日本人のルーツから邪馬台国、大和朝廷、そして日本の誕生まで――民俗学の方法論で古代日本の謎を解き明かす全7回の連載『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』。
第4回では弥生系渡来人がなぜ日本を目指したのかについて解説しました。太陽信仰をもつ稲作漁労民にとって、太陽の昇る東方の国「日本」は、まさに聖地でした。
今回は大分県の「宇佐神宮」の謎を徹底追及します。「名前ぐらいしか知らない」という方もいるかもしれません。
実は宇佐神宮には、邪馬台国があったとか、地下に卑弥呼の墓があるとか、本当の主祭神がわかっていないとか、かつては二所宗廟(にしょそうびょう)と呼ばれて伊勢神宮より格上だったとか、はたまた天皇家のルーツがあるとか……怪しい謎が満載なんです。
宇佐神宮の謎を解くことで、邪馬台国と大和朝廷の謎も一気に解くことができるんです!
宇佐神宮は大分県宇佐市にある神社です。全国に4万600社もある八幡宮(八幡社)の総本社で、「宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)」とも呼ばれます。
八幡宮とはその名の通り、「八幡神(ハチマン)」という神を祀(まつ)る神社です。古くから「八幡様」や「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」と呼ばれて親しまれてきました。
日本には約11万社の神社があるといわれていますが、その中でもダントツで一番多く祀られているのが、この八幡様です。セブンイレブンの店舗数が2万929店舗(2020年4月現在)ですから、倍以上ですね。
まさに日本全国八幡神だらけ。そういう意味では、日本で一番人気の神様といってもいいかもしれません。
そんな一番人気の八幡宮の総本社なのですから、これだけでも宇佐神宮がすごい神社であることがわかります。
では八幡神は、なぜここまで人気になったのでしょうか?
八幡神は「弓矢の神」や「武神」とされました。
そのため貴族社会から武家社会に移ると同時に、全国の武家から信仰されるようになりました。とくに鎌倉幕府を開いた源氏は八幡神を篤(あつ)く信仰し、源氏の氏神(うじがみ・一族の守護神)としました。
やがて日本全国の地頭(領主)がそれぞれの領内に八幡宮を建てました。
中には別の神を祀っていた神社を、八幡宮にすり替えたところも多くあったといいます。たとえば対馬市木坂に建てられた「木坂八幡」(現在は「海神神社」)は、かつては海神ワタツミを祀った神社でした。
また宇佐神宮にはかつて「弥勒寺(みろくじ)」という寺があり、これは神道と仏教が融合した寺でした。こういった神社仏閣を「神宮寺(じんぐうじ)」と呼びますが、宇佐神宮は日本でもっとも古い神宮寺の1つで、神仏習合のパイオニアだったことがわかります。
宇佐神宮のある国東半島は朝鮮半島との結びつきが強いので、宇佐には、大和朝廷(奈良)に伝わるより早く仏教が伝来したのでしょう。奈良時代以降、天皇家は仏教を篤く保護したので、同時に宇佐神宮も厚遇されたのです。
781年に朝廷は鎮護国家・仏教守護の神社として、「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」という称号を贈っています。
こういったムーブメントの結果、八幡神は庶民からも信仰されるポピュラーな神様になり、現在の八幡信仰につながります。
それだけ人気の神様のわりに、八幡神がどのような神なのかを知っている人はあまりいません。
ゲームや漫画にもあまり登場しないので、現代ではスサノオやイザナギの方が知名度があるくらいでしょう。
実は、八幡神(八幡大神)の正体はいまだにはっきりしていないんです。それどころか八幡神は、『古事記』や『日本書紀』といった日本神話にも登場しません。
