日本人のルーツから邪馬台国、大和朝廷、そして日本の誕生まで――民俗学の方法論で古代日本の謎を解き明かす全7回の連載『民俗学とメタ視点で読み解く古代日本史』。
第2回では邪馬台国の比定地(場所)と、邪馬台国と大和朝廷の関係について解説しました。
第3回では、日本人のルーツを徹底追及!
現在の日本人が、「縄文人」と「渡来系弥生人」の2種類から成り立っていることは有名です。今回は邪馬台国を構成した「倭人(当時の日本人)」のルーツを解き明かし、邪馬台国や大和朝廷の謎を読み解いていきます。
『魏志倭人伝』によれば倭人のルーツは、呉越で有名な「越族」や「百越」と呼ばれた中国、長江文明の海人族にありました。彼らの血は、現代の日本文化や日本神話にも脈々と受け継がれています。
歴史学や考古学だけではなく、民俗学や神話学、人類学、言語学、生物学といった視点を加え、東アジア全体の文化から日本人のルーツに迫ります!
また最近話題の「日本人のルーツはミャオ族説」も解説しますので、ぜひご覧ください。
「あなたの顔は弥生人? 縄文人?」という質問を見たことはありますか?
縄文人は彫りが深い顔で、毛深く、目は大きく二重。弥生人は反対にのっぺりした顔つきで、目は一重で体毛は薄いなど、現代の中国人や韓国人に近い要素をもっていました。
歴史の授業で習った方も多いと思いますが、弥生人と縄文人は異なる民族であったことがわかっています。
今から数万年前、日本列島はユーラシア大陸と地続きだったと考えられています。今の日本海は、当時大きな湖だったのでした。このころに大陸をつたって北方・および南方から日本列島に移動してきたのが縄文人の祖先です。
いわゆる日本の先住民で、学術的には「日本列島人」とか「ヤポネシア」と呼ばれます。
2019年、縄文人の全ゲノムがはじめて完全解読されました。ゲノムというのは、簡単にいってしまえばDNAなどの遺伝情報のことです。
国立科学博物館の調査結果によれば、いわゆる「東アジア人」は、「北東アジア人(現在の中国人はここに含まれます)」と「東南アジア人」と「縄文人」の3種類にわけられるといいます。
出典:JT生命誌研究館
今までは東南アジア人か北東アジア人が日本列島に移動してきたのが、縄文人になったと考えられていたのですが、それよりだいぶ古い時代に東アジア人たちの共通先祖からわかれて日本にやってきたことがわかったのです。
その後、海面の上昇によって日本列島が現在のように独立。縄文人たちは1万年以上にわたって独自の文化をつむぎます。縄文時代です。
紀元前5世紀ごろ、縄文時代から弥生時代へ移行します。稲作の伝来によって人口が激増し、クニが誕生し、日本に革命が起こりました。
縄文人は木の実を拾い、動物や魚介を狩って暮らす「狩猟採集民」でした。対する弥生人は「稲作農耕民」でした。
ただ誤解のないようお話しますと、縄文人も焼畑農業のような原始的な農耕は行っていました。また縄文時代から稲作を行っていた遺跡も見つかっていますが、これは「インディカ米」や「熱帯ジャポニカ米」などの陸稲……つまり、水田でも畑でも作れる米でした。
これらは南インドなどから琉球列島を経由して日本に入ってきた、南方ルートの稲作です。
福岡県の板付遺跡や、佐賀県の菜畑遺跡など、縄文時代に水田稲作が行われていた痕跡も残っていますが、これらは後に続かなかった一過性の水田でした。
他の地域には広がっていませんし、また紀元前10世紀ごろの金属器のない時代の遺跡です。木製の農耕具では、洪水に耐えられる工事はできなかったので、すぐに土砂に埋もれてしまったのでしょう。稲作は治水の技術があってはじめて有効活用できるのです。
縄文時代の終わりに中国大陸からやってきたのが、今も日本で食べられている「温帯ジャポニカ米」でした。
朝鮮半島を含む中国大陸から九州へ渡来人がやってきて、稲作と鉄器を伝えたのです。彼らが弥生人の中心をなした「渡来系弥生人」です。
一時期はこの渡来系弥生人によって縄文人は滅ぼされ、渡来人と入れ替わったような説もありました。つまりアメリカ大陸のインディアンがイギリス人に滅ぼされたような、先住民の虐殺ですね。
しかし現在では、こういった戦争や民族の入れ替わりはなかったことがはっきりしています。日本で戦争の形跡が見つかるのは、弥生時代中期からです。
