封神演義では圧倒的な悪役として描かれる「殷王朝」において最後の王となった紂王ですが、実際の評価は現在見直されつつあります。
一般的なイメージとしては、「妲己に溺れて暴君として政治をした」「民を顧みない政治をしていた」「残虐な処刑を数多く行った」というものが先行しがちです。
しかし、史書に描かれている紂王の堕落などは、後世の周がその正当性をもたせる為に脚色したのではないか?という意見もあるのです。
国が変革すると、新しい王朝はその正当性を主張する必要があります。
そういった意味でも紂王という存在が本当に暴君であったかどうかは議論の分かれるところです。
ここでは、紂王が行ったとされる悪逆な行為や処刑など、当時の文化などをいくつか照らし合わせて出来る限り紂王について正確な考察をしてみようと思います。
画像引用元:帝辛
紂王は殷王朝の30代目の王であり、一般的には紂王という呼ばれ方をしていますが、帝辛という呼び方もあります。
史書に残る紂王は、容姿端麗、文武両道であり、いずれにおいても優れた人物であったと言われていますが、欠点として臣下を見下す傾向にあったことも指摘されています。
しかし、これらの史書に記述されている紂王の姿はあくまでも後世の人間が書いたものであり、当時の状況を正確に表わしているかどうかは不明です。
ただし、殷王朝そのものは約600年続いた歴史の中で後期の殷代においては処刑や人身御供などによって他の諸国への見せしめとしていた事は事実であったようです。
中国には殷の首都が置かれていた場所に殷墟と呼ばれる遺構が発見されており、そこから発見された甲骨文には、「帝辛の代で人身御供を辞めさせた」という記録も出土しています。
また、同遺構から、紂王を堕落させたという妲己に関する記述が見つかっていないことから、妲己によって堕落したかというとそれも史実の側面としては疑問の残るところです。
当時の殷は後の秦国とは違い、中国全土を統一していた訳ではありません。
あくまでも中央政権として一番大きかった国が殷であり、殷の周囲には各諸侯がそれぞれ自治権を持っていました。
紂王はおよそ紀元前1100年前後に武王によって牧野の戦いで敗北し、処刑されますが、見方によっては文王による反乱が成功しただけという可能性も充分にあるのです。
というのも殷周革命は一概に衰えた殷に周が変わっただけの革命ではなかったという説もあるからです。
殷周革命は周が衰えた殷に取って変わったというよりは、東方の経略に注意が向きすぎていた殷の隙を突いて滅ぼしたとする説が最近では有力視されている。周の地で出土した甲骨文の記述によると周が密かに殷の東方に位置する部族へ連携を申し込んだ記述が認められる。
引用元:帝辛 殷周革命
殷の国を滅ぼしたのは当時、殷の西側にあった勢力でした。これが文王、武王や軍師太公望の勢力であった訳ですが、上記のような証拠から中央政権を打倒するために少なくとも文王や武王は周囲の勢力と連携していたことも分かります。
もちろん、最大勢力であった殷が完璧な政権であれば反乱は起きなかったかもしれませんが、歴史上完璧な政権というものは存在していません。
殷という存在を見ると、どうしても暴君紂王の印象が強いですが、実際には江戸幕府よりも長く続いた王朝ですから、それなりの権威と文明は持っていたと考えられます。
ただし、最終的には反乱を起こされたという点では史書にあるように他者を見下しやすい性格なども災いして、周囲の人心掌握は出来ていなかったのかもしれませんね。
一説によると、周の成立した後、紂王の一族は全てが殺害された訳ではなく、兄の微仲衍(びちゅうえん)という人物は当時の国の1つであった宋という地に封じられます。
諸説はあるようですが、この紂王の兄である微仲衍の子孫が孔子になったとも言われています。
孔子と言えば日本にも影響を与えた儒教の始祖である哲学者であり、キリストなどと並べられる四聖人の1人にも数えられる人物です。
もしもこの系譜が真実であれば、紂王は単なる暴君で放蕩者であったという評価も変わってくるのかもしれません。
甲骨文による証拠は時代が古すぎるために全てを明らかにすることは難しいと思われますが、今後も何か新しい発見などがあっても不思議ではありません。
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