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軍神か?鬼神か?日本が誇る不死身の最強軍人・舩坂弘

第二次世界大戦中、圧倒的に不利な状況で日本とアメリカの激戦区となった『アンガウルの戦い』。この戦いで多くの兵士が命を落とす中、不死身の分隊長』・『鬼神』とまで呼ばれた舩坂弘軍曹はその武術もさることながら、驚異的な回復力と幸運により奇跡的に生還し静かな余生を過ごしていました。

学校の授業では語られることはありませんが、その戦績を戦史に刻まれたのは彼一人。世界的に有名な『シモ・ヘイヘ』や『ハンス・ウルリッヒ・ルーデル』と並び、リアルチート軍人とまで呼ばれています。しかし敵軍であるアメリカ兵からはその生存能力の高さや国を思う気持ち、1人でも一矢報いようとする姿勢などから称賛を浴び、アメリカ軍の軍医と戦友になったほど。

一体舩坂弘とは、どんな人物だったのでしょうか。そして彼が戦い抜いたアンガウル島での戦いとはどのようなものだったのでしょうか。

舩坂弘はごく普通の少年だった

武家や特殊な家柄の出だと思う人がいるかもしれませんが、舩坂弘(ふなさか ひろし)は栃木県の上都賀郡西方村(現在では栃木市にある西方町)の農家の三男として生まれ育ちました。

近所のガキ大将ともいうべき存在であったものの、小学校・公民学校を卒業後は早稲田中学講義録で独学で勉強し満蒙学校専門部を卒業しています。ガキ大将といえば勉強が苦手というイメージを持つ人もいるでしょうが舩坂弘はスポーツも文学も極めている文武両道タイプだったようです。

舩坂弘の戦闘能力は軍隊内で開花!

1946年に『宇都宮第36部隊』に入隊後、すぐに満州にある『斉斉哈爾第219部隊』に配属。ここでは仮想敵としてソ連軍が想定され、国境警備隊として活躍していました。

当時すでに剣術・銃剣術はマスターしていて有段者だったのですが、特に銃剣に秀でた才能を持っていた舩坂弘の能力は、准将から「腰だけでも3段に匹敵」とまで言われるほどでした。また擲弾筒(てきだんとう/現代でいうグレネードランチャー)分隊長でありながらも、当時所属していた中隊内では名小銃手で、感状や賞状などを30回も授与されたほど。

当時斉斉哈爾第219部隊内で射撃と銃剣術の徽章を同時に授与されたのは、彼だけだと有名だったそうです。

激戦地アンガウル島へ赴いたことで舩坂弘はその驚異的な能力を発揮する

舩坂弘が活躍することになった『アンガウルの戦い』は、パラオ-マリアナ戦役最後の戦いといわれています。時機動性が高いことで知られていたアメリカの山猫部隊第81歩兵師団から約22,000人、戦車50台・空母1隻・航空機100機以上さらに戦艦や水陸両用車まで配属されていたのですが、対する日本軍はペリリュー島に戦闘力を注いでいたため兵士約1,200人のみという過酷な状況だったのです。

アメリカ軍側からの砲撃や空爆による攻撃が3日間続いたのち、島の西部から兵士が上陸しただけでなく日本軍の背後にある崖からも奇襲をかけられ、日本兵はじりじりと追い詰められていくという最悪なシナリオが展開されてしまいます。

日本軍だけでなくアメリカ軍も窮地に追い込まれる島

兵士数だけでなく軍艦や戦闘機、水陸両用車などがあるため圧倒的に有利なアメリカ軍も、この土地ではかなり苦労しています。アメリカ軍が野営地などに利用していた場所では、水場にはカニがいましたし洞窟内などではコウモリもいたため、このような野性動物などによって緊張状態だけでなく不気味さや不安といったものが積み重なって精神に異常をきたしてしまう兵士も多かったそうです。

日本軍はアメリカ軍による砲撃や空襲でじりじりと兵士が減っていき、洞窟壕内では水が足りず自らの腕を切り落としてその血を仲間に与えた、自分の血肉を食べるようにと言い残し自決した兵士もいたという話も伝わっています。

食料にも困る始末で、ムカデやネズミなどといったものまで数人で分け合って食べていたとか…。こんな状況なのでケガをしても満足に治療することのできる医薬品なども足りず、傷やケガの度合いによっては自決するようにと手りゅう弾を軍医から渡される人もいたそう。舩坂弘も戦闘開始から3日後に重症を負った際にはさじを投げられ手りゅう弾を渡されています。

舩坂弘のリアルチートと言われる戦績

ここからは舩坂弘がアンガウルの戦いにおいて、どのような理由から『リアルチート軍人』・『鬼神』などと呼ばれるようになったのか、当時の彼が経験したことやその戦果についてみていきましょう。

舩坂弘がこの戦いで擲弾筒(グレネードランチャー)や臼砲で殺傷した人数は約100人といわれていますが、『水際作戦』で味方の中隊が壊滅していく中で筒身が熱で真っ赤になってしまうまで擲弾筒を撃ち続け、後退後は南西部にあった洞窟に籠城して戦ったという話が残っています。