大人気でありながら大きな謎に包まれた神様……それが八幡神なんです。
現在では一般的に、八幡大神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」=第15代天皇「応神天皇」を神格化したものとされています。
ですがこの応神天皇説、実は後づけなんです。
八幡神がはじめて文献に登場するのは、『日本書紀』の続編である『続日本紀』です。このとき(737年)は「広幡乃八幡大神(ヒロハタノヤハタノオオカミ)」という名前で登場していますが、応神天皇のことはなにも書かれていません。少なくとも奈良時代中期までは、応神天皇とは無関係の神だったのです。
またこの頃は「ハチマン」と訓読みで読まれていました。現在のように「ヤハタ」と読まれるようになったのは神仏習合が進んでからでしょう。音読みは仏語に由来するからです。
しかし宇佐神宮の由緒書き(『八幡宇佐宮御託宣集』)によれば、571年に八幡神が「我は誉田の天皇広幡八幡麿なり」と、応神天皇であることを宣言したとしています。
この『八幡宇佐宮御託宣集』がいつ頃書かれたのかは不明ですが、他の文献との比較から、八幡神=応神天皇と見られるようになったのは平安時代に入ってからだとされています(奈良時代後期とする研究者もいます)。
本来の八幡神は、宇佐の豪族たちによって信仰されていた土着神でした。土着神とは、その土地で古くから信仰されていた神(精霊)のことです。
『豊前国風土記』逸文(豊前=現在の福岡県北東部~大分県北部)では、八幡神のことを「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原に住むり」と書いています。
つまり、朝鮮半島にあった「新羅(シラギ)」に由来する神だとしているのです。
土着神としての八幡神を祀っていたのは、海人族であった「宇佐氏」か、朝鮮半島にルーツをもつ渡来系氏族の「辛島氏(からしま氏)」のどちらかだとされています。
海人族のルーツが、中国大陸の渡来系の海洋民族に求められることは、第3回でお話しましたよね。
いずれにせよ、八幡神の正体は渡来人の神だった可能性が非常に高いのです。
その後886年、「大神氏(おおが氏)」という大和(奈良)に由来する朝廷の有力氏族が豊後国(現在の大分県)にやってきます。この大神氏が応神天皇の信仰を持ち込み、八幡神との習合を進めました。
つまり大和朝廷(天皇家)が宇佐を支配下におき、宇佐神宮を取り込んだことで、現在のように応神天皇と同一化されたのですね。
ですが、大和朝廷(天皇家)はなぜそこまでして八幡神を手に入れようとしたのでしょうか?
筆者はここに、宇佐神宮の秘密と天皇家のルーツが隠されているとにらんでいます。
「二所宗廟(にしょそうびょう)」という言葉を知っていますか?
「廟(びょう)」とは墓のことですが、中国で「宗廟」というと、祖霊祭祀(先祖神の祭儀)を行う聖地(宗教施設)のことを指します。
そして日本では、天皇家の祖神を祀った神社を「宗廟」といいます。「二所」ですから、これが2つあるんですね。
言い換えれば、朝廷(天皇家)にとってもっとも重要な2つの神社のことです。
現在の二所宗廟は、「伊勢神宮」と「石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)」です。
天皇家の先祖神(皇祖神)は「天照大御神(アマテラス)」です。伊勢神宮は天照大御神を祀り、日本の神社の最高格とされていますから、二所宗廟に含まれているのも当然ですよね。
ですが、石清水八幡宮はどうでしょう? 京都府八幡市にある神社で、たしかに人気はありますが……。
石清水八幡宮は八幡宮の1つです。つまり、大分県の「宇佐神宮」の分社です。
二所宗廟とはもともと、宇佐神宮と伊勢神宮のことを指していました。
ただ大和(奈良)から九州の宇佐神宮は遠すぎるので、京都にある石清水八幡宮と交代したんです。石清水八幡宮が二所宗廟となったのは中世からです。
