日本人のルーツから邪馬台国、大和朝廷、そして日本の誕生まで――民俗学の方法論で古代日本の謎を解き明かす全7回の連載『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』。
第3回では、現在の日本人を構成する弥生人のルーツに迫りました。渡来系弥生人には第1波と第2波の2種類があり、第1波弥生人は中国・呉越の越族の海人族で、彼らが日本に稲作を広めました。
越族以外にも、武力に追いやられた長江文明の人々は次々と日本へやってきました。なぜ彼らはそろいもそろって日本を目指したのでしょうか?
それは彼ら海人族が太陽信仰をもっていたからです。東方の島国「日本」は、太陽信仰の聖地でした。
伊勢神宮がなぜ伊勢にあり、出雲大社がなぜ出雲にあるのか? それは太陽が昇る東方と沈む西方を象徴する場所だからです。
太陽信仰と東方信仰に注目すると、日本の国名や神話、お天道様、鏡餅や御神酒といった文化のルーツ、そして邪馬台国と大和朝廷の謎も一気に解くことができるのです!
ところで、日本人にとっての神様ってなんでしょう。キリスト教徒にとってのイエスキリストや唯一神は、日本にはないのでしょうか。
「八百万(やおよろず)の神」といわれるように、日本にはたくさんの神がいます。では日本人は神に祈るとき、どの「神様」に祈っているのでしょう?
日本固有の宗教は「神道(しんとう)」ですが、今ではほとんどの人が仏教式のお葬式をあげるように、「仏様」に祈る人も多いかもしれません。
一応、日本神話の最高神(神道における最上位の神)は「天照大御神(アマテラス)」となっています。
天照大御神は「太陽」を神格化した神であると同時に、天皇家の先祖神(皇祖神)とされています。その由来は第2回でお話しましたよね。
ですが現在は日本国民の総氏神(守り神)にもなっていますので、日本人にとっての神といえば天照大御神ということになります。
といわれてもあまりピンとこない人も多いでしょう。たしかに今でこそ信仰心は薄れていますが、日本人にとっての神様はずっと天照大御神でした。
その証拠が、「お天道様(おてんとうさま)」への信仰です。
おじいちゃんやおばあちゃんから、「お天道様が見てるから悪いことをしてはいけない」と叱られた経験はありませんか?
最近は聞かなくなりつつあるかもしれません。お天道様とは太陽のことで、つまり天照大御神です。
日本人に宗教を尋ねると、「自分は無宗教である」と答える人が多いです。たとえ神社に初詣に行っても、寺で葬式をあげても、神道信者や仏教徒であるという認識をもっている人はごくわずかなんですね。
しかし外国人に「無宗教」だというと、かなり驚かれますし、人によってはドン引きされることもあります。宗教国家においては、宗教の戒律が秩序を守ることにつながるからです。
外国人に無神論者だと宣言すると、「ならず者」だと思われかねないのです。「日本人は信じる神がいないのに、どうやって秩序をたもってきたんだ」と驚かれるわけですね。
こういった話になると、よく「日本人には宗教心はないけど『道徳心』があるから」と答える人がいます。
たしかに神道には、キリスト教のような戒律はありません。しかし「お天道様はいつも見ている。悪いことをすれば必ずバチが当たる」という意識を常に持っていました。
道徳心とは「清く正しい心」のことです。この道徳心はお天道様=天照大御神によって支えられていたのですから、筆者は、日本人は無宗教で道徳心のみがあるという認識は間違っていると思います。
日本人にとっての神様が天照大御神なのですから、日本の信仰は「太陽信仰」だともいえるでしょう。
……という話をしますと、「いや日本のもっとも原初的な信仰は『稲作』だ」という意見がよく出ます。
稲作農耕民であった日本人は、稲穂や米には「稲霊・稲魂(いなだま)」という神が宿ると考えました。稲霊については前回くわしく紹介しましたね。
たしかに日本人の主食は米ですから、生活を支えてきた米を信仰するのはわかる気がします。
日本最大の宮中祭祀(天皇が行う神祭り)は11月23日(勤労感謝の日)の「新嘗祭(にいなめさい)」、および新天皇の即位年に行われる「大嘗祭(だいじょうさい)」です。
新嘗祭も大嘗祭も収穫祭なので、かならず「稲の初穂」がささげられます。
ですがこれは稲(米)を信仰しているのではありません。神に稲(米)をささげているんです。
この神(信仰対象)が、天照大御神であり、太陽なのです。
お正月といえば「鏡餅(かがみもち)」ですが、鏡餅の由来は知っていますか?
三種の神器に鏡があるように、鏡は天照大御神の分身だとされました。ですから鏡のような形の餅を神にそなえたのです。これが鏡餅のルーツです。
では、なぜそもそも神におモチをささげたのでしょうか?
それはモチの原材料が米だからです。
皆さんは「粢(しとぎ)」という食べ物を知っていますか?
