【蛮族の襲来】刀伊の入寇で日本の対馬や壱岐などが酷い目に・・・

歴史上、日本が他国から侵略された戦い・・・といえば、元寇が有名です。大群で押し寄せてきた元の軍勢に日本は劣勢でしたが、天候不良で元は徹底しました。ですが、それでも、九州の離島では、元による虐殺や虐待が繰り返されたそう。元寇以外にも、9世紀から11世紀頃にかけての日本は度々、海からの侵略を受けており、九州の離島では大きな被害が出ました。

元寇で大きな被害を受けた離島でもある、長崎県の壱岐と対馬などの離島で起こった刀伊の入寇という事件を知っていますか?

刀伊の入寇ってなに?

刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、1019年に満州の女真族という民族によって壱岐や対馬が侵略され、そして、筑前まで侵入されたという大事件です。

対馬を襲撃

1019年5月4日、刀伊は賊船約50隻に3,000人もの人間を乗せて、いきなり対馬を襲います。

年寄りや子供を殺害し、働ける者は誘拐・・・家を焼き略奪を繰り返し、そして、島の人間を346人も拉致しています。このとき、国司だった対馬守遠晴は島から脱出して太宰府まで逃れたそうです。

そして、その後、対馬を離れた50隻の船は壱岐に向かいます。壱岐は対馬と九州の中間あたりにある離島・・・壱岐に上陸し島民を虐殺し、略奪・・・。そして、400人もの人々を連れ去ってしまいます。このとき、壱岐で生き残れたのはわずか35名だったとも言われていて、その悲惨さがよく解ります。

壱岐を襲撃

藤原理忠に勝利した侵略者は、壱岐嶋分寺を襲います。お寺を燃やそうとしたのですが、僧侶や地元住民が抵抗し応戦します。そしてこの事態を知らせるために、太宰府に向けて使者が出されました。使者が太宰府に向かっている間、残された人達は必死で抵抗・・・しますが、とうとうお寺は陥落し燃やされてしまいます。そして、残された僧侶は全滅・・・。

もともと、この時期の沿岸部では、よく海賊の襲来があって島民はあたまを悩ませていたそうです。でも、海賊と3000人の大軍勢ではわけが違います。襲撃の一報を受けた壱岐の国司「壱岐守藤原理忠」は147名の兵を連れて戦いますが、圧倒的な数の差になすすべもなく破れてしまいます。

そして・・・博多を襲う

対馬や壱岐を襲った侵略者は、4月9日に博多を襲います。

ですが、今までの離島と九州本土とはわけが違った・・・このとき、博多には防御施設が整っていたのです。3000人の軍勢はこの防衛施設を備えた博多をも侵略しようとしますが、大宰権帥藤原隆家と大蔵種材によって撃退されます。

博多を襲撃するも失敗したのち、今度は、長崎県の松浦に向かいます。松浦党の祖でもある源知に破れ、壱岐・対馬まで撤退したのです。松浦といえば水軍・・・この時からかなりの軍事力を持っていたのでしょう。

そして、ここでまた対馬に悲劇が起こります。

1度目の襲撃でボロボロにされているハズなのに、博多と松浦で敗走した刀伊が再度、襲来したのです。

 

その後、刀伊は高句麗まで撤退し、高句麗の水軍に破れます。そしてここで拉致されていた日本人が300人ほど高句麗によって保護されて帰還しました。

高句麗から帰国した者の証言によると、刀伊は未明に襲撃し男女を捉え、老人は焼いて海に捨てたそう・・・。このとき、高句麗は、刀伊を撃退した後、日本人を保護して大変手厚くもてなして帰国させてくれました。

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ちなみに、高句麗はかつて現在の中国東北部から朝鮮半島に存在していた国です。

女真族は”蛮族”だった

刀伊の入寇で日本を侵略しようと蛮行を働いたのは、女真族という民族・・・。

この女真族は蛮族だったとされています。もともとは、ツングース系の民族で高句麗を度々、侵略していたのです。海から侵入するという手口が多かったそうで、高句麗では”蛮族”と呼ばれていたんだとか。

対馬や壱岐で、島民を殺害し、家畜を殺して食いあさり・・・壮年のものは拉致するという蛮行を見ると”蛮族”と呼ばれるのも無理の無いことのように思えます。

まとめ

学校であまり教えられない日本の歴史・・・刀伊の入寇では、無防備な離島が次々と襲われて大きな被害がでました。

博多や松浦のような戦いへの備えをしているところは、襲撃を受けても応戦し侵略者は敗走したのです。

もし、壱岐や対馬に十分に兵力と防衛施設があったら・・・と考えしまいます。侵略への備えをすることの大切さを教えてくれる歴史のひとつです。

 

参考資料:西川 吉光 海民の日本史4

Wikipedia

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