心霊スポットといえば、廃墟やトンネルが多いですよね。
ですがそれと同じくらいに多いのが、合戦場や処刑場跡地といった歴史にまつわる心霊スポットです。多くの人の命が失われた場所には、今も怨念や地縛霊がすみついているといいます。
とくに戦国~江戸時代では、政治や宗教の理由から多くの無実の人が処刑に遭っています。彼らの無念はそうとうなものでしょう。
愛媛県には、処刑場跡地にまつわる心霊スポットがたくさんあります。江戸時代、愛媛県は「伊予の国」と呼ばれ八つの藩にわかれていました。
「伊予八藩」と呼ばれたそれぞれの藩にあった処刑場は、今はどれも心霊スポットになっています。
今回はその中から7つを厳選して紹介します。またどうして心霊スポットになってしまったのか、歴史で読み解いていこうと思います。
1つ目の心霊スポットは、宇和島市吉田町の「吉田藩処刑場跡」です。
愛媛県といえばみかんで有名ですが、宇和島市の山中のみかん畑に、ぽつんと処刑場跡の石碑があります。石碑には「吉田町指定文化財 吉田藩刑場跡」と刻まれています。
さかのぼること150年前の江戸時代。この辺りは吉田藩の処刑場でした。
残された数少ない記録には、「一揆の首謀者二名絞首刑」、「女の磔刑」が残っています。処刑場で殺された人間の記録は、全国的に見てもほとんど残っていません。
「千人処刑すると供養碑を建てる」という伝承がありますが、はたして本当なのでしょうか。1000人分の霊が渦巻いているというには、ずいぶんと穏やかな景観ではありますが……。
地元民にとっては日常の景色なのですが、地元民以外の人が行くと、心霊現象にあうと聞きます。
愛媛県宇和島市の丸穂には、かつて火葬場がありました。その入り口に宇和島藩時代の処刑場があり、それが「丸穂処刑場跡」として残っています。現在も丸穂村古川奥畑間という住所があり、そこは住宅街になっています。
コンクリートに固められた小川の橋のたもとに、小さな石碑が折り重なるよう並んでいます。それが2つ目の心霊スポット、丸穂処刑場跡なのです。
首のない地蔵や石塔などが並ぶここでは、その昔、斬首、磔(はりつけ)、火あぶり、絞首刑などが行われていました。その後1000人を処刑したのを機に、宇和島藩の処刑場は次に紹介する「黒の瀬処刑場」に移ったとされています。
ここでは浮遊霊の目撃例があります。今は住宅地の中にあるので、夜に目にする人が多いのです。
愛媛県の宇和島市の住宅街に「見返橋」という橋があります。この橋は江戸時代からあったといわれていますが、当時の名前は今と違っていました。
橋の名の由来は、「黒の瀬処刑場」へ引っ張られる罪人が何度も振り返ったという故事から来ているそうです。
東京都にも、処刑場に由来を持つ「泪橋(なみだばし)」があります。「立ち止まることさえ許されず、背中越しに振り返る一方通行の泪橋」という故事が残っています。
この見返橋の道端から山道を上がると、今は地名の残っていない「黒の瀬」になります。その付近にある薬師堂こそが、黒の瀬処刑場の供養堂だという説があります。
その心霊スポットの薬師堂は、山道の曲がり途中にあります。小さなお堂の内には、かわいらしい石仏が一体安置されています。
4つ目の愛媛県の心霊スポットは、「肱川河原処刑場跡(大洲藩処刑場跡)」です。
大洲市の畑の中に取り残されたような草原があり、そこに石碑が1つ置かれています。地名の通り、ここ一帯はかつて河原でした。
「南無妙法蓮華経」と彫られたそれは、処刑場の供養塔だと思われます。ここでも1000人の人が斬り殺されたのでしょうか?