この頃日本では寒冷化が進み、狩猟採集の縄文社会は大打撃を受けていました。そのため縄文人は水田稲作を受け入れ、また渡来系弥生人も、稲作を受け入れた縄文人を同じ民族と見なしたのです。
このことは弥生時代中期に、狩猟用の弓の装飾が最高レベルをむかえることや、抜歯などの縄文時代の風習が残っていることからもわかります。
福岡県の安徳台遺跡(弥生中期)の、渡来系弥生人と思われる骨格をもった日本人のDNAからは、渡来系と縄文人の遺伝子が発見されました。渡来から100年間で、だいぶ混血が進んでいたことがうかがえます。
聖徳太子が日本で最初に作った憲法「十七条憲法」の第1条に、「和を以て貴しとなす」とあるように、日本人が昔から「和」をもっとも重要視していたことがわかりますね。
画像引用元:Career-Picks
ここで現代の日本人のゲノムの解析結果も見てみましょう。
出典:JT生命誌研究館
縄文人と中国系のDNAの中間に位置しているのがわかります。今の日本人は、縄文人と渡来系弥生人の混血ということになりますね。
ただし縄文人のDNAは今では12%ほどしか残っていないということで、いかに日本に渡ってきた渡来人が多かったかがわかります。
また縄文人の中には、稲作文化を受け入れずに縄文文化を守り続けた者たちもいました。いわゆる東北の「蝦夷(エミシ)」や、南九州の「隼人(ハヤト)」や「熊襲(クマソ)」です。
北海道の先住民「アイヌ」や、沖縄の「琉球民族」も、距離的な関係で人や稲作が渡来しませんでした。(沖縄は九州から近いように感じますが、海流の関係で日本からの航海は非常に難しかったのです)
核DNAの分析では、アイヌには縄文人のDNAが70%、沖縄在住の日本人には30%も残っていることがわかっています。本土日本人(東京)が12%ということを踏まえると、だいぶ縄文の血が残っていますね。
つまり弥生人は
の4種類にわけられるのです。そして上の3つを歴史学では「大和民族」や「倭人」と呼びます。
このうち蝦夷などの稲作を受け入れなかったオリジナルの縄文人も、大和朝廷から攻撃を受け、散り散りになってしまいます。その後は山奥に隠れ住む「山人(やまびと)」になったり、北海道まで逃げてアイヌと同化したりするも、近世に戸籍が整えられ、明治時代に北海道が開拓されたことで実質消滅してしまいました。
このように日本人は、縄文人(日本列島人)と渡来系弥生人(大陸人)の2重構造になっているというのが定説でした。
しかし、そうも単純ではなかったのです。
国立遺伝学研究所の斎藤成也氏による最新のゲノム解析によれば、日本人は3重構造になっていることが判明しました。
弥生人には弥生時代初期に来た「第1波」と、弥生時代中期以降に来た「第2波」があったのです。
東北・長野・島根の弥生人は弥生第1波のDNAをもっており、それ以外の北部九州・関東・近畿を中心とした大和民族は弥生第2波のDNAをもっているそうです。
つまり日本人は、下の3つの民族のハイブリットということです。
この結果は、従来の歴史学や考古学による日本人2重構造説に衝撃を与えました。
しかし民俗学や神話学の観点からは、ずいぶん昔から3重構造説が唱えられていました。日本神話や古代の文献、文化を読み解くと、明らかに2種類の大陸文化が見えてくるからです。
第2回では、九州の「邪馬台国」が畿内(近畿)の「大和朝廷」に繋がった「邪馬台国東遷説」についてお話しました。しかし同時に、邪馬台国と大和朝廷は文化がまったく異なるという問題点がありましたよね。
この謎を埋めるのが、2種類の渡来系弥生人です。弥生時代後期~古墳時代前期は、第1波弥生人と第2波弥生人の戦国時代といっても過言ではありません。
前置きが長くなってしまいました。本筋に入ります。
『魏志倭人伝』といえば、邪馬台国や卑弥呼のことを記したことで有名な中国の文献です。正確には『三国志』という歴史書の中にある『魏書』の「東夷伝」の「倭国条」を指します。
当時の日本にはまだ文字がありませんから、『魏志倭人伝』は邪馬台国だけでなく、弥生時代の日本の文化や風習を知るためのほぼ唯一の文献です。
また当時の日本は「倭国」、日本人は「倭人」と呼ばれていたのですが、『魏志倭人伝』に書かれた倭国は九州のことであると見るべきです。
この根拠は第2回でくわしくお話しましたね。
『魏志倭人伝』に書かれた倭国の気候風土や倭人の風習は弥生時代の九州のものと一致しますが、畿内のものはことごとく異なります。さらに最後には「九州の東の海を渡った先にまだ未確認の倭人のクニがある」と書いているのです。
