☆埋蔵金連載第5弾☆豊臣秀吉の埋蔵金伝説

天下人になった経験を持つ豊臣秀吉。

さぞ大金を埋蔵したと考えられますね。

天下統一後、立場を生かし全国の鉱山から金を発掘させたのが豊臣秀吉でした。

そして、蓄えられた金は、豊臣秀吉が死ぬまでに使い切れないほどの巨額のものになりました。

豊臣秀吉の性格上自分ひとりで使うためのものではないと考えられています。

豊臣秀吉がその巨額の富の埋蔵を命じた時には、すでにかなり年を取っていたと同時に、重い病を患っていたといわれています。

跡継ぎの豊臣秀頼が幼かったため、豊臣家の生末に焦りを感じていたそうです。

そこで秀吉が命じたのが今までに全国の鉱山から産出した巨額の富を埋蔵することでした。

埋蔵場所「多田金銅山」に眠る財宝

1598年(慶長3年)朝鮮半島では、明国侵攻に向けて激しい戦いが繰り広げられていました。

そんな中重い病で倒れてしまった豊臣秀吉は、自らの命が短いことを感じ取っていました。

そこで、豊臣秀吉は今まで全国の鉱山から集めていた膨大な黄金「約4億5000万両」金塊100トンを秘密裏に隠すように、配下の幡野三郎光照という武将に命じたのです。

隠し場所は大阪から北西25キロに位置する多田銀銅山を選び、その鉱山を「即閉山」を命じたのです。

無数の坑道の奥に黄金を運ばせて、21か所程度に分けて埋蔵したとされています。

こうして、豊臣秀吉の埋蔵金伝説が生まれたのです。

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何世紀を超えて発見された書物

占いの書

豊臣秀吉の命によって巨額の富を埋蔵した幡野三郎光照ですが、1614年大坂冬の陣で幡野三郎光照は戦死を覚悟し、戦いを前に隠した豊臣秀吉の埋蔵金のありかを書き示した書物を子孫に残したのです。

この伝説が詳細に記された書物は、第二次世界大戦の終戦直後、とある人物が先祖代々の家財を整理中に偶然戦火を免れた荷物の中から見つけ出したのです。

この発見が大々的に報道されると、全国のトレジャーハンターたちが一攫千金を狙い始めたのです。

しかし、そううまくいくことはなく、現在に至っても豊臣秀吉の埋蔵金の大部分は発見されていないのです。

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豊臣秀吉埋蔵金のその後

1615年(元和元)58日豊臣秀吉の跡継ぎである、豊臣秀頼が自害し、城は火事で跡形もなくなってしまい、埋蔵金は行方不明となってしまいます。

後の天下統一を果たした徳川家康が、部下に城を閉鎖させ、焼け跡の中から埋蔵金を探し出すように命じたのです。

なんと、その後見つけ出すことに成功します。

見つけられたものはすべてではありませんが、黄金2万8060枚、銀2万4000枚が発見され、すべて家康のもとへ送られていきました。

しかし、隠された埋蔵金の大部分は現在も発見されていません。

大部分の埋蔵金の行方はいまだに不明なままなのです。

残された疑問点

ここで、疑問点が生まれます。

どのようにして、「45000万両」「金塊100トン」もの黄金を多田銀銅山に運んだのでしょうか?

秘密裏にこの黄金を埋蔵しろという命でしたが、この大量の黄金を運ぶとしたら最低でも3万人以上の人員と1万以上の大八車が必要になります。

こんな大人数で大規模なことをしたらバレバレにもほどがありますよね。

このようなこともあり、豊臣秀吉の埋蔵金についてはいまだにわかってないことが数多く残されているのです。

まとめ

いかがだったでしょうか?

もしかしたら、日本の埋蔵金伝説で最も巨額の可能性のある豊臣秀吉の埋蔵金伝説についてご紹介しました。

数多くの不明点などからこの埋蔵金伝説自体嘘だという声も上がっていますが、元天下人で鉱山を発掘させたということは事実に近いため、もしかしたら巨額の埋蔵金は本当に存在するかもしれませんね。

ちなみに、豊臣秀吉の埋蔵金を現在の金額に算出した結果「約2兆円~33兆円」もしくはそれ以上ともいわれています。

大変ロマンをくすぐるような話でしたね。

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