鎌倉時代に書かれた歴史書『承久記』には、「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と書かれています。
宇佐神宮はかつて、伊勢神宮と同格の神社でした。
そしてこの事実は同時に、宇佐神宮に天皇家のルーツ(先祖神)が眠っていることを示しています。
二所宗廟だった宇佐神宮ですが、実は奈良・平安時代においては伊勢神宮と同格どころか、それ以上に重要視されていたことがわかっています。
有名な2つの例が東大寺の大仏鋳造と、道教事件です。
東大寺の大仏といえば、「奈良の大仏」とも呼ばれて親しまれている日本最大の仏像です。正しい名前は「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」といいます。
735年、日本で天然痘(疱瘡)が大流行しました。この際当時の日本の総人口の25~35パーセントが死亡したといいます。
この国難に対し、聖武天皇は仏教の力で国を守ろうとしました。その政策の一環が、東大寺の大仏の鋳造でした。
まさに国を挙げての一大プロジェクトで、260万人の人々が全国から参加したといいます。しかし途中で大仏に塗る金箔が不足し、計画は中止になりかけました。
このトラブルに対して朝廷は、宇佐神宮にて占いを行ないます。
すると「国内から必ず黄金が出る」という神託(お告げ)があり、実際に陸奥(現在の青森県~福島県)国から大量の金が発掘されました。こうして無事、大仏は完成。
系譜によれば、天皇家は万世一系……つまり初代天皇からずっと血が繋がっているとされています。ですがこの皇統は、歴史上何度も断絶の危機を迎えました。
その最大の危機が、奈良時代に起こった「道鏡事件」です。宇佐神宮が大きく関わっているため、「宇佐八幡宮神託事件」とも呼ばれます。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は一介の僧侶でしたが、孝謙上皇(女帝)の病を治したことをきっかけに政界入りを果たします。さらに生涯独身で子どももいなかった女帝に気に入られ、その寵愛を一身に受けるように。
そんなときに次の皇位を誰が継ぐかという話になったものですから、天皇の血を継いでいない道鏡が天皇になってしまうのではないかと朝廷はザワつきます。
道鏡サイドと朝廷(貴族)サイドは互いに宇佐神宮にまでおもむいて、その神託によって皇位継承者を決めようとし……まぁここでも色々とゴタゴタがあったのですが、現在まで万世一系が続いているように、最終的に道鏡が天皇位に就くことはありませんでした。
ここで注目してほしいのは、大仏鋳造という国家的事業や、皇位継承問題という朝廷(天皇家)の一大事に、最高格かつ大和にも近い伊勢神宮を無視して、九州の宇佐神宮に頼ったということです。
神道上においては伊勢神宮が最高格ですが、少なくとも中世までは、天皇家(朝廷)にとっては宇佐神宮のほうが重要だったのではないか、という1つの仮説が浮かび上がります。
筆者は、天皇家にとっての真の「宗廟」(先祖神の墓所)は宇佐神宮だった、と考えています。
ちなみに「宇佐神宮が二所宗廟に選ばれたのは、祭神が応神天皇だからではないか」という説がありますが、これは順序が逆です。
先ほど紹介したように、そもそも宇佐神宮の祭神=八幡神は応神天皇とはなんの関係もありません。奈良~平安時代の移行期頃にすり替えられたとされています。
さらに応神天皇は、宇佐(豊前国)となんのゆかりもない人物です。九州でも筑紫(福岡県)や日向(宮崎県)なら関係があるのですが……。宇佐と関係のある重要な人物は、初代天皇である神武天皇くらいでしょうか。
そもそも東大寺の大仏が作られたころは、まだ八幡神と応神天皇が同一視される前だと思われますから、宇佐神宮は応神天皇と無関係に天皇家(朝廷)から重要視されていたと考えるのが自然です。