米をすり潰して粉末状にし、水でこねて丸めた食べ物です。
米といえば、今でこそ炊いて食べるものですが、大昔、炊飯の技術がなかった時代には、米はしとぎにして食べるのが主流でした。この粢を加熱すると、現在のモチになります。
古代の日本では、しとぎを神様にそなえました。だから今ではモチをそなえるんですね。
しとぎやモチのように、神様にそなえる食べ物を、日本では「神饌(しんせん)」もしくは「御饌(みけ)」と呼びます。
家に神棚がある人は、神饌をそなえた経験のある人もいるかもしれません。
神饌といえば、しとぎやモチの他に、お酒がそなられます。
神様にささげるお酒を、日本では「御神酒(おみき)」と呼びます。
御神酒には必ず日本酒が使われます。ワインやビールではダメなんです。
これは、日本酒の原料が米だからです。
キリスト教徒がぶどう酒とパンをささげてきたように、日本では古くから、神に米をささげてきたことがわかりますね。
では、なぜ日本人は太陽神(天照大御神)にコメをささげたのでしょうか?
それは日本の最高神である天照大御神が米を求めたからです。
天照大御神の孫であり、神武天皇(初代天皇)の先祖であるニニギノミコトが日本に降り立った「天孫降臨」神話に、神に米をささげる由来が書いてあります。
時天照大御神はニニギに「斎庭の稲穂(ゆにわのいなほ)」を渡し、「この稲を育てて、地上(日本)を豊かにするように」と命じます。
「斎庭」とは高天原(天照大御神が住む天上世界)にある神聖な田んぼのことですから、斎庭の稲穂は「高天原の稲穂」を指します。
ニニギの末えいである天皇家にとって、この天照大御神との約束は、キリスト教徒にとっての十戒と同じくらい重要なモノです。
ですから天皇家――大和朝廷は躍起になって日本全国に稲作を広め、そして神に稲(米)をささげたのです。
その証拠が、山間部の稲作です。
稲作に適した土地は、水源が豊富な平地です。ですが日本といえば、国土の7割が山岳地帯の山の国ですから、本来は稲作に適していない国なんです。
川が通っていない地域もあります。そんなところに治水工事をして水田を拓くのは難行でしょう。
今でこそ品種改良でよくなったものの、米は冷えにも弱く、東北では何度も冷害に遭い、飢饉(ききん)が起こりました。
稲作以前が入る前の縄文時代には稗(ヒエ)や粟(アワ)などの雑穀が食べられていたのですが、ヒエは「冷えに強い」という由来をその名に持つほど、冷害に強い作物でした。
しかも陸の畑で育てられ、ビタミンなどの栄養も満点です。ヒエは日本の風土にあった食べ物でした。ですから縄文時代から食べられてきたのです。
にもかかわらず朝廷は、ヒエやアワを米に劣る劣等穀物だといい、無理に稲作を進めました。
その結果、東北で飢饉が起こり、子殺しや人肉食などの惨状が起こったのは、コチラの記事で書いたとおりです。
山間部に新しい村を拓く際には、最低一畝(99㎡)でもいいから、水田を作る土地があることが1つの条件でした。
神に米をささげるためです。
たとえば九州の那須地方は、平地が一つもない山村ですが、村人は莫大な資本と労力をかけて水田を作りました。
コストを考えれば、里に降りて米を買いに行ったほうがはるかに簡単に、安く手に入るでしょう。
青森県の下北半島では、普段はヒエやアワを食べ、米はまったく食べませんでした。しかし「正月米」という、正月に神にお供えをするためだけに、わずかな水田を作っていました。
そもそも中近世では、里の村人も米は年貢(税)としてほとんどもっていかれたので、少ない米にイモや雑穀を混ぜたものを主食としていました。
明治時代でも米食率は65%以下です。日本人の主食が「本当に」米になったのは、品種改良や土木技術が進んだ戦後以降です。
国民が食べるものはヒエやアワで十分ですが、神にささげるものは、米でなくてはなりませんでした。
それはなぜかといいますと、最初の話題に戻るのですが、日本人の主食が米だからです。
正確にいうと、日本というクニを作った「渡来系弥生人」の主食が米だったからです。
ですがそういった精神的な意味合いから、日本人は太陽を信仰したのではありません。
日本人は米を主食とする稲作農耕民です。稲作農耕には、太陽が必要不可欠です。
それは単純に、稲を育てるのに太陽光がいるという意味ではありません。
古代人は太陽の運行によって季節や一年の移り変わりを知り、種まきなどの農業の時機を測りました。
その証拠が「聖」という字です。「聖」は神や神秘的な霊力を持つ者をあらわし、「ひじり」と読みます。
「高野聖(こうやのひじり)」のように、仏教では今でも徳の高い僧を聖と呼びますが、この由来は「日知り」です。
つまり、「太陽(の運行)を知る者」という意味です。
カレンダーを表す「暦(こよみ)」も、「日読み(かよみ)」に由来するとされます。
