を消して行方不明となった謎多き人物でもあります。

写楽とはどのような人物だったのでしょうか。

東洲斎写楽

ペンネームは「東洲斎」となっており、写楽をつなげて東洲斎写楽と言います。

詳しい生年月日や生まれはわかっておらず17945月から1795年の1月まで10ヶ月の間に作品作成をしたことしか判明しておりません。

また10ヶ月の間に作成した作品は145あまりとなっており、有名な「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」や「三代坂田半五郎の藤川水座衛門」なども作成をしております。

これだけでも写楽の異質さがわかると思います。多くの芸術家は長い年月をかけて作品を完成させることが多く、構成から作成までに数年を費やすことも珍しくありません。

しかし写楽はわずか10カ月という短さで作成した作品で他を圧倒しているのです。

実際は写楽が全て作成したのかはわからないですが、事実であれば恐ろしい才能であることは確かでしょう。

何者?

写楽の正体に関して明確な答えは出ておりませんが「増補浮世絵類考」には写楽斎という項目に「斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す、阿州侯の能役者」と書かれており、本当であれば写楽は八丁堀の能役者であったと記述されております。

しかし当時の八丁堀には能役者が多数存在しており、十郎兵衛が存在していたことを裏付ける文献が少ないため根拠がない状態でした。

ですが近年になり斎藤十郎兵衛の名前が記載された伝記や「諸家人名称江戸方角分」に写楽斎地蔵橋という記述があるため実在はしていた可能性が高くなっております。

とはいっても写楽=十郎兵衛という根拠の裏付けとなる資料は見つかっていませんので推測の域を出ません。

またここまで影響力のある浮世絵を描いていたのにも関わらず付近で騒がれていないという点も不思議であり、能役者として働いているのにも関わらず絵師として活躍することが許されなかったという説もありますが解明されてはおりません。

蔦屋重三郎の売り出し

写楽に比類なき才能があったとしても趣味で描いていただけでは世に知れ渡ることはありませんよね。

実際日の目を浴びない芸術家の方たちは多くいらっしゃいます。

ではどうやって写楽の浮世絵が人気になったかというと、蔦屋重三郎という江戸でかなり力のあった版元の活躍により爆発的に世に出回ることになりました。

TSUTAYAがルーツの1つとして挙げている蔦屋重三郎です。

当時無名だった写楽の腕を見抜いて売れると判断していのかはわかりませんが、写楽がここまで有名になったのは確実に蔦屋重三郎のプロデュースがあったからといえます。

結果的に評価されるのは少し先となってしまいますが先見の明があった蔦屋重三郎は流石ですね。

世界3大肖像画家

たびたび世界3大肖像画家として写楽の名前が挙げられることがあります。

しかしレンブラント・ベラスケスと並んで称されるだけの力はあったかと思いますが、実際に3大肖像画家として紹介されていたわけではありません。

クルトという美術研究家が出した「Sharaku」という著書で紹介されたとされていますが、明確に記載されてはいませんので注意してください。

しかしオークションで数千万の値が普通についてしまうほどの人気がありましたので実力的に見ると的外れではないかなと思うところもあります。

葛飾北斎などを筆頭に優秀な浮世絵師は評価される時代になっていますので、写楽の核心にせまる資料が出てきてほしいものですね。

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