つまり天皇家にとって宇佐神宮が重要だったから、祭神を応神天皇にすり替えて、二所宗廟とする理由を得たのではないか……ということです。この推理を裏付ける根拠を次に紹介します。
宇佐神宮には八幡神だけでなく、3柱の祭神が祀られています。「柱」は日本の神様の単位です。社殿が3つ並んでいて、それぞれに神様が祀られているんですね。
さらに宇佐神宮は、「上社」と「下社」と本殿が2つある構造になっています。
「亀山(小椋山)」という小山のふもとに下社が、そして山頂に上社があり、どちらにも3つの社殿が建っています。
それぞれの社殿に祀られている3柱の神をまとめると以下のようになります。
「八幡大神」はもちろん八幡神のことです。
「神功皇后」とは応神天皇の母親です。「三韓征伐」神話で有名な女帝ですね。
しかし神功皇后も宇佐の地とはなんの関係もない人物です。おそらくは応神天皇が八幡神として祀れられるようになってから、その母親ということで一緒に祀られるようになったのでしょう。
問題は二之御殿に祀られた「比売大神」です。
実はこの比売大神も、八幡神同様正体がはっきりしていないのです。いや、八幡神以上にわかっていないといえるでしょう。
そもそも「比売大神」という神は存在しません。固有名詞ではなく、「女神」をあらわす言葉なんです。
「比売(ヒメ)」=「姫」と考えればわかりやすいでしょう。
ですから比売大神は神社によって異なり、主祭神と関係の深い女神(つまり妻や娘)を指すことがほとんどです。
宇佐神宮の比売大神は、神社本庁によれば「宗像三女神」ということになっています。
宗像三女神とは、福岡県の宗像大社(むなかたたいしゃ)で祀られている3姉妹の女神です。海の神・航海の神として有名ですね。
ですが宇佐の古文献や神話を読み解いても、「比売大神は宗像三女神だ」と書かれたことは一度としてないのです。
ではなぜ宗像三女神ということになっているのかというと……。
宗像三女神は、天照大御神とスサノオノミコトの誓約(うけい)によって生まれた神です。細かい説明は省きますが、いわゆる男女の交わりから生まれたのではなく、宗教的儀式によって誕生した神だということです。
ただこの「誓約」神話は、かなり多くのパターン(伝承)が伝わっていたようで、まず『古事記』と『日本書紀』でも微妙に記述が異なります。さらに『日本書紀』には、「一書によれば」という書き方で、3つの別パターンの伝承を載せています。
その中の一つに「卽以日神所生三女神者、使隆居于葦原中国之宇佐嶋矣」という記述があります。「日の神が生んだ三女神は葦原中国(日本列島)の宇佐嶋(ウサノシマ)に降臨した」という意味です。
宇佐神宮としては、この「宇佐嶋」を宇佐のどこかの島として、宗像三女神が降臨した地と設定しているんですね。
ただ数ある伝承の中でそんな由来を伝えているのはこの1つのみで、それ以外のパターンではすべて、「宗像三女神は福岡の宗像大社で祀られる神だ」と書いています。
そういった理由から、田中卓氏など多くの歴史学者は「宇佐島」とは宇佐の島ではなく、「九州本島」の意味だとしています。そうすれば他と同じ意味になりますよね。
ですから宇佐神宮の比売大神ははっきりしておらず、その正体をめぐって様々な説が唱えられています。以下にいくつかを紹介しましょう。
しかし、比売大神の謎はこれだけではありません。
神社で祀られている神を「祭神(さいじん)」といいます。現在多くの神社では、複数柱の神が祀られるのが一般的です。
その際、もっとも中心となる神を「主祭神」もしくは「主神」と呼び、それ以外の神を「配神(はいじん)」や「相殿神(あいどのしん)」と呼びます。
また主祭神や配神を祀るときには、中央に最も偉い神様を祀り、次に偉い神を右側、次点を左側に……と序列によって祀り方が決まっています。
宇佐神宮は「宇佐八幡宮」とも呼ばれるように、当然のように一番偉い主神は八幡大神だと思っている人が多いのですが……。