太陽の運行を読むことは古代の王にとって必要不可欠な任務でした。
邪馬台国の女王「卑弥呼(ひみこ)」の本当の名は、「日巫女」もしくは「日御子」で、太陽神に仕えたシャーマン(宗教者)だった可能性が高いというお話は第1回でしましたよね。
ちなみに「年(とし)」という言葉の語源は、「稲」にあるとされています。『万葉集』で、「稲が実る」ことを「年が栄える」と表現している箇所があるからです。
1年をつかさどる神「年神・歳神(としがみ)」も、本来は稲の神である穀物神・農耕神でした。
古代の日本人は、太陽と稲作を通じて、四季や朝昼晩といった年月日をととのえたのです。
稲作農耕民にとって、太陽はまさに絶対神でした。
日本に残る太陽信仰の証は、暦や天照大御神だけではありません。
日本の国旗が「日の丸」(旭日旗)なのも、まんま太陽を象徴していますよね。
「日本」という国名も、平安時代には「ひのもと」と読まれていたように、「日ノ本」に由来します。これは「太陽のもと(近く)にある国」という意味です。
今でこそ日付変更線に近いので「太陽に近い」というのもわかりますが、よくよく考えれば日本に住む古代の日本人が「日本は太陽に近い」と考えたのは変ですよね。
これは「中国から見て日本は太陽に近い」という意味なのです。では「日本」という国名は中国がつけたのかというと、それも違います。
中国側の呼称は「倭国」であり、「日本」は日本側が自称しました。
つまり中国から日本へやって来た渡来人が、「太陽に近い国」だと誇ったのです。それは渡来人が太陽信仰をもっていたからです。
現在の日本人が渡来系弥生人(中国大陸人)と縄文人(日本列島人)の2系統の民族から成り立つことは、前回お話しましたよね。
さらに渡来系弥生人は第1波弥生人と第2波弥生人にわけられます。日本に稲作(温帯ジャポニカ米)をもたらし、弥生時代を切り拓いたのは第1波弥生人である呉や越の越族(百越)でした。
越族は長江文明にルーツをもつ稲作漁労民です。長江流域は日本と違って水源豊富な平地で、稲作に最適な土地でした。
呉越の渡来人は航海にすぐれた海洋民族なので、船を使って稲作を日本各地に広め、また文化的親和性から縄文人と融合することができました。
実は日本の太陽信仰もまた、稲作のルーツである長江文明に求めることができます。
ですが前回の記事を読んだ方は、「越族や三苗人などの中国大陸南方に住む東南アジア人は、蛇神や竜神を信仰しているんじゃなかったのか?」と思うかもしれません。
たしかに呉越や長江文明の多くの民族が竜蛇神を先祖神(トーテム)にしました。しかしこれも太陽信仰に由来するのです。
画像引用元:Wikipedia
稲作の発祥地である長江流域に起こった中国最古の文明「長江文明」には、太陽信仰がありました。
長江文明最古の遺跡が「河姆渡遺跡(かぼと遺跡)」です。ここで見つかった象牙には、太陽の光球を中心に2羽の鳥が向かい合っている図が刻まれています。
稲作農耕民にとって太陽が必要不可欠だったことは先ほど説明しましたね。
この太陽と鳥のモチーフは、長江中流域の「高廟遺跡(こうびょう遺跡)」や上流域の「三星堆遺跡(さんせいたい遺跡)」からも見つかっています。
これらの遺跡からは同時に、丸木舟や櫂(かい)などの船に関連する異物や、タイやサメの骨、クジラの背骨も出土しています。三苗人などの長江文明の担い手は、米と魚を常食とする稲作漁労民でした。
長江は川といっても30kmもの川幅がありますから、ほとんど湖や海です。
長江で漁をする海人族は、まるで遠洋漁業をするように船の上に住み、また鵜(う)を使って魚を獲る「鵜飼い漁」をしていました。
長江文明の遺跡に見える鳥のモチーフは、鵜ではないでしょうか。
太陽と鳥というモチーフは、稲作漁労民を象徴する信仰対象を示していました。
ちなみに『随書』「倭国伝」では、日本の珍しい漁法として「鵜の首の小さな輪をたぐり、川に入って百尾以上もの魚を取る」と鵜飼い漁を紹介しています。
中国人(内陸北方の北東アジア人・漢民族)が知らないということですから、これ中国帝国や朝鮮からもたらされたのではなく、長江文明(南方)からもたらされたのでしょう。
長江流域にはじめて誕生した国家である「呉」や「越」は、東シナ海に面していました。彼ら越族(百越)は川より海を重視した海洋民族でした。
越族は竜神や蛇神を信仰し、海難除けのために「竜の入れ墨」をしていました。これと同様の風習が、邪馬台国の倭人(日本人)にも残っています。
彼らは海を信仰していました。おそらく彼らの信仰した竜とはヘビではなく、ウミヘビだったのだと思われます。
中国大陸南部沿岸に住む稲作漁労民(東南アジア人)の中に、ウミヘビをトーテム(先祖神)とする民族が多くいるからです。
越族にルーツをもつ日本の海人族、「安曇族(アズミ族)」なども、海の神である竜神「綿津見命(ワタツミ)」を先祖神として祀っています。