倭国(九州)の東にも倭人の国(四国や本州)があることを中国人は知っていました。ただそれらの国は中国に朝貢(中国皇帝に貢物を持っていき王国として認められること)していないので、まだ「倭国」に勘定していなかったのです。
つまり『魏志倭人伝』に書かれた倭国の文化や倭人の姿は、弥生時代の九州を描いたものということになります。弥生時代の九州といえば、まさに渡来系弥生人の本拠地です。これを読み解くことが弥生人の解明に繋がります。
ということで『魏志倭人伝』に書かれた倭人について、まずは食について見てみましょう。
「禾稲、紵麻を種え」「倭の水人は沈没して魚、鰒を捕るを好み」「真珠、青玉を出す」
女王国(邪馬台国の卑弥呼をリーダーとする連合国家)の倭人は稲作を行っていましたが、潜水漁法(素潜り)で海の魚やアワビを獲るのも得意でした。そのアワビからは真珠が出たといいます。
内陸国の中国では真珠やアワビは貴重品だったのでしょう。『史記』の「貨殖列伝」にも、南方の沿岸部の国の特産物として「干しアワビ」が記されていますし、台与の時代に邪馬台国は中国に真珠を5000個を送ったと書かれています。
「倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す」「その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し」
倭国は温暖な気候で、冬も夏も野菜を生で食べました。また牛や馬、羊などの牧畜は行っていませんでした。
つまり邪馬台国の食は、米と野菜と魚貝類でした。
邪馬台国の食事と、天照大御神の神饌(お供え)が一致していることは第1回でお話しましたね。
『魏志倭人伝』には邪馬台国(女王国)以外のクニの食生活も書かれています。
対馬国や一大国は水田に適さないので魚介類を獲っていました。しかしそれでは食事が足りないので、船で米を買いに行ったとあります。
末盧国では海沿いに家が建ち、水の深い浅いに関係なく素潜りで魚やアワビを獲っていました。こちらは完全に魚貝オンリーですね。
『魏志倭人伝』に書かれた食事(生業)はこれだけです。魚介類と米と野菜だけなんです。
縄文時代の狩猟による肉食がまったく行われていないことからも、典型的な弥生人の暮らしがうかがえます。しかしそれ以上にしつこく書かれているのが魚介類です。
弥生人といえば「稲作農耕民」のイメージですが、少なくとも『魏志倭人伝』の倭人は「稲作漁労民」でした。そして彼らこそ、日本に稲作をもたらした「第1波弥生人」だったのです。
※なお九州南部には縄文人のDNAが多く残っているので、『魏志倭人伝』に書かれていない(女王国の支配下にない)九州南部ではまだ縄文式の暮らしが残っていたのでしょう。
さらに『魏志倭人伝』には、彼ら第1波弥生人のルーツがハッキリと書かれています。
「男子は大小無く、皆、黥面文身す」とあるように、邪馬台国の倭人はみな入れ墨をしていました。しかしその入れ墨はもともと、海人(素潜り漁をする者)の習俗でした。
「倭の水人は沈没して魚、鮑を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭う。後、稍に以って飾と為る」
魚やアワビを獲っていた海人は、サメや水鳥を避ける魔除け(呪術)として、入れ墨をしていたというのです。しかし呪術的な意味はしだいに薄れ、ただの飾りとなり、海人以外の皆も入れ墨をするようになりました。
これは非常に興味深い記述です。なぜなら現在の日本でも入れ墨=ヤクザというイメージが根深く残っているように、大和朝廷は入れ墨の文化を悪としていたからです。
古代の大和朝廷にとって入れ墨は、「刑罰」の1つであり、また異民族の象徴でした。朝廷に逆らって稲作を受け入れなかった東北の「蝦夷(エミシ)」が、入れ墨の文化をもっていたように。
しかし弥生時代の倭人は皆、入れ墨をしていたといいます。さらに蝦夷やアイヌに入れ墨の文化が残っていたことから、縄文人も入れ墨をしていた可能性が高いのです。
大和朝廷によって入れ墨文化が廃れたあとも入れ墨をしていたのは、主に海人族や山岳仏教者、ならず者でした。