社殿の中心は二之御殿になっており、つまり主神は比売大神ということになるのです。
写真を見れば一目瞭然です。
位置的にも中心で、社殿の豪華さから見ても明らかに二之御殿=比売大神が本当の主神に思えます。
しかも『宇佐神宮御由緒記』によれば、比売大神は宇佐の土着神であり、八幡大神よりも古い時代から信仰されてきた神だというのです。
応神天皇はもともと八幡神とは無関係なのですから、応神天皇の妻や妹、娘が比売大神の正体であるわけがありません。また宗像の神である宗像三女神が、八幡大神より格上で祀られているのもまたありえないでしょう。
ですが、この比売大神に相応しい女神(女性)が1柱(1人)だけいます。
それが天皇家の先祖神(皇祖神)である「天照大御神」であり、そして天照大御神のモデルとなった邪馬台国の女王「卑弥呼」です。
今までの連載の復讐になりますが、「邪馬台国」とは弥生時代の日本に存在したとされるクニです。現在では一般的に「やまたいこく」と読まれています。
そんな邪馬台国の女王が「卑弥呼(ひみこ)」です。そして卑弥呼は、倭国(当時の日本)の連合国家の王でもありました。
弥生時代の日本にはたくさんのクニがあり、それらのクニをまとめあげたのが、邪馬台国の卑弥呼だったということですね。
そんな邪馬台国の最大の謎は、その比定地(場所)です。
九州説と畿内説(近畿)が有名ですが、他にも四国説や北陸説など……江戸時代から200年以上に渡って議論が繰り返されているものの、いまだに決着がつく気配がありません。
実は宇佐は、邪馬台国の比定地の1つでもあります。それは「宇佐神宮は卑弥呼の墓だ」という伝説があるからです。
九州説にしろ畿内説にしろ、状況証拠は多くあるのに邪馬台国の比定地がはっきりしないのは、「卑弥呼の墓」の遺跡=決定的な物的証拠が見つかっていないからです。
『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓の様子が描かれています。
当時の日本には文字文化がありませんから、邪馬台国について知るには同時代に書かれた中国の文献に頼るほかありません。それが『三国志』という歴史書の中にある『魏書』の「東夷伝」の「倭国条」……いわゆる『魏志倭人伝』です。
「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人」
卑弥呼の墓は直径144メートルで、さらにその付近には100人の奴隷が殉葬された(一緒に埋められた)といいます。
これだけ巨大な古墳がいまだに発見されていないというのは不可解というほかありません。ですから、すでに存在する古墳が実は卑弥呼のものである、と考える人は多いです。
畿内説では、纏向遺跡(まきむく遺跡)にある「箸墓古墳(はしはか古墳)」を卑弥呼の墓とする者がほとんどです。
出典:日本経済新聞
というのも後方の円墳部分が直径約160メートルで、魏志倭人伝の記述に近いからです。さらに近年行われた「C14測定法」という化学的な調査方法によって、纏向遺跡は3世紀中頃までに成立した可能性が高まりました。
3世紀中頃とはまさに卑弥呼の時代です。
しかし逆にいうと、大きさと年代以外は『魏志倭人伝』の記述には一致しません。
そもそも「径百余歩」という記述から、卑弥呼の墓は丸い円墳だったとわかります。箸墓古墳はかぎ型の前方後円墳です。
前方後円墳は中国にはない文化ですから、もし本当に前方後円墳だったら確実に異国の文化として紹介しているはずです。
さらに女王国(邪馬台国)の葬送の習慣として、「その死には、棺有りて槨無し」と書いています。
これは棺(ひつぎ)はあるが、棺を保護する外槨(がいかく)はないという意味です。纏向遺跡の古墳はすべて外槨をもっています。対して北部九州からは、棺有槨無に一致する「甕棺墓(かめかんぼ)」という特徴的な墓が発見されています。