しかし海の神=ウミヘビ=竜というのも、よく考えてみると妙に思えますよね。サメやカメじゃダメなんでしょうか。
筆者はここに、太陽信仰が関係しているのではないかと思っています。
島根県の「出雲大社」といえば、縁結びの神様として有名な「大国主命(オオクニヌシ)」を祀る日本最大級の神社です。
オオクニヌシは蛇神で、出雲大社の背後にある八雲山は古くは「蛇山」と呼ばれました。
しかしオオクニヌシは山に棲むヘビではなく、海に棲むウミヘビを神格化したものと思われます。
なぜなら出雲大社をはじめ、佐太神社や日御碕神社といった出雲の神社では、10月の「神在祭(かみありさい)」にはウミヘビを御神体として神社に奉納するからです。
10月になると季節風や対馬海流の影響で、島根の稲佐の浜には毎年セグロウミヘビというウミヘビが打ち上げられます。出雲ではセグロウミヘビを「竜宮の使い」や「龍蛇様」と呼んで神聖視しました。
出雲族が呉越の海人族の信仰や文化を受け継いだ、第1波弥生人の典型であることは前回お話しましたよね。
10月には日本中の神々が出雲大社に集まるから、10月が「神無月(かんなづき)」と呼ばれるようになったという話は有名ですよね。
ですがこのウミヘビを祀る神在祭、実は太陽信仰の祭りではないかと多くの民俗学者が唱えています。
セグロウミヘビはその名の通り背中が黒く、海上をただよう際には太陽光が反射してキラキラと輝くのです。
『日本書紀』にこんな話があります。
「是の時に海を光して依り来る神ありき」
オオクニヌシが国造り(国土の平定)で悩んでいた時、海を輝かせながら寄り来る神がいました。
この神は「大物主命(オオモノヌシ)」といい、オオクニヌシの魂の一部なのですが、セグロウミヘビを彷彿とさせる描写です。
オオモノヌシが手伝ってくれたので国造りは完了したのですが、その後このオオモノヌシは奈良県の「大神神社」にまつられました。
大神神社というと、「三輪山」という山そのものが御神体で社(本殿)がない特殊な神社です。この三輪山は古代の大和朝廷にとって重要な太陽信仰の祭祀場でした。
「かれ、その美人を窃かに伺ひたまへば蛇なりき。即ち見畏みて遁逃げたまひき。ここにその肥長比売 患へて、海原を光らして船より追ひ来」
垂仁天皇の皇子ホムツワケは、出雲の女神である「肥長比売(ヒナガヒメ)」と結ばれました。しかしヒナガヒメの正体が蛇だったので、ホムツワケは船で逃げました。
するとヒナガヒメは海を光らして追いかけてきたというのです。これもまた、セグロウミヘビを思わせます。
出雲の蛇神には必ず海を照らす太陽がついてまわります。
海の向こうから輝きながら浜に打ち寄せるウミヘビは、蛇神や竜神でありながら、太陽神の化身でもありました。
長江文明や越族、そして安曇族や出雲族に共通する独特の太陽信仰は、「海を照らす太陽神」です。これを海照神(アマテル神)といいます。
彼らは総じて海神を信仰しましたから、彼らにとっての「神々の世界」や「死後の世界」は常に海(水平線)の向こうにありました。
前回お話したように、中国には2種類の竜信仰があります。
北方内陸の天空を信仰した中国や朝鮮半島、モンゴルの騎馬民族にも、当然太陽信仰が存在しました。
ですがこれは長江文明のような「海を照らす太陽」ではなく、「天空に浮かぶ太陽」でした。天照神(アマテル神)です。
彼らの神話に共通するのは、天空に神の世界があり、地下に死後の国があるという垂直構造の世界観でした。これは長江文明の水平構造の世界観とはまったく異なります。
日本神話は
の垂直構造になっています。
しかし出雲神話を読むと、「常世の国(とこよのくに)」という異界(死の世界?)や「ワタツミの宮」という神々の世界など、海の向こうに存在する異界が登場します。
これは明らかに水平構造の世界観です。
出雲族にとっての神の世界(死後の世界)は海の向こうにありました。出雲の豪族「出雲国造」が平安時代まで水葬(海に死体を流す)を行っていたのも、これを証明しています。
しかし日本神話の大枠は垂直構造ですから、天皇家(天孫族)は北東アジアの世界観を踏襲しているといえます。
前回、渡来系弥生人は第1波と第2波にわけられるといいましたね。
第1波弥生人が、弥生時代初期に日本に稲作をもたらした海人族です。弥生時代には邪馬台国をにない、今では島根や北陸、東北にDNAが残っています。
第2波弥生人が、弥生時代中期以降に日本に大陸文化や武力を持ち込み、大和朝廷という統一国家を誕生させました。九州から関東まで、幅広い日本人にDNAが残っています。
第1波弥生人とは三苗人や呉人や越人など、北方の武力に追いやられた南方のボートピープルでした。彼らは長江流域から日本を目指して亡命しました。
では、なぜ彼らは日本を亡命の地に選んだのでしょうか?