ならず者は、現代のヤクザの入れ墨とほとんど同じでしょう。仏教では身体にお経を直接書き込む風習がありましたから、それが入れ墨になったと思われます。
現代の漁師に入れ墨をしている人が多いのは、「個体識別」の役割からだといわれています。つまり海で亡くなった場合、顔も体もふやけてわからくなってしまいますから、入れ墨で個人を見分けたのです。
大和朝廷によって入れ墨が避けられるようになってからも、安曇族(アズミ族)をはじめとする各地の海人族は、各々の一族に伝わる立派な入れ墨を受け継いでいきました。その入れ墨文化は『魏志倭人伝』に書かれた倭人にまでさかのぼることができるのでしょう。
そして実は『魏志倭人伝』には、その海人族の入れ墨のルーツが書かれています。
「夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く」(魏志倭人伝)
中国の夏王朝の「少康(6代目の王)」の子は、会稽(長江下流域)に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨をして、蛟龍(中国に伝わる海の竜)の害を避けたといいます。
長江下流域の東シナ海沿岸には、越族(百越)と呼ばれる民族が住んでいました。彼らは海洋民族で、海難除けに竜の入れ墨をしていました。この越族の入れ墨と、倭人の入れ墨は同じだというのですね。
夏王朝うんぬんと書いてあるのは、越族のルーツが、夏王朝にあるという伝説があるからです。
この越族(百越)が建てた国が、「呉」と「越」でした。「呉越同舟」という言葉の由来になった国です。
※紛らわしいのですが、越国だけでなく呉国も越族の国です。
ということは、倭人のルーツは越族にあるのでしょうか?
「古より以来、その使中国に詣るや、皆、自ら大夫と称す」
『魏志倭人伝』によると、中国へ朝貢に行った倭人は、皆「大夫(たいふ)」と名乗ったといいます。
大夫とは春秋時代の中国の身分の1つです。『史記』を読むと、呉や越にも「大夫」という階級があったことがわかります。
この階級を名乗ったということは、倭人が中国大陸の文化に精通しており、また中国大陸にルーツをもつことを宣言しているようにも思えます。
さらに『魏略』や『晋書』、『梁書』などには、決定的な記述があります。
「自謂太伯之後」
金印をさずかった奴国(なこく・邪馬台国より150年ほど前のクニ)の倭人は、「自分は太伯の末えいである」といったといいます。
「太白」とは、呉の建国者です。王族の血を継いでいるというのは去勢かもしれませんが、倭人が呉にルーツをもっていたのはほぼ確実でしょう。
奴国は現在の福岡市や春日市など、福岡平野一帯にあったとされていますが、ここは安曇族(アズミ族)の発祥の地とされています。
安曇族とは、先に書いたように入れ墨文化を受け継いだ海人族の筆頭です。安曇野族(アズミノ族)とも呼ばれます。
漁労にすぐれた邪馬台国もまた、海人族のクニだったのでしょう。
呉越(中国南方)の越族は、邪馬台国の倭人と同じように、稲作漁労で生計を立て、また入れ墨の文化をもっていました。
彼らこそが、弥生時代初期に日本に稲作をもたらした第1波弥生人です。しかし武力をほとんどともなわない民族で、先住の縄文人と平和的に同化しました。
反対に入れ墨を異民族の証とし、刑罰に用いた大和朝廷ですが、これは漢民族(中国北方内陸)の入れ墨観と同じでした。
第2波弥生人とは、弥生時代中期以降、中国大陸および朝鮮半島から断続的に日本にやってきた北方系渡来人でした。彼らは非常に政治的・武力的な要素が強く、日本に戦争をもちこみました。
この圧倒的な統率力が、大和朝廷による日本統一……つまり日本の建国につながるのです。
画像引用元:倭人が来た道
中国の古代文明といえば、紀元前5000年ごろに北方内陸で栄えた「黄河文明」が有名ですよね。
殷王朝や秦王朝といった中華帝国の発祥地であり、小麦によって栄えた文明でした。メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明と並ぶ世界四大文明として習った人も多いと思います。
しかし近年、中国南方沿岸部の「河姆渡遺跡(かぼと遺跡)」が発掘され、黄河文明より1000年以上も古い「長江文明」の存在が明らかにされました。
日本では長江のことを長らく「揚子江」と呼んでいたので、こちらの方がなじみがあるかもしれません。