加えて『日本書紀』によれば、箸墓古墳は第7代孝霊天皇の娘である「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」の墓です。
孝霊天皇は「欠史八代」と呼ばれ、実在しなかった伝説上の架空の天皇だとする研究者が多いのですが、もし実在したと仮定した場合、この孝霊天皇や、その娘の倭迹迹日百襲姫命は邪馬台国の時代と一致するとされます。
畿内説では、倭迹迹日百襲姫命=邪馬台国の女王「卑弥呼」だとしています。
卑弥呼は「鬼道に事え能く衆を惑わす」と書かれており、巫女やシャーマンのような宗教者だったとされています。神話によれば、倭迹迹日百襲姫命も神がかり的なシャーマンのような姿で描かれました。
ですが倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼説が正しいなら、倭迹迹日百襲姫命が当時の王だったということになります。
しかし倭迹迹日百襲姫命は天皇位には就いていませんし、同時代には崇神天皇という圧倒的な権力をほこる男王が存在しています。さらに『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の死後には国中に内乱が起こり、1000人以上が死んだとありますが、そのような記述は日本書紀にはいっさいありません。
こういった矛盾点を、畿内説では「『日本書紀』はあくまでも神話(フィクション)であるから」と問題にしません。しかし途中までは説の補強に使っているのですから、そんな都合のいい文献の切り取り方は科学者の姿勢とは認められないでしょう。
さらにダメ押しとして、箸墓古墳(纏向遺跡)からは100人もの人が一緒に埋められたという殉葬の痕跡は発見されていません。
以上のような問題点から、たとえ邪馬台国畿内説が正しかったとしても、箸墓古墳は卑弥呼の墓とはとうてい思えないのです。
しかし、『魏志倭人伝』の描写にピタリと当てはまる古墳が存在します。それは宇佐神宮です。
実は古くから、「宇佐神宮は古墳の上に作られた」という伝説がありました。
実際に『八幡宇佐宮御託宣集』を見ると、宇佐神宮は「宇佐廟」と書かれています。また『延喜式』神名帳にも、宇佐神宮は「廟神社」と紹介されています。
宗廟の項目でも書いたように、「廟(びょう)」とは「墓」の古い呼び名です。
先ほど紹介したように、宇佐神宮の上社は、亀山(小椋山)という小山の頂上に建っています。
亀山の山頂は、直径80mです。また江戸時代に記された『八幡宮本紀』には「本宮が建つ山上の周りを390余歩」と記されています。これは直径に換算すれば125歩となり、「径百余歩」という記述と一致します。
亀山は人工的な盛土などではない、自然の山だとされています。しかし初期の古墳には自然の山や丘陵地に手を加えたものが多いので、亀山も同じものだと考えられます。
加えて宇佐神宮の境内には、「百体神社」という小さな神社があります。
720年、九州南部に住む隼人(ハヤト)という民族が大和朝廷に反乱を起こしました。
最終的に隼人は敗北したのですが、このとき八幡神も戦いに参加し、宇佐の地にはその隼人の首が100体埋められているという伝説が残されています。
その100体の魂を慰霊するために建てられたのが、百体神社です。
「八幡神が戦った」という記述は神話的ですが、「100人の死体が埋まっている」という伝説が古くからあったのはたしかなのでしょう。
さらに百体神社の近くからは、棺有槨無に一致する「甕棺」が数回にわたり、いくつも出土しているのです。これこそ卑弥呼と一緒に埋められた奴婢100体の棺ではないでしょうか。
「径百余歩」と「奴婢百餘人」という2つの条件に当てはまる卑弥呼の墓の比定地は、日本全国で宇佐神宮しかありません。
そして極めつけが、宇佐神宮の本殿地下から巨大な石棺(石のひつぎ)が2度にわたって発見されているという事実です。