紀元前4世紀から3世紀頃までに成立した中国最古の地理書『山海経(せんがいきょう)』には、中国各地の伝説が残されています。
ここに、日本と思われる「扶桑国(ふそう国)」のことが載っています。
扶桑とは、東の海の果てにあるとされた伝説の巨木です。ここから太陽が昇るとされました。
『山海経』の頃は伝説のような記述なのですが、その後の中国の文献を見ていくと、扶桑が生えている国(扶桑国)は日本の別名として使われるようになります。
それを受けて日本でも、中国向けの書物には自国のことを「扶桑」と記したものが出るようになります。たとえば平安時代の歴史書『扶桑略記』や、室町時代の地図『日本扶桑国之図』などです。
扶桑が本当に日本なのかということは意見が分かれるのですが、とにかく古代から中国に、東海の果てに太陽の昇る国があるという伝説があったことはたしかです。
また『魏志』「東夷伝」の序文には、こんな記述があります。
「粛慎の庭を踏み、東大海を臨む。長老説くに異面の人有り、日の出づる所に近し」
粛慎という中国北方の国の長老が、「東の海の向こうに異面の人が住む国がある。そこは太陽の昇るところに近い」と語っています。
これは244年のときの記述ですから、ちょうど卑弥呼が邪馬台国を治めていた時代に合致します。
「異面」というのは、入れ墨を表している、もしくは顔つきの違いから人種の違いを表している、のどちらかで解釈がわかれるのですが、どちらにせよ日本に当てはまります。
『魏志倭人伝』によれば、倭人(日本人)は皆、入れ墨をしていたといいます。
中国から見て日本とは、日の昇るところに近い国=「日のもとの国」でした。
太陽信仰と海の異界思想を持つ長江文明(呉越)にとって、東海の果てにある日本列島は、まさに「聖地」。
北方の漢民族などに追いやられた南方の長江文明、三苗人、越族は、皆東シナ海を脱し、伝説の日の出づる国を目指しました。ようやくたどりついた彼らが、自国を「日本」と呼んだのは至極当然でしょう。
そもそも日本神話を読めば、なぜ渡来人が日本に来たのかはハッキリと書いてあります。
天照大御神の孫であるニニギノミコトが、高天原(天上世界)から日本(地上)にはじめて降り立った「天孫降臨」神話は、外来の渡来系弥生人が日本にやってきた様子を描いたものといわれていますが……。
画像引用元:海上保安庁海洋情報部ホームページ
この際ニニギは高千穂という山に降り立って、「ここは朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ」と日本を評しています。
この「高千穂」は宮崎県と鹿児島県の県境にある高千穂峰だとされています。高千穂峰の山頂からは、日の出から日没まで太陽の運行のすべてを見ることができます。
ここには明らかに太陽へのこだわりが見えます。
また宮崎県はかつて「日向(ひゅうが)」と呼ばれましたが、この地名の由来は、ヤマトタケルが「是の国は直く日の出づる方に向けり」と評したことに由来します。
宮崎県には太陽信仰の祭祀場があったのかもしれません。
長江に由来する渡来人(第1波弥生人)は海流に乗って、まずは九州北部に上陸しました。
福岡市のあたりには「奴国(なこく)」と呼ばれたクニがありました。奴国は「金倭奴国王」の金印で有名な、中国から認められた日本最初のクニです。
奴国は安曇族(アズミ族)という海人族が支配する国でした。安曇族は越族の竜蛇信仰や入れ墨文化などを引き継ぐ、長江文明の色が濃い民族でした。
越族に由来する海人族は、大きく安曇族と出雲族にわけられるのでしょう。
彼ら海人族は九州北部に甘んじず、出雲族は日本海を北上して出雲、北陸と植民しました。北陸の古名である「越(こし)」は「越族」に由来するとされます。
DNAの分布や信仰から、出雲族は縄文人と融合しました。そのまま陸上げし東北や諏訪(長野)まで植民を進めたのでしょう。
いっぽう安曇族は瀬戸内海を通って、阿波(徳島)、摂津(大阪)から畿内へ入り、大和朝廷の有力豪族として仲間入りを果たします。
大和朝廷と締結を結んだ安曇族については、第6回でくわしくお話します。
しかしその後も東方へ進み、自分たちが植民した土地に「阿曇、安曇、厚見、厚海、渥美、阿積、泉、熱海、飽海」などの「アズミ」地名をつけました。
愛知県の渥美半島や、静岡県の熱海が有名です。さらに川をさかのぼって、内陸部まで入っていきます。滋賀県の安曇川や、長野の安曇野、最北は山形県の飽海群まで……。
東海の聖地である日本に着いた後も、海人族は東へ進むことを止めませんでした。
太陽信仰をもつ安曇族や出雲族は、とにかく太陽の昇る東方を目指しました。彼らにとっての聖地は「東」なんです。
三重県の神島の「ゲーター祭」など、安曇族に関連する土地には、東方と太陽が関係する祭りや儀礼が多く残されています。
そもそも「東(ひがし)」の語源は、「日向かし(ヒムカシ)」で、太陽が登る方角という意味です。
ちなみに東方は沖縄の方言では「アガリ」といいますが、これも「太陽が上がる方角」という意味です。
日本が「東」を聖なる方角だとしていた証拠は、他にもたくさん残っています。
たとえば神社です。
神社の向きって、皆さん気にしたことありますか?