アメリカ軍司令部へ突進したときには全身に大小合わせて約24カ所ものケガを負っていて、ぼろぼろな身なりはまるで幽霊のようだったとか。

舩坂弘がリアルチートと言われれる戦績や当時の状況
  • 開戦3日目、至近弾によって左太腿に裂傷を負い、さらに迫撃によって左腕数カ所に穴があく
  • 激痛のため歩くのが困難な状態なのに、負傷している部下を担いだ状態で陣地まで這って帰還
  • 誰もが絶望的と思う状況でも、3人のアメリカ軍兵士を拳銃の3連射や相手から奪った機関銃などで倒したり、左足・両腕をケガした状態で銃剣で1人刺殺したうえ、手にしていた短期機関銃を1人に投げつけアゴに突き刺すなど、まるで鬼神のような戦いを繰り広げる
  • 傷口を見た軍医に自決用にと手りゅう弾を渡され自決するも不発弾で死ぬことができず、翌朝には歩けるまで回復
  • 通常ならひん死になって死亡してしまうケガを負っても、翌日には回復していた
  • まともに歩けないひん死の状態で手りゅう弾を身体にまきつけ、単身敵陣での自爆を計画・実行するも左頸部を撃たれ3日後に蘇生
  • 捕虜となるも収容所を抜け出しアメリカ軍の弾薬庫を爆破

死ぬ前に一矢報いようと単身敵陣へ…

舩坂弘の戦いを間近で見た兵士や伝え聞いた軍人からは不死身の分隊長』とまで呼ばれていましたが、やはり負け戦が目に見えていたこともあってかめせめて相手に一矢報いようと、単身でアメリカ軍司令部へ行き肉弾自爆をしようとします。

このとき舩坂弘はまともに歩くのもままならない状態でしたが、自分の身体に手りゅう弾を6発括り付けたった1丁の拳銃を手に這って敵陣へと乗り込みました。重症のため這って行く形でしたが運よく前哨陣地を抜け、4日目に指揮所のあるテント軍から約20mの場所に到着し、タイミングを見計らって立ち上がり駆けだしたのですが…。

本人は全力で走っていたつもりだったのですが、ケガがひどく実際にはよろよろと歩いている状態でアメリカ軍兵士に発見され、左頸部を撃たれてしまいその場に昏倒してしまうのです。

周囲は誰もが舩坂弘が死んだと思っていたが3日後に復活!

全身にある大小さまざまなケガだけでなく、舩坂弘の体には全身に約20ヵ所砲弾の破片が食い込んでいてやけども多かったそうです。さらに左頸部のケガで絶望的な状況だったものの、微妙に鼓動があったことから軍医が手当したところ…3日後に意識を取り戻しました。

助けられたにもかかわらず、このとき舩坂弘は相手に情けをかけられてしまったと思い、自分を殺すよう暴れまわったとか。しかしその勇気は日本の侍だけができる勇敢な死に方』として語られ、アンガウルに配属されていたアメリカ軍兵士からは『勇敢なる兵士』という呼び名を贈られたそうです。

一部でサイボーグ説があるが…

どんなケガも大抵は翌日にかなり回復していたという舩坂弘ですが、大腿部裂傷や貫通銃創などがたった一晩で歩けるまで回復するというのは一般的に考えてもおかしいと思いませんか?

やはり不思議に思う人はいるようでケガの回復の速さについて質問されたことがあるのですが、舩坂弘は質問に対し「生まれつき、傷が回復しやすい体質」と答えています。

いくら体質といっても限度があるもの。「軍隊に所属してから何かの実験などで肉体改造されているのでは?」とも思ったのですが、調べても人体実験をおこなっていたといわれる『満州第731部隊』との関連もないため、本当にたまたま自己治癒能力が高かった一族の人なのかもしれません。

捕虜となってもなお一人で戦い続けた舩坂弘

単身アメリカ軍の司令部へ乗り込み復活後は、捕虜尋問を数日行われペリリュー島にある捕虜収容所に収容されますが、自分の素性がバレるのを防ぐために、「福田」と名乗っていたそうです。

捕虜となってもなお相手に一矢報いたいという気持は失われておらず監視が甘かった環境を利用して、一度収容所を抜け出し日本兵の遺体を発見。弾丸入れにあった小銃用の弾から火薬を抜き取りアメリカ軍の弾薬庫を爆破し、翌朝の点呼につらっと参加しているです!

その後もアメリカ軍の飛行場に放火しようとするものの、敬けんなクリスチャンだったフォレスト・ヴァーノン・クレンショー伍長により阻止されるのでした。このときのフォレスト・ヴァーノン・クレンショー伍長が「死ぬことを考えず、生きて日本に戻って国を立て直すことに力を尽くせ」と説き伏せたことで、舩坂弘の戦いは終わります。

戦史に個人名が記載されるが、帰国後は静かながらも忙しい余生を送っていた

軍神…いや鬼神のごとく劣悪で不利な環境で戦い抜いた舩坂弘。1994年10月19日にアンガウル島の守備隊が玉砕し、同年12月30日に戦死公報(戦死状況報告書のこと)が届いたため、当然家族は亡くなったものと考え彼のお墓を建てます。

しかしその2年後に本人が帰国し、一時は周囲から幽霊だと思われていたこともあったようです。帰国後に最初に行ったのが自分の墓標を抜くことというのは、何とも奇妙な感じだったのではないでしょうか。

舩坂弘は軍隊にとどまらず終戦後は大盛堂書店の経営者に

すさまじい戦果をあげた舩坂弘ですが、軍人としての階級は『軍曹』で終わっています。帰国後は戦場での体験やアメリカ軍などとの交流から、これからはアメリカを見習うことで日本国内の産業だけでなく教育や文化を発展させるだろうと考え、軍に残らず書店を経営することになり、渋谷センター街の入り口にある『大盛堂書店』を開いたのでした。

舩坂弘は三島由