零戦・・・正式名称は「零式艦上戦闘機」
大戦中の日本が世界に誇る素晴らしい性能を持った飛行機だったことはみなさんもご存じかと思います。
零戦は飛行性能の高さ、そして後航続距離の長さなどで戦闘を優位に進めることができることから、日本軍の強力な武器でした。ですが、零戦は戦闘機としての性能の高さだけでなく、操縦する搭乗員も一流でした。
零戦のレジェンドパイロット「坂井三郎さん」そして「岩本徹三さん」をご紹介します。
画像 photoAC
零戦のエースパイロットと呼ばれる坂井三郎さんは、『大空のサムライ』という著書も出している方です。ですから「名前は聞いたことがあるな~」という方もいらっしゃることでしょう。百田尚樹さんの小説”永遠のゼロ”にも坂井三郎という名前のエースパイロットが登場します。
坂井三郎さんは、1916年8月26日佐賀県出身の元軍人で対戦を生き抜き、 2000年9月22日に永眠されました。
現役だったころの坂井三郎さん・・・一流の操縦テクニックを持った零戦搭乗員の中でも屈指のエースパイロットでした。撃墜数は自称64機!(28機という説も)
そんな坂井三郎さんですが、実は最初から操縦が上手だったというわけではなく練習生のころの成績はあまり良くなかったそうです。ですが、努力を重ねた結果、操縦練習生を首席で卒業します。
坂井三郎さんが「伝説のエースパイロット」と呼ばれるある出来事があります。
昭和17年8月7日のことです。ガダルカナル攻撃に参加しアメリカ軍の戦闘機と交戦します。
そのときに、坂井三郎さんの機体が旋回連装機銃の集中砲火を浴びて被弾・・・頭部を負傷してしまいます。左半身が麻痺に右目の負傷、そして、左目の視力も低下しました。もちろん、場所は上空。
絶体絶命の大ピンチです。
ですが、坂井三郎さんは動かない身体とよく見えない視界の中で無意識に機体を水平飛行に回復させ、約4時間かけてラバウルまで戻ってきたのです。
このとき、正常な操縦ができなかったので、降下角と進入速度のみをコントロールして椰子の木と同じ高さになった時にエンジンを切るという方法で着陸・・・重傷を負っていた坂井三郎さん内地の病院に搬送されました。
奇跡の生還です。
画像:足成
坂井三郎さんと並んで屈指の操縦技術を持っていたレジェンドパイロットが岩本徹三さんです。岩本徹三さんは、零戦撃墜王と呼ばれるパイロット・・・。自己申告による撃墜数は202機!(80という説も)
命をかけた戦場を生き抜いたパイロットです。
1916年6月14日に樺太の国境近くで警察官の父親の元に生を受けます。
成長してパイロットとなり、支那事変や太平洋戦争で”撃墜王”と呼ばれるように・・・。補給のためにスコールで激しく揺れる瑞鶴に着艦したという逸話もあります。
岩本徹三さんの機体には、撃墜数を表す桜のマークがつけられていて遠目で見るとピンク色の機体に見えたとか・・・高度なテクニックを持っており、難しい戦法で敵を返りうちにした熟練の搭乗員でした。
岩本徹三さんもまた、戦争を生き抜き、終戦を迎えます。
戦犯にはならなかったものの、公職追放となります。その後、戦争で負った傷が再発し麻酔をせずに手術をするも、敗血症にかかり1955年5月12日この世を去りました。病のとこにあるときも「元気になったらまた飛行機に乗りたい」と言っていたとか、
ちなみに、岩本徹三さんの息子さんは、航空自衛隊に入隊されたそうです。
零戦というと、どうしても機体の性能の高さが注目されがちです。
ですが、零戦が対戦で活躍できたのは、機体の性能の高さに加えて熟練の搭乗員の技術があったからです。
坂井三郎さんは、負傷しながらも帰還したという逸話の持ち主で優れた操縦技術をもったエースパイロットとして知られる存在でした。そして、零戦の撃墜王岩本徹三さんもまた、スコールで揺れる空母に着艦したという逸話を持っています。難しい戦法で戦ったエースパイロット・・・。
戦争を肯定するわけではありませんが、素晴らしい飛行技術を持ったパイロットが旧日本軍にいたということは事実です。
参考資料:Wikipedia 岩本徹三
佐藤, 弘正『ニューギニア兵隊戦記』光人社 NF 文庫、東京, 日本、2000年
講談社 大空のサムライ 坂井三郎