最初の方で、東アジア人はDNAから「縄文人」「北東アジア人」「東南アジア人」の3つに大別することができるといいましたよね。これを中国に当てはめると、北東アジア人が黄河文明を、東南アジア人が長江文明をになっていたと思われます。
黄河文明が畑作(小麦)牧畜で栄えたのと反対に、長江文明は稲作農耕によって栄えました。
稲作のルーツは長江文明にさかのぼることができるのです。弥生時代、日本に産業革命を起こした「温帯ジャポニカ米」の原産地も長江中流域と判明しています。
長江文明は、長江の水を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁労民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」でした。ここから生まれたのが呉や越といった越族の国です。
越族(百越)は海岸沿いに住み、体に竜の入れ墨をし、米と魚を常食とする海洋民族でした。海の神である竜神を信仰し、竜と同じ存在である蛇神もまた信仰していました。
内陸北方の漢民族(北東アジア人)からは、越族(東南アジア人)は顔つきや文化が異なる異民族として蔑視されていました。しかし春秋時代、呉越は中国で先駆けて鉄の武器を手に入れたことで、一転して大きな勢力となります。
斉、秦、宋、晋、楚、呉、越の7つの大国が覇を競った春秋戦国時代の幕開けです。
紀元前473年、呉は越に滅ぼされます。さらに紀元前334年、越も楚に敗北。長江文明におこった越族のクニは全滅しました。
滅ぼされてどこへいったか? もうお気づきだと思います。日本列島です。
呉が滅ぼされた時代と、日本に稲作(温帯ジャポニカ米)が普及した時代が一致するのは、こういった関係性があるのです。
日本で最初に中国と交易したクニ、倭の「奴国」は、海人族「安曇族」の発祥地でした。
奴国王に送られた金印には「漢委奴国王」と文字が彫られているのは有名ですが、注目すべきはそのデザインです。
鈕(つまみ)のモチーフはヘビです。
中国皇帝は異民族が朝貢にきたら、その民族にゆかりのある生き物(トーテム)を印のつまみにしました。たとえば北方系の民族にはラクダなどです。
現在の雲南省にあった「滇国(テン国)」の王も、紀元前109年に前漢の武帝からヘビ鈕の金印をもらっています。テン国は、長江に接続する中国雲南省最大の湖「テン池」のほとりに住む稲作漁労民で、蛇神信仰をもっていました。
安曇族の先祖神は海神「大綿津見神(ワタツミ)」です。
ワタツミは海神であると同時に竜神でもありました。『浦島太郎』に出てくる「龍宮城」とは、ワタツミの宮のことです。
安曇族をはじめ、海人族の多くは蛇神信仰、竜神信仰をもっていました。彼らの信仰のルーツは越族の竜蛇信仰にまでさかのぼれるのでしょう。
ところで先ほど、越族のルーツは夏王朝にあるといいましたよね。
夏王朝の次におこった殷王朝が黄河文明の特徴(畑作牧畜)をもっていたために、夏王朝も黄河文明の1つだと思われがちですが、中国の神話によれば、夏王朝のルーツは長江文明にありました。
夏王朝は、黄河文明をになった漢民族(北東アジア人)から「夷」と呼ばれる南方の異民族でした。つまり長江文明にルーツをもつ、東南アジア人です。
彼らは船に乗って南方から川をさかのぼり、黄河の洛陽に首都を置きました。しかし水路で各都市と連結する国家で、海洋国家に近い性質をもっていました。
その証拠に夏王朝の王族は、祖先神として蛇神である水神=竜をまつりました。
ここで注意してほしいのは、竜信仰には2種類あるということです。
まぎらわしいので今回は長江の竜神を「竜」、黄河の竜神を「龍」で区別します。(※龍と竜は本来は同一の漢字です)
中国皇帝のシンボルが龍だったり、清の時代の国旗に龍が使われたりと、中国では古くから龍を信仰してきました。
アニメ『日本昔話』のオープニングや、漫画『ドラゴンボール』の龍が典型的な姿です。これは西洋の竜(ドラゴン)とはまったく違いますよね。
そのルーツは黄河文明にまでさかのぼることができます。6400年前の西水坡遺跡(せいすいは遺跡)で発見された龍のレリーフが、中国最古の龍といわれています。そのため「中華第一龍」と呼ばれます。
このレリーフを見てほしいのですが、現在の龍と同様に、すでに「手足」がついています。殷王朝も非常に龍信仰が強かったのですが、甲骨文字や青銅器に書かれた姿は、やはり手足や角をもつ龍です。