動画を撮ると不気味な声や映像が入っていた、という体験談が伝わっています。
画像引用元:西条市公式ウェブサイト
5つ目の心霊スポット「土壇さん」は、見つけるのが難しい心霊スポットです。西条市西原地区の住宅街に、石の祠がぽつんとあります。
土壇は「どだん」と読みます。今でも物事が決定する最後の瞬間、場面のことを「土壇場」といいますね。これは元々、首を切る処刑場をあらわす言葉でした。
土壇さんは愛媛県の記録にはなく、言い伝えのみの処刑場跡です。四角くコンクリートに固められた狭いスペースに砂利が敷かれています。その上に小さな二基の石祠が並び、奥に頭だけの石仏らしきものがのぞきます。
起源も来歴も不明ですが、他の処刑場跡地とは違って、今でもお供え物がしてあります。地元の方に大事に祀られているのがわかりますね。
愛媛県今治市大西町新町には、かつての松山藩の処刑場跡があります。今では「古寺の地蔵堂」と呼ばれています。
こじんまりとしたお堂の前に供養塔らしき石造物が並び、一番大きなものには「大乗妙典一石一字」とあります。裏には「昭和八年七月 鴨頭ヨシ子 建之」と刻銘があります。
その後ろの説明版「古寺地蔵尊由緒沿革」には、地蔵尊の来歴が書かれています。以下はその要約になます。
ここには元々「真光寺」という寺がありましたが、寺が移転したのを機に、松山藩はその跡地を処刑場に定めました。貞享年間、高い年貢と長引く凶作により百姓らは困窮しました。そこで延喜村の庄屋だった八木忠左衛門は、藩主に年貢軽減の直訴をしました。しかし、忠左衛門は罪を問われ貞享3年(1686)息子の小太郎と共に、この古寺の処刑場で斬首され、さらし首になりました。
延喜村を中心にした百姓らはひそかに「地蔵尊」を建て、忠左衛門と小太郎を弔いました。その後この地蔵尊は火難、悪病、厄除けにご利益のある地蔵として、人々の信仰を集めたといいます。
その後明治2年(1869年)に、大庄屋である井出氏は処刑された人々の霊を慰めようと、「大乗妙典一石一字」の供養塔を建てました。さらに下って大正13年(1924年)、下町を中心とした有志らが浄財を募り、地域の人らの寄付を加えて、境内を拡げ新しいお堂を建立したといいます。
公民館のような中の奥に、お地蔵様が安置されています。赤い前掛けに赤い帽子、地蔵なので当たり前ではありますが、やや子供っぽい顔をしています。
なお地蔵堂が建立された際には、人骨が発掘されたという話もあるそうです。
さてここまで6つの処刑場跡地にまつわる心霊スポットを紹介してきました。といっても感じるのは歴史の無常や人間の残酷さで、あまり霊的な怖さはなかったと思います。
しかし最後に紹介する「衣山処刑場跡」は、愛媛県の心霊スポットでも最恐と恐れられています。というのも、現在は松山刑務所所管の墓地になっているからです。
ここではさまざまな心霊現象が語られていますし、しかも単なる処刑場ではなく、キリシタン弾圧という闇の歴史を持つ心霊スポットなんです。
衣山処刑場跡については、コチラの記事で詳しくまとめていますので、ぜひご覧ください。
今回は愛媛県の処刑場跡地にまつわる心霊スポットを紹介しました。見ていただくとわかるのは、今ではほとんどが畑や住宅地に埋もれてしまっている、ということです。石碑が1本あるだけで由来も書かれていないものがほとんどなので、地元民でもなにも知らずに過ごしてきたということが多いのです。
ですから心霊体験をした者は、むしろ由来を知って安心するくらいだといいます。理屈が通っているほうが、人は落ち着ける生き物だからです。
しかし石碑などがあるのはまだマシで、普段遊んでいた公園が、実は処刑場跡地に作られていた……なんてこともあるんです。そこでは今も、人が亡くなる事件や事故が起こっていたり……。岩手県の心霊スポット「見分森公園」は、処刑場跡地に作られたと噂されています。こちらも詳しくまとめていますので、興味のある方はぜひご覧ください。
あなたが何気なくすごしてきた毎日にも、恐ろしい歴史的な心霊スポットがひそんでいるのかもしれません。このことに気づいてしまったあなたの日常は、きっと今までとは変わった恐ろしいものに変化してしまうでしょう。