実はほとんどの神社の本殿は、南向き(南面)か東向き(東面)に建てられています。
南向きは、「天子は南面し 臣下は北面す」という中国の故事・思想からきています。
中国の皇帝は北を背に南を向いて政治をし、臣下は反対に南を背に北を向いて仕えました。
天空信仰をもつ中国では、不動の北極星(すべての星は北極星を中心に回転するように見えます)を皇帝の星としました。
ですから北極星のある北の位置から南(回転する世界)を見渡すために、皇帝は南を向いたのです。
中国の方位観は南北を軸としたものだったことがわかります。
対して東向き(東面)というのは日本独自の思想です。
これは太陽信仰に由来する東方信仰でしょう。
神棚を家や事務所に祀るとき、東向きか南向きに置くのがいいといわれているのも、同じ理由です。
ちなみに日本が伝統的に「左上位」なのも、この南面東面思想に由来します。
天皇は中国皇帝を見習って南を向きましたが、独自の東方信仰ももっていました。天皇(南向き)から見た「東」は「左」になりますよね。
だから雛人形や舞台では左が上座になりますし、ビジネスマナーでも左上位の作法がいくつも残っているんです。
欧米は基本的に「右上位」、中国は時代によって左右上位観がコロコロ変わり、現在は欧米と同じ右上位です。
「左上位」とは、中国(北方)由来の南北軸の思想と東南アジア(南方)の東西軸の思想が融合した、日本独自の思想なんです。
他にも日本神話における「神武東征」神話に、こんな話があります。
九州から大和(奈良)へ、神武天皇(初代天皇)は東へ侵攻します。しかし大和にいた土蜘蛛(豪族)の「長髄彦(ナガスネヒコ)」に敗北。
そこで「太陽神(天照大御神)の子孫である自分たちが、太陽(東)に向かって戦うのはよくない」といって、太陽の昇る東側から攻め、リベンジ戦をしかけます。
するとナガスネヒコの撃破に成功。見事、大和朝廷を開くことができました。
そもそも九州にいた天孫族たち(天皇家の先祖)が、東征をはじめた理由は、『古事記』では「国を治めるに適した場所はどこだろうか」と相談し「やはり東がいいと思う」と決めたからです。
『日本書紀』では「東に美(うま)し国がある」とまで書いています。
神武東征の史実性については第2回でくわしく紹介しましたが、史実上の東征理由は異なるのかもしれません。しかし神話上ではやはり「東方信仰」=「太陽信仰」が見られるのです。
太陽信仰や東方信仰に注目すれば、日本の歴史の謎をひも解くこともできます。
聖徳太子が中国(隋)皇帝を激怒させた事件は知っていますか?