龍信仰の最初期から、手足と角をもつ龍とヘビははっきりと区別されていました。
蛇と竜は世界的に同一視されやすいのですが、中国においては、龍とヘビはまったく異なるのです。
龍は空を飛ぶ「天空」の象徴ですが、ヘビは地をはう「地上」の象徴でした。
これは漢字のつくりから見てもわかります。
蛇の部首は「虫」です。これは大地をはう生き物の意味です。ヘビは古代には「長虫」という虫の一種と考えられていましたし、「マムシ」の語源は「真虫」にありました。
中国の龍は空を飛びますが、伝説では角(尺木)がないと飛べないといいます。
甲骨文字に書かれた「竜」の漢字のなりたちを見ると、角の部分が「立」にあたります。
竜と龍にはどちらも「立」が入っています。そして、龍も竜も立も「りゅう・たつ」と読みますよね。
手足のない地をはう虫であるヘビと、角と手足をもち空を飛ぶ龍はまったく違った存在でした。
中国人の大部分をになう漢民族や、清を立てた満州民族、また朝鮮半島の民族やモンゴル民族なども含めた北東アジア人は、「天空」への信仰をもっていました。
中国皇帝を「天子」と呼ぶのも、皇帝は天空神の子だと考えられたからです。
朝鮮半島の「伽耶(かや)」の建国神話や「檀君朝鮮(だんくん朝鮮)」の檀君神話、モンゴルのゲセル神話には、天から王が降臨する神話があり、日本神話の「天孫降臨」神話とそっくりです。
北方の遊牧民族「東胡(とうこ)民族」である「烏丸(うがん)」や「鮮卑(せんぴ)」は、空を飛ぶ鳥をトーテム(先祖神)にしていたとされます。
中国の龍信仰も、この天空信仰の1つだということです。
対する長江文明で信仰された竜には手足がなく、ヘビと同一視されました。そして天空神ではなく、水神(海の神)でした。
呉越やテンは、稲作漁労民でした。ですから天空ではなく海への信仰が生まれたのでしょう。彼らの先祖神は蛇神であり竜神でした。ですから呉越の越族は、竜の入れ墨をしたのです。
しかしヘビと水は一見関係がないように見えます。
おそらくルーツはウミヘビにあるのでしょう。竜神を信仰する東南アジア人には、ウミヘビをトーテムにする民族が多くいるからです。
そして日本でも蛇神は水神とされました。そのため「田んぼの神」とも解釈されるようになりましたが、もとは海人族(安曇族)が信仰した竜神ワタツミが海神であったことに由来するのでしょう。
竜蛇信仰がさかんな出雲(島根)の出雲大社では、ウミヘビを御神体とすることからもこの説が裏付けられます。
ここまでのお話をまとめると、次のようになります。
画像引用元:Wikipedia
ところで最近、貴州省に多く住む中国の少数民族「苗族(ミャオ族)」に、日本人のルーツがあるという話を耳にします。
ミャオ族は中国内陸を中心に、タイやミャンマー、ベトナムなどにも分かれて住んでいる東南アジア系の少数民族です。その歴史はかなり古く、ルーツは長江文明にまでさかのぼることができるとされています。
つまり呉越などの国を生んだ稲作の発祥地です。中国の伝説に残る「三苗人」がその祖先だといわれているのですが、こちらも文献資料がないので正確なことはわかりません。
ただ今回はわかりやすく説明するために、ミャオ族の祖先を三苗人とします。
長江流域に稲作漁労の生活をしていた三苗人たちでしたが、4200年程前に起こった寒冷化によって暮らしが一変します。北方にいた黄河文明の人々が南下してきたのです。
彼らは畑作牧畜を生業にした武力的な民族でした。三苗人たちはあっという間に追いやられました。
そうして山奥にまで追いやられたのが、ミャオ族をはじめとした少数民族です。しかし中には地方の民族と力を合わせて抵抗した集団もありました。これが越族のルーツであり、呉越の建国につながります。
ただこの時、海を渡って別の世界に逃げた者もいました。一部は台湾の先住民となり、そして一部は日本へ渡来し、稲作を伝えたというのです。
環境考古学者の安田喜憲氏は、現在のミャオ族と弥生文化に共通性を見出しました。稲作漁労、そして高床式倉庫です。
民俗学者の鳥越憲三郎氏は三苗人に限定せず、中国下流域から東南アジアに至るまでの南方系の人々と、弥生人を同じ「倭族」だとしました。倭族の共通文化は、稲作漁労と高床式住居です。
たとえば現在のハニ族やイ族は弥生時時代の人骨とそっくりであることから、倭族の末えいだとしています。他にも自然崇拝のアニミズムや、鳥居に注連縄のような文化が見られます。