画像引用元:新邪馬台国の秘密
宇佐神宮では何度か改修工事が行われているのですが、明治40年と昭和16年の際には、地下から謎の石棺が目撃されました。どちらも国家神道の時代でしたから、当時は二所宗廟から出てきた棺など、触ってはいけない、話してはいけないということで再び埋められたとのことです。
これだけだとまるで都市伝説のようですが、その後昭和50年に改めて存命していた目撃者を集め、証言をまとめたものが西日本新聞や朝日新聞で報道されました。
目撃者の中には大分県の職員であり地質専門家でもあった山本聴治氏や、宇佐神宮の禰宜の佐藤四五氏、元権宮司の元永正豊氏などの信用に足る人物が何人もいますから、この目撃情報はバカにできません。
2度にわたって発見された石棺が同一のものなのかははっきりしませんが、仮に2つあったとしてもおかしくはないでしょう。
なぜなら邪馬台国の女王といえば卑弥呼だけでなく、その後を継いだ「台与(とよ)」もいたからです。この石棺こそ、卑弥呼と台与の棺ではないでしょうか。
第1回で紹介したように、日本神話の最高神である太陽女神「天照大御神」のモデルは卑弥呼(+台与)だという説があります。
名前や職業、年代、家族構成、食事、そして日本神話と『魏志倭人伝』の記述や描写など、偶然ではとてもすまされないほどの一致が見られるからです。
卑弥呼は稲作漁労民の国(邪馬台国)を導くために、太陽神に仕えた巫女でした。
さらに天照大御神といえば天皇家の先祖神(皇祖神)ですから、大和朝廷(天皇家)のルーツということになります。
八幡神(応神天皇)をさしおいて、宇佐神宮の真の主神の位置にいる謎の女神「比売大神」は、八幡神より古い神様でした。
その正体は卑弥呼です。
宇佐神宮は卑弥呼の墓の上に作られた、まさに卑弥呼を祀るための神社でした。だから「廟神社」なのです。
そして卑弥呼は天照大御神と同一なのですから、天皇家のルーツになります。二所宗廟に指定されるのはもちろんのこと、実際にルーツである卑弥呼の墓があるのですから、伊勢神宮より格上の扱いを受けたのも納得でしょう。
比売大神の「比売(ヒメ)」も当て字ですから、本来は「日女」であった可能性もあるのです。ますます卑弥呼(天照大御神)っぽいですよね。
くわえて、なぜ現在は宗像三女神が比売大神の正体とされたのかという謎も解くことができます。
卑弥呼だけでなく、台与の墓でもあるなら、宇佐神宮には卑弥呼と台与と天照大御神の三位一体の女神として祀られていた可能性が考えられます。その後三位一体の女神という伝承だけが残り、それにあてはまる唯一の存在である同じ九州の宗像三女神が選ばれたのはごく自然でh。
まさに宇佐神宮=卑弥呼=天照大御神の墓説は、宇佐神宮や大和朝廷の謎をまるっと解決することのできる妙案なのです。
ただこの説には、致命的な2つの問題点があります。
① 宇佐神宮の最古の信仰が卑弥呼だとしても、その後渡来人の神である八幡神に主神の位置を取られており、しばらくしてから朝廷が八幡神を応神天皇にすり替えて保護しています。
宇佐神宮に本当に天皇家のルーツが眠っているなら、最初からずっと保護するはずでしょう。奈良時代中期以降は宇佐神宮は厚遇されましたが、逆にいうとそれまでは軽視されていたのです。
② なぜ宇佐神宮は日本神話にほとんど登場しないのか。
天照大御神のモデルの墓などという朝廷にとって重要な宇佐神宮が、朝廷の権威付けのために編さんされた『日本書紀』や『古事記』に載っていないのは不自然です。当然、宇佐神宮=天照大御神の墓だということも神話には一切書かれていません。
二所宗廟という格別の地位を与えながら、神話では冷遇する矛盾。これはどういうことでしょうか。
また第1回でお話したように、卑弥呼=天照大御説にも3つの致命的問題がありました。
これらの事実を総合すると、次のような推測が立てられます。
ここで第2回でお話した邪馬台国の比定地(場所)について復習します。