有名な「日出処の天子(ひいづるところのてんし)」の手紙のことで、歴史の授業でも習ったと思います。
第2回遣隋使(607年)で、聖徳太子が隋の煬帝にあてた国書には、『隋書』によれば「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書いてありました。
「太陽の昇る東の国の天子(聖徳太子)が、太陽の沈む西の国の天子(中国皇帝)に送る」という意味になります。明らかに太陽信仰に由来する、日本独自の東西軸の宇宙観(東方信仰)が見られますよね。
この時代にはまだ「日本」という国名はありませんでしたが、当時の日本人(朝廷)には自国が「太陽の昇る東の国」=「日のもとの国」だという意識がありました。
煬帝はこれに激怒しました。
ただ誤解されやすいのですが、中国皇帝は別に「日没する処」=「太陽が沈むような斜陽国家」という表現に怒ったのではありません。
先ほども書きましたように、中国は南北軸の宇宙観をもっていましたから、東西軸の思想はどうでもいいわけです。
中国皇帝が怒ったのは、唯一皇帝である「天子」の称号を日本の天皇が名乗ったからです。日本などの周辺国の王は、中国皇帝に使える「冊封体制」をとっていました。
日本でたとえれば、江戸幕府に命じられて地方を治めた藩主が、征夷大将軍を名乗るようなものです。
ちなみに激怒された聖徳太子は、608年に改めて隋の煬帝に手紙を送っています。『日本書紀』によれば、そこには「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」と書いてありました。
ここではちゃんと冊封体制を意識した上で、東西軸の思想が見られます。またここの「天皇」は、日本ではじめて天皇の称号が使われた箇所です。
ただし最初に天皇を自称したのは天武天皇なので、ここの「天皇」は後世に書き直されたという説もあります。
とはいえそんなことは今回はどうでもよく、大事なのは「東天皇」の読みが、「やまとのてんのう」だということです。
飛鳥時代には大和=東という認識がありました。この事実は、大和朝廷が大和(奈良)にある理由は、九州から見た東方の地だから、という説をより強固にします。
大和朝廷の場所以外にも、伊勢神宮の謎も太陽信仰と東方信仰で解くことができます。
伊勢神宮といえば、正式名称を「神宮」というように、日本の神社の最高格です。
伊勢神宮の内宮では天皇家の先祖神(皇祖神)である天照大御神を祀っており、また三種の神器の1つである「八咫鏡(やたのかがみ)」が奉納されています。
しかしなぜそんな最高格の神社が、大和朝廷のあった奈良や、都であった京都、日本神話の舞台である九州、そして首都のある東京ともなんの関係もない三重県伊勢市に建てられたのでしょうか。
伊勢神宮が伊勢にある理由は、実はいまだにはっきりしておらず、伊勢神宮最大の謎なんです。
日本神話には伊勢神宮が建てられた経緯が書いてあります。以下に要約します。
天照大御神(八咫鏡)はもともと、朝廷のある大和(奈良)の皇居でまつられていた。しかし崇神天皇の時代に、大和で病気が流行り、国民の半数が死亡。
天皇はこの災難を、天照大御神の霊力が強すぎるせいだとし、天照大御神を皇居の外で祀ることに。その後、垂仁天皇の皇女の倭姫命(ヤマトヒメ)は、天照大御神を祀るにふさわしい場所を求めて旅を開始。
日本各地を巡って伊勢の地にやってきたとき、神(天照大御神)からお告げがあった。「この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。この国に居らむと欲ふ」
このお告げに従って、伊勢に神宮を建て天照大御神を祀った。
伊勢には神風が吹き、常世の国の波が打ち寄せる。大和にも近い……伊勢が神聖な土地だったことはわかりますが、重要な「なぜ伊勢に神風に吹き、常世の波が寄せるのか」という謎の答えは載っていません。
他の歴史書を読んでも、それ以上の理由は書いてないので、伊勢に伊勢神宮がある理由はわからないんです。
しかし太陽信仰と東方信仰に注目すれば、この謎も簡単に解くことができます。
地図を見れば一目瞭然ですね。伊勢は大和から見て日の昇る東方にあたります。
天照大御神は太陽神なのですから、日の昇る東方に祀るのはごく自然の発想でしょう。
また伊勢神宮の謎が解けると、芋づる式に出雲の謎も解くことができます。
伊勢から大和を挟んだ西方=太陽の沈む場所は島根県の出雲にあたります。日本最大級の神社である「出雲大社」がある場所です。
『日本書紀』には「天日隈宮(あめのひのすみのみや)」という出雲大社の別名が載っています。これは「日が沈む宮(神社)」という意味です。
また出雲大社の近くにある「日御碕神社(ひのみさき神社)」は上社と下社にわかれるのですが、下社は「日沈の宮・日沉の宮(ひしずみのみや)」と呼ばれます。
この「日沈の宮」という別名は、村上天皇が「伊勢神宮が日の本の昼を守る」のに対し「日御碕神社は日の本の夜を守れ」 と勅命したことに由来します。
ここにも太陽信仰と東西軸の思想が見られます。大和朝廷には明らかに、日の昇る東(伊勢)と陽の沈む西(出雲)という発想がありました。
ところで日本神話における死の世界は「黄泉の国(よみの国)」と呼ばれますが、これは地下にあります。
『古事記』によれば、黄泉の国への入口は出雲にある「黄泉比良坂(よもつひらさか)」(現在の伊賦夜坂)だといいます。
出雲は生と死の境界線でした。日本で死の世界にもっとも近い場所といってもいいでしょう。
