日本の古代史において、いまだに研究と推論が続いている『邪馬台国』の存在。
中国の魏志倭人伝によってのみ、現在にその存在が伝えられていることから、卑弥呼などは実在していたかどうかについても議論されています。
同書によると、邪馬台国が存在していたと推測されている年代は約3世紀~4世紀なのですが、この時期の日本は『空白の4世紀』または『謎の4世紀』などと呼ばれており、その実態が明らかにされていません。
日本で発見されている痕跡を考えても、文化的に大きな変化が起こっていることは確実なのですが、未だに謎に包まれているのが、邪馬台国の消滅と大和朝廷の成立の経緯です。
今回は、邪馬台国の消滅について個人的な見解を交えながら考察していこうと思います。
実は、魏志倭人伝には邪馬台国と卑弥呼の記述に加えて、当時の倭国の様子が残されています。
それによると、かつての日本には、「馬や牛といった家畜は存在していなかった」とされているのです。
これは当時の日本の様子を考える上で、非常に重要かつ、重大な意味を持つであろう歴史的資料なんです。
そもそも当時存在していたとされる邪馬台国の正確な位置関係については判明していませんが、馬や牛が存在していなかったという記述とは対称的に4世紀頃の遺跡だとされるものの中には、馬具などの埋葬品が発見されています。
これは、明らかに海外や大陸から『馬や牛が持ち込まれた』ということを裏付けるものであり、同時に、『邪馬台国が消滅した原因』になっているかもしれないのです。
馬のいなかった古代の日本の遺跡から馬具や馬の骨が発見されているということは、当然外から持ち込まれたものだと考えるのが妥当です。
そして、邪馬台国が歴史から消えていったとされるのが3世紀の後半だとも言われていることから、『邪馬台国の消滅』と『馬や牛などの渡来時期』が重なっていると言えます。
これらのことを総合的に考えると、邪馬台国が滅亡した原因は、『騎馬民族征服王朝説』と呼ばれる説にたどり着くのです。
国内外において、客観的な資料が発見されていない『空白の4世紀』は、日本の文化が大きく転換した時期だとも言われています。
その変化がもっとも大きく表れているものが、いわゆる埋葬の方法です。
陵墓というものはそれ以前の時代から作られていたものですが、その大きさはせいぜい小高い丘くらいのものであり、巨大なものは現在まで確認されていません。
しかし、邪馬台国がおそらく消滅したであろう3世紀の後半から約100年後頃に作られ始める陵墓は一気に巨大化します。
それが、我々が小学校でも歴史の授業で習う『前方後円墳』と呼ばれるものです。
かなりの短期間においてこの前方後円墳は巨大化の一途を辿り、有名な『仁徳天皇陵』などは”世界でもまれに見る巨大な墓”だということが分かっています。
画像引用元:大仙陵古墳
※仁徳天皇陵の底面積はギザのピラミッドや始皇帝陵墓よりも巨大だとされています
また、こういった埋葬の文化が表れた頃には、縄文時代には残っていたと考えられている入れ墨などの文化が消失したとも言われています。
はたして、縄文時代から弥生時代へ移り変わろうとしていた古代日本に何が起きたのでしょうか?
邪馬台国は一体どこへ消えてしまったのでしょう。
ここまで紹介してきたような、文化の進歩や時代の変化を学術的に研究するためには、当時の陵墓である仁徳天皇を始めとした権力者のお墓を調査することが重要になります。
しかし・・・
天皇家を管轄する政府省庁である宮内庁は、仁徳天皇陵墓などの発掘については完全に禁止しており、何かを隠しているという噂も多いのです。
宮内庁からの説明としては、『仁徳天皇の墓である』という一方的な説明がされているだけであり、学術的な調査が一切許されていないという事実があります。
ひょっとしたら・・・・
あくまでもこれは推測に過ぎませんが、この時代に作られた天皇家に関する墓には、古代日本に関する秘密、すなわち天皇家のルーツに関わる問題が隠されているのではないでしょうか?
そうでなければ、世界最大規模の遺跡を発掘禁止にする理由があるでしょうか?
コチラの記事では、全7回の連載で邪馬台国~空白の4世紀をより詳しく考察しています! ぜひチェックしてください!