晴れた日の青い空の色や、赤色の美しい花。私たちが見るものには様々な「色」があります。
私たちの多くは「赤色」「青色」などといわれれば、すぐにイメージが湧きますよね。
では、生まれてから一度も赤色を見たことがない人にどうやって赤色を説明しますか?
リンゴの色?血の色?情熱的な色?
それらすべては感覚的な認識に過ぎず、赤色を見たことがない人には理解できるのでしょうか。
今回はそんな思考実験「マリーの部屋」について紹介していきます。
マリーの部屋(メアリーの部屋)とは、オーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが論文の中で提示した思考実験です。
科学の世界では、そのものについての情報を知っていれば、そのものを知っているといえるという「物理主義」という考え方があります。
「マリーの部屋」は、そんな物理主義に疑問を唱える内容で、論文が提出された当時画期的な思考実験でした。
マリー部屋は、ざっくりいうとこんな感じです。
マリーは、生まれてからずっと白黒の部屋で過ごし、一歩も外に出たことはありません。
白黒の本を読み、白黒のテレビで世界中の出来事を知ります。つまり彼女は「色」を一度も目にしたことがりません。
しかしマリーは人間の視覚について専攻しており、その知識は世界でもトップクラスでした。
人間がどうやって色を感知するか、眼球の構造や視神経とのつながり、人がどういう時に「赤い」「青い」という言葉を使うのか、マリーは視覚に関する科学的な事実を全て知っています。
ある日、マリーは白黒の部屋から解放され、外の世界に出ます。
さて、マリーは生まれて初めて色を目にしましたが、それによって何か新しいことを学んだのでしょうか?
マリーが新しい知識を得たとしたら、物理主義は否定されることになります。
マリーは色を見ることで、「赤色ってこんな感じなんだ」というような感覚を得ます。
これは色や視覚についてどんなに知識を持っていても、経験しないとわかりません。
この体験によってマリーが得たものを「クオリア(感覚質)」といいます。
マリーが知っていたのは「りんごは赤い」「赤色の波長の長さ」などの物理学的な事実であり「赤色がどう見えるか」ではなかったのです。
マリーは外の世界に出たことで、色に対するクオリアを得ました。
これによって「情報を知っていれば、そのものを知ったことになる」という物理主義は不完全なものと証明されました。
色に対してどんなに客観的に物理学的な説明をしようとも、私たち一人ひとりがどう感じているか、心の中まで説明することはできません。
客観的で全ての物理法則に則ったものが科学だとすると、クオリアは主観的で自分にしかない主観的なものとなります。
科学は量的、クオリアは質的といえるでしょう。
クオリアは一人ひとりの主観によって決まるので、それぞれの間で感覚的な”ずれ”が生じているかもしれません。
例えば、「りんごは何色?」と聞かれれば、普通の人なら「赤色」と答えますよね。
しかし、いずれも「りんごは赤色である」と答えたAさんとBさんの間で、見えている色の感覚が違ったらどうでしょうか。
Aさんにとっての赤色は、Bさんにとって「青色」だったとします。しかし、Bさんは青色を「赤色」と感覚的に定義して生きてきました。
つまり、自分が「赤色」だと思っている色が、他人にとっては自分の感覚と同じように赤く見えるわけではないのです。
この場合Aさんが「Bくん、赤色の色鉛筆かして」というと、Bさんは「わかった」と言い、赤い色鉛筆をAさんに渡します。
当たり前のようなこんなやり取りをする両者が、全く別の感覚を持っているかもしれないのです。
どんなに科学的な事実や情報を知っていても、それは客観的なもので主観的なものではありません。
ものごとが「どうあるか」を追及するのが科学ですが、哲学では「どう見えるか」「どう感じるか」が重要なのです。
「痛み」や「幸福感」など、物理的感覚や人間の感情にも科学的な根拠があり、説明することができます。
しかし、辛いものが食べられない人もいれば、激辛料理をペロッと間食してしまう人もいますよね。
同じ物理的刺激が舌にかけられ、同じように脳に信号が送られても「クオリア」の違いによって感じ方が違ってくるのです。
SNSの発達でなんでも簡単に共有できるようになりましたが、感情を真に共有することは本当に可能なのでしょうか。
是非皆さんも考えてみてくださいね。