ナチス・ドイツが戦時中にヨーロッパ全土から略奪した美術品は絵画や彫刻など実に60万点に及んだと言われている。
領土拡大と同時に数々の戦略立案をしてきたヒトラーだったが、中でも美術品の収集には力を入れていたのである。
これらの美術品の中にはピカソやゴッホ、シャガールといった有名作品も数多くあったという。
では、単に戦争の報酬や見せしめとしてこれらの美術品を収集していたのだろうか?
様々な説があるがいくつか紹介していこう。
公開日:2019年10月21日 更新日:2020年2月17日
ヒトラー自身は少年時代から青年時代にかけて画家を目指していた。
母のクララが亡くなった後、ウィーンの街で造形美術アカデミーへの入学を目指していたのだ。当時の数少ない青年時代のヒトラーの様子は当時ヒトラーと一緒に住んでいたこともあり、唯一と言える青年期の親友であるアウグスト・クビツェクの著書である「わが青春の友~アドルフ・ヒトラー」に詳しい。
話を本題に戻すが、この時のヒトラーは美術アカデミーへの入学受験に失敗している。
ヒトラーが目指していた画風と美術アカデミーの主流であった画風には大きな違いがあったとされている。
当時の記憶はヒトラーの脳裏にある意味でトラウマを植え付けていたが、ヒトラー政権とナチス・ドイツが強大になっていくとともに、側近で建築家であったアルベルト・シュペーアにリンツに世界最高の美術館を作るように頻繁に相談をしていたという。
一説によると、ウィーン時代のヒトラーが困窮していたという説や先に述べた美術アカデミーとの摩擦からユダヤ人への報復として美術品を含む財産を集めていたと言われている。
しかし、詳細を調べるとヒトラー自身の収入はほとんど無かったものの、父や母の年金はかなりの額であったと言われている。
またヒトラー自身がユダヤ人画商との付き合いがあったことも考えると、この出来事だけが動機づけになったとは少し考えにくいだろう。
他にも色々な説はある戦時下における美術品の収集問題ではあるが、総合的に考えるとヒトラーという人格が捉える、あるいは認めた芸術というものを主張したかったのではないだろうか?
余談ではあるが、戦後の今現在においても当時失われた美術品の内、約10万点は依然として行方が分かっていない。
戦争が後半になるにつれて、建築家であったアルベルト・シュペーアが軍需大臣になり、軍事的な生産効率を戦時下で最高の状態にしたのである。
ヒトラーは建築家としてのアルベルト・シュペーアの才能に惚れ込んでおり、ベルリンに巨大な都市構想を依頼していた。
アルベルト・シュペーアは精密な模型によって大都市の構想を形にし、ヒトラーを大いに喜ばせたと言われている。
アルベルト・シュペーアが考えた都市の中にも、当然巨大な美術館が準備されており、ここに戦争によって集められた美術品を飾る予定であった。
しかし、ベルリンが陥落したと同時にこれらの構想も全て無に帰ったのである。