『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国は、文献によれば間違いなく九州にありました。しかし考古学的には、畿内に邪馬台国があったように思われます。
この矛盾を解決するのが、九州にあった邪馬台国が畿内へ移動したという「邪馬台国東遷説」です。
歴史学や考古学だけでなく、神話学や民俗学、地名学といった観点からもこの邪馬台国東遷説を支持できます。
筆者は、実際の邪馬台国の比定地は「筑後の山門(やまと)」=現在の福岡県 柳川~八女市一帯にあったと考えています。山門説は音韻学の立場から否定されがちですが、その否定根拠を否定できるとする理由も第2回で紹介しましたね。
邪馬台国は「ヤマト国」でした。
九州の山門(ヤマト)が畿内の大和(ヤマト)に遷(うつ)ったのですから、天皇家のルーツは邪馬台国=筑後(福岡)の山門にあったということになります。
としますと、大分県の宇佐神宮に天皇家のルーツがあるという先ほどまでの話と矛盾しますよね。
たしかに筆者は、卑弥呼の墓とそれを祀る神社は宇佐にあると思っていますが、邪馬台国も宇佐にあったとは思っていません。
邪馬台国筑後山門説も、邪馬台国宇佐説も多くの人が唱えていますが、邪馬台国=筑後山門&卑弥呼の墓=宇佐説を唱えている人は筆者以外に見たことがありません。みな当然のように、卑弥呼の墓は邪馬台国にあったと思い込んでいるから、邪馬台国の謎が解けないのです。
邪馬台国(山門)ではなく、宇佐に卑弥呼を祀ったとする根拠は、「伊勢神宮」です。
日本の神社の最高格であり、天皇家の先祖神である天照大御神を祀っている伊勢神宮は、奈良でも京都でも九州でも東京でもなく、三重県伊勢市にあります。
伊勢神宮が伊勢に作られたのは、第4回でも解説したように、日本に太陽信仰と東方信仰があったからです。
大和民族(日本人)のルーツは、中国大陸南方の太陽を信仰する稲作漁労民でした。太陽信仰の聖地は、太陽が昇る「東方」です。
中国大陸にルーツをもつ渡来系弥生人は、日の出づる国である日本列島を目指して入植。日本にはじめて国家=倭国を作りあげます。
伊勢神宮は、大和の東方に位置しています。
日本の最高神である天照大御神は太陽神ですから、東方の伊勢神宮に祀り、それを最高の神社としたのはごく当然でしょう。
邪馬台国も太陽信仰をもった稲作漁労民の国でしたし、卑弥呼は太陽神の巫女でした。
ですから卑弥呼もまた、邪馬台国の東方に祀られました。そう、宇佐です。
二所宗廟(神宮)は、どちらもヤマトの東方にあるのがわかりますね。
神宮も含めて、ヤマトは九州から畿内へ東遷したのです。
しかしこの邪馬台国東遷説にも、第2回で書きましたように、致命的な2つの問題がありました。
今回を含めた5回の連載で、邪馬台国の謎や日本人のルーツをある程度解き明かすことに成功しました。
その結果、邪馬台国とは九州のヤマト国のことであり、それが畿内に東遷したものが大和朝廷であり、また天皇家の先祖神(皇祖神)である天照大御神は卑弥呼であり、その墓は宇佐神宮にあるという仮説が立てられます。
一見謎をすべて解くことのできる仮説のように思えましたが、前述したように、この仮説には多くの問題点がありました。やはり空白の4世紀はずっと謎のままなのでしょうか。
いえ、これらの謎をまるっと解決することができるのが、本連載『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』のタイトルにもある、「民俗学」と「メタ視点」です。
ここまでは既存の説の紹介がメインでしたが、第6回と第7回では民俗学とメタ視点に着目し、筆者独自の推理で邪馬台国と邪馬台国の謎をひも解いていきます。
ここまで読んでいただきありがとうございました。次回もぜひご覧ください。
また本記事執筆にあたっての主な参考文献リストは、記事の一番最後に載せてあります。
参考文献