ジャンヌ・ダルクの戦友と呼ばれた諸侯の中でも「救国の英雄」とまで呼ばれるほどの活躍を認められたジル・ド・レ。
以前の記事でもジャンヌ・ダルクの戦友として紹介しましたが、同時代の貴族において、ジル・ドレほどジャンヌ・ダルクを失った影響を受けた人物は居ないのではないか?
と思わせられるほど、ジャンヌが捕まってから、彼の行動、生活は狂気に染まっていった事が判明しています。
当時のフランスは混乱の中にあったため、多くの人物が英雄から没落した事実はありますが、ジル・ドレは比肩出来ないほどの罪を重ねていきます。
ここでは、ジル・ドレの没落とその影にいたと言われる人物について紹介していきます。
オルレアン解放戦からパリ包囲戦までをジャンヌ・ダルクと共にしたジル・ドレは、オルレアンでのジャンヌの活躍ぶりに心底陶酔していたと言われています。
しかし、パリ包囲戦は失敗に終わりその後、ジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ公によって捕虜の身になったことによってジル・ドレの行動は少しずつ変調を起こします。
おそらくジル・ドレにとっては「ジャンヌ・ダルク」という存在は生きる指針のようになっていたのかもしれません。
しかし、神の使いであると信奉していたジャンヌ・ダルクが結果的に敵対している軍に捕まったことによって大きな虚無感に襲われたのでしょうか?
ジル・ドレ自身はパリ包囲戦の直後に領地に戻っていたため、ジャンヌ・ダルクが捕まった場所にはいませんでした。
彼はオルレアンでの劇的な解放を成し遂げ、その後の追討戦での功績が認められたジル・ドレは、ランスでの戴冠式において「フランス元帥」に認められました。
その原動力となった神聖な人物が捕まったショックは我々には想像も及びませんが、ジャンヌが捕虜となった後には、元々監視を命じていたシャルル7世の側近であるラ・トレモイユの指示の下、領地を攻めたり、ジャンヌ・ダルクが捕まった1431年5月には、ジャンヌ・ダルク奪還の目的でルーアンへと攻撃を仕掛けていたそうです。
しかし、主な活動は浪費。とくに錬金術の成功を目指していたと言われています。
そんなジル・ドレに近づいてきた人物が「フランソワ・プレラーティ」という自称”錬金術師”を名乗った司祭でした。
後世でジル・ドレが殺人鬼青ひげのモデルとなったと言われるキッカケとなったのが、この自称錬金術師フランソワ・プレラーティがジル・ドレに対してけしかけたと言われている錬金術成功のための黒魔術でした。
ジル・ドレが錬金術を成功させたかった本来の目的は定かではありませんが、おそらく初期には浪費の穴埋め程度だったのでしょう。
しかし、錬金術に囚われてしまったジル・ドレに自称錬金術師が接近したことによって錬金術を成功させる為に、自身の手下を利用して幼い少年を誘拐し始めます。
その犠牲者数は150人~1500人とも言われており、ジル・ドレの手下に連れ去られた少年は陵辱され、虐殺されていったのです。
ジル・ドレの狂気は単純に錬金術の成功目的だけに留まらず、少年達を陵辱する行為そのものに快感を覚えていたとも言われています。
もちろん、このような行為によって黒魔術と錬金術が成功した事実はなく、救国の英雄と呼ばれた男は快楽殺人者へと変貌します。
1432年には事実上の封建関係にあったラ・トレモイユが失脚したことにより、ジル・ドレ自身も宮廷での出番はほとんどなくなります。
政権争いには特に関わっていなかったとされていますが、祖父の死やラ・トレモイユの失脚によって立場のなくなったジル・ドレはさらに借金を重ねていき、その間も浪費は止まらなかったそうです。
ジル・ドレが浪費をした理由や真相については不明な点が多いですが、一説によると、錬金術の究極の目的である「賢者の石」の力をもってジャンヌ・ダルクの復活をや救済を願ったとも言われています。
また、ジャンヌ・ダルクという神に従った少女が神に裏切られて捕まったことから、神を恨むようになり、黒魔術によって悪魔の力を借りようとしていたとも言われています。
この説を考えれば、いわゆる「悪魔崇拝」と呼ばれる行為によってジャンヌ・ダルクを救おうとするという行為そのものが矛盾に満ちていますし、ジル・ドレの変貌は明らかに通常のものではありません。
逆説的に考えれば、ジル・ドレの人格が崩壊してしまうほど、彼の中の「ジャンヌ・ダルク」は大きい存在であったのかもしれません。
実際に、現在でもジル・ドレの変貌の原因はジャンヌ・ダルクが捕まったことによる精神異常という説も多くあります。
画像引用元:ジル・ド・レ
数多くの少年を虐殺し、浪費も収まらなかったジル・ドレは、当然ながらそれまでの「黒魔術」や「悪魔崇拝」「虐殺行為」という行動を表向きには隠していました。
ジャンヌ・ダルクが異端として処刑されたように、当時のフランスにおいてローマ・カトリック教会の力は絶対でした。
もっともジル・ドレに至っては最早そういった宗教問題以前に多くの犯罪を行っている時点で救われる道はありませんでしたが…。
1440年、所領を争っていた問題でサン=テティエンヌ=ド=メール=モルトの聖職者を拉致・監禁したことが発覚、告発、逮捕されます。
この裏にはブルターニュ公ジャン5世によるジル・ドレの領地簒奪計画などもありますが、もはやそんな事は問題ではありませんでした。
ジル・ドレは宮廷内で争いのあった1438年近辺での少年の失踪事件にも関与されていると言われており、あまりにも長い期間に狂気の犯罪を続け過ぎていました。
教会から派遣されたナント司教によって身辺調査をされ、全ての犯罪が裁判によって明らかにされます。
ジル・ドレは裁判において、自身が犯した全ての罪について告白し、懺悔をしたと言われています。
悔悛したことによって生きたままの火刑による処刑は免れましたが、絞首刑にされた後に火刑にされ、36年の生涯を閉じました。
ジル・ドレの共犯者であったフランソワ・プレラーティは、裁判において犯罪への関与を否定していましたが、黒魔術への関与を認めて終身刑になります。
その後は脱走をした後、とある街の役人になりますが1445年には捕まり絞首刑に処されます。
また、フランソワはジル・ドレの性的なパートナーであったとも言われており、稀代の詐欺師でもありました。
今回は救国の英雄から没落した貴族「ジル・ドレ」について紹介をしてきました。
もはや悲劇とも呼べるこの変貌は後世にも語り継がれていますが、ジル・ドレの処刑を見守った民衆は、彼の魂が救済されることを祈っていたと言われています。
事実、彼は「英雄」と呼ばれるに相応しい戦果を挙げたと同時に、救いようのない猟奇殺人を犯すという悲劇的な人生を送りました。
彼が行った大量殺人は今後も許されることはありませんが、処刑され、死後に民衆が取った行動を考えると、彼自身の功績は当時の民衆には一定の支持をされていたのかも知れません。
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