なぜ出雲がそんな場所にされたのでしょうか。ここまで読んだ皆さんはもうわかっていると思います。
出雲が大和の西方にあったからです。
太陽信仰にとって東方が陽(プラス)の聖地とされたのと反対に、西方は陰(マイナス)の聖地とされました。
太陽が生み出す生のエネルギーの反対は、死の霊力。
黄泉の国への入口が出雲にあると考えられたのは、東西軸の思想に由来すると筆者は考えています。
ちなみに「黄泉」と書いて「よみ」とは普通は読みません。当て字なのでしょう。
出雲には青銅器文明が存在しました。
弥生時代の出雲の遺跡「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」からは、それまでに全国で発掘されていた銅剣すべてを合わせた300数本を上回る、358本もの銅剣が見つかっています。
しかしこれらの銅剣は戦闘では使えないほど幅が広いので、武器ではなく、祭りや信仰に用いた祭器だったとされています。
青銅器というのは発掘された今でこそ鈍い青色をしていますが、製造時には非常に光沢の強い黄金色をしています。
出雲には、宍道湖(しんじこ)という島根県で2番目に大きな湖があります。遺跡や遺物から見るに、この宍道湖一帯にも弥生時代、多数のムラや祭祀場がありました。
宍道湖で行われた青銅器の祭祀では、多数の青銅器が太陽の光を浴び、湖面に黄金色のきらめきを映したことでしょう。
「黄泉」という漢字の由来は出雲独自の青銅器文化にあるのかもしれません。
またこういった霊性はなにも悪い面ばかりではありません。霊性(死の世界)に通じているということは、それだけ神の世界に近いということでもあるからです。
日本最古の神職(神主)である「意富多々泥古命(オオタタネコ)」が、出雲大社の祭神であるオオクニヌシの直系の子孫であったのにも関係があるのでしょう。
ここまでのお話をまとめます。
稲作農耕民にとって太陽は、まさに絶対神。そして中国から見て、太陽の昇る東方の国「日本」は太陽信仰の聖地でした。
だから渡来人は続々と西日本にやってきたのです。そしてその後もどんどん東日本への植民と稲作の普及を進めました。
太陽信仰や、それに由来する東方信仰は日本独自の文化や宗教として、今も残されています。
そんな太陽信仰には、2種類の太陽神がありました。
なんだか奇妙ですよね。
天照大御神は、その漢字から見るに天照神ですし、天皇家の先祖神であり日本神話(高天原=天上世界)の最高神です。天孫族の天空神の特徴と一致します。
ですが信仰の面から見れば、伊勢湾を照らす海照神です。毎日の神饌(食事)にも、魚介類が絶対に必要とされました。
さらに奇妙なのは、天照大御神は女神だということです。天皇は原則「男系男子」継承ですし、そのルーツである天空信仰民(北東アジア系民族)も、みな父系社会でした。
そして第1回で紹介したように、天照大御神のモデルは邪馬台国の女王「卑弥呼」である可能性が非常に高いのです。
しかし邪馬台国は第2回で紹介したように、文化や信仰の面から海人族(第1波弥生人)の性質の濃いクニでした。
こうなると邪馬台国と大和朝廷は関係のない別個のクニだったのではないかと思ってしまいますよね。しかし第2回の邪馬台国東遷説でお話したように、大和朝廷のルーツは邪馬台国にあると思われるのです。
まったく意味がわかりませんね。
この絡まった謎を解くカギが、高御産日神(タカミムスビ)という神です。
第1回でも紹介したのですが、天皇家の本当の先祖神(皇祖神)であり、日本神話の裏最高神とされる神です。
実は天照大御神は、最古の宮中(朝廷)では重要視されてなかったことがわかっています。伊勢神宮には元々はタカミムスビが祀られていた痕跡が残っていました。
そしてタカミムスビは今は「高木の神」とも呼ばれるように、天空神的な性質をもっている男神ですが、古くは太陽神でした。
天照大御神は天皇家の先祖神とされていますが、実は天照大御神の子は、誓約(うけい)という儀式によって、夫婦の交わりなく生まれています。ある意味では血が繋がっていないといえるのです。
そして天皇家はタカミムスビの血も引いており、厳密に血の系譜をたどっていくと、タカミムスビにいきあたります。
タカミムスビは天孫族の太陽神=天照神の特徴に完全に一致します。タカミムスビの地位は、明らかに天照大御神にすり替えられているのです。
筆者はこの最高神すり替え事件と、邪馬台国と大和朝廷の謎が直結していると考えています。
次回は大分県の「宇佐神宮」に注目し、古代日本の謎を解き明かしていきます。
ここまで読んでいただきありがとうございました。次回もぜひご覧ください。
また本記事執筆にあたっての主な参考文献リストは、記事の一番最後に載せてあります。
参考文献
『神社と古代王権祭祀』1989 大和岩雄
『日本神話の起源』1961 大林太良
『古代王権の祭祀と神話』1970年 岡田精司
『安曇族と徐福―弥生時代を創りあげた人たち』2009 亀山勝
『日本人の源流を読む』2017 斎藤成也
『伊勢神宮と出雲大社-「日本」と「天皇」の誕生』2009 新谷尚紀
『倭国伝 全訳注』2010 藤堂明保 他
『古代中国と倭族―黄河・長江文明を検証する』2000 鳥越憲三郎
『巨大古墳と古代王統譜』2005年 宝賀寿男
『古代伝承と宮廷祭祀』1974年 松前健
『古代信仰と神話文学』1988 松前健
『塩の道』1985 宮本常一
『日本文化の形成』〈上・中・下〉1994 宮本常一
『雪国の春』1928 柳田国男
『海上の道』1961 柳田国男