ですからミャオ族が日本人のルーツというよりかは、ミャオ族と日本人(第1波弥生人)は同じルーツをもつという方が正しいかもしれません。
筆者としては、三苗人も、呉人も、越人も、みんな日本に来たのだと思います。彼らは皆、長江文明にルーツをもつ東南アジア人であり、稲作漁労民です。
そして皆、北方の北東アジア人によって追いやられた人たちです。
日本はそういったボートピープル(船で逃亡した難民)の移住先だったのです。
しかし、なぜ彼らはこぞって日本に来たのでしょうか?
理由は2つあります。1つは海流です。
東シナ海から東に漕ぎ出せば、海流の関係で北部九州か朝鮮半島南部に流れつきます。中には対馬海流に乗って日本海側を北上し、北陸地方に着いた人もいたかもしれません。
新潟県~石川県の辺りを昔は「越国(こしのくに)」と呼びました。今でも「越前」や「越後」といいますよね。この地名の由来は「越族」にあるという説があります。
ですが海流はいわば追い風であり、彼らはやはり、日本列島を夢見て目指したのだと思っています。それが2つ目の理由、宗教・信仰です。
この2つ目の理由については次回にくわしく説明します。
ではここで日本に稲作を伝え、弥生時代を切り拓いた第1波弥生人が、呉越や三苗といった長江文明の人々であるという証拠を紹介したいと思います。
文化や安曇族との関係性から見ても、弥生時代に最初のクニとして認められた「奴国」の民が、呉越に求められることは異論ないでしょう。
では北部九州に限定せず、日本全体の弥生文化を見てみます。
弥生文化といえばやはり「稲作」と「高床式倉庫」です。歴史の授業でも習ったと思います。
縄文時代の建物は「竪穴式住居(たてあな式住居)」でした。これは地べたに敷物などを敷いて暮らす、床のない建物です。
農民は近世まで竪穴式住居に住んでいたことがわかっています。現代の日本家屋独特の「土間」は、その名残といえるでしょう。
対して弥生時代に広まったのが高床式倉庫です。名前の通り床が高い位置にある、つまり「軒下」がある建物です。
はじめは穀物を保存する倉庫として広まり、古代の貴族の住居や神社仏閣も高床式で建てられるようになります。やがて「床」のある建物がベーシックになっていくのです。
なぜ長江文明では高床式住居が作られたのか。
これは稲作文化が起こった長江流域が高温多湿、かつ降水量の多い環境だったからです。地面と距離があれば湿気を避けられますよね。
日本は長江流域ほど高温多湿ではないので、穀物を保存する倉庫に高床式建築が用いられたのでしょう。
ちなみに縄文時代にも、根付かなかった稲作の遺跡が残っているとお話しましたよね。実は高床式倉庫も、最古のものは縄文時代中期から発見されているんです。
筆者はこれこそ、呉越の前に三苗族などの長江文明人が日本にやってきた証だと考えています。しかし彼らの原始弥生文化とでもいうべきものは、日本全体への広がりや革命を起こすには至りませんでした。
ではなぜ呉の越族(海人族)がもたらした稲作は、すさまじい速度で日本全体に広まり、日本に産業革命を起こしたのでしょうか。
それは越族が海洋民族だったらです。安曇族は航海にすぐれた海人族でした。
弥生時代の大規模な遺跡や水田地帯は、海沿いか川を登った先にあります。たとえば九州なら遠賀川や筑後川をさかのぼったところに多く、近畿でも大和川や淀川をさかのぼったところに大きな遺跡があります。
これは稲作の普及に海人族が関与し、川や海を船で移動して全国に稲作を広めた証拠でしょう。
最初に話したように、縄文人と弥生人のあいだに争いがあった形跡はありません。これは縄文人が稲作を進んで受容したからと書きましたが、筆者は長江文明と縄文文化の相性がよかったから、とも考えています。
縄文文化も長江文明も、争いを好まず、自然と共生する文化でした。対する北方文化は武力をもち、自然を切り拓く文化でした。これが第2波弥生人です。日本で戦争が起こるようになったのは弥生時代中期からです。
また越族は竜蛇(ウミヘビ)を信仰していましたが、縄文人もまたヘビを信仰する民族だったとされています。他には巨木信仰などでの共通点がみられます。
第1波弥生人と縄文人の親和性が高かったと思われる証拠はまだあります。
最初に第1波弥生人を紹介した時のDNA分布を覚えていますか?
弥生第1波タイプのDNAが強く残っていたのは、東北・長野・島根の人骨です。
実はこの3つの地域は方言も一緒で、「ズーズー弁文化圏」と呼ばれています。ズーズー弁とは東北や北陸(越中)に特徴的な方言なのですが、これがなぜか遠く離れた島根の出雲もそっくりの方言なんです。
この謎を取り扱ったのが、映画化やドラマ化もされて人気になった松本清張の『砂の器』ですね。
長野と東北といえば狩猟文化や蝦夷の力が強かった、縄文人の血が濃い土地です。
出雲(島根)はウミヘビ信仰の中心地で、第1波弥生人の文化が色濃く残っていました。出雲族は呉越人の割合が高かったのでしょう。
出雲族は船を使って北陸まで進出し「日本海文化圏」を築きあげました。北陸の越国が、越人に由来するのは紹介しましたよね。
そんな東北・長野・北陸・出雲は、方言以外にも文化や信仰で似通うところが多く、また日本神話においても繋がりが多く描かれているため、民族的につながりがあるとされてきました。
その仮説が核DNA分析によってついに正しかったことが証明されたのです。
縄文人の多い地域になぜ第1波弥生人のDNAが残されているのか。それはそれだけ混血が進んでいた証拠です。
混血が進んだのは、文化や信仰に似通ったところが多かったからでしょう。征服の末の混血児なら、争いの痕跡が残るはずだからです。
最後におまけとして神社と高床式倉庫のお話を1つ。
神様を祀る神社仏閣は高床式建築だとお話しましたよね。
神社の最も古いタイプである「神明造(しんめいづくり)」の神社は、側面から見るとまんま倉庫の形をしています。
このことから、神社のルーツは高床式倉庫だと思われるのです。
神社には神宝を納める倉庫があり、これは「神倉(ほくら)」と呼ばれます。
これが神を祀る小さな神殿、「祠(ほこら)」の語源だといわれています。
ですが「神」は「ほ」とは読みません。
民俗学者の宮本常一は、「神倉(ほくら)」のルーツは「穂倉(ほくら)」だと説きました。
そして古代には高床式倉庫を「穂倉」と呼んだのではないか、と。
稲作漁労民にとって稲は信仰対象でした。刈り取った稲穂には「稲霊(いなだま・稲魂とも)」という神が宿ると考えられたのです。
南方ほど高温多湿でない日本で、神社や貴族の住居が高床式建築なのは、湿気を避けるために稲を高床式倉庫に保管したからです。
高床式倉庫はやがてただの保管庫ではなく、神である「稲霊」を祀る祭殿と考えられるようになりました。この文化を海人族が稲作と一緒に日本中に広めたのでしょう。
ではなぜ、彼ら三苗族なり呉人なり越人なりの海人族は、そうも日本全体に植民を行ったのでしょうか。
ボートピープルなら九州を拠点にすればいいと思うのですが、海人族はどんどん本拠地を近畿、東日本へと移していったのです。その理由は?
そして今回でも何度か触れた第2波弥生人(北東アジア人)は、日本になにをもたらしたのか? 邪馬台国と大和朝廷の謎には、この第2波弥生人が大きく関わっていました。
次回は渡来人と弥生人の謎解き第2弾!
なぜ渡来人は日本を目指し、日本を作ったのか……そこには歴史には書かれない、信仰や宗教が隠れていました。次回もぜひご覧ください。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
本記事執筆にあたっての主な参考文献リストは、記事の一番最後に載せてあります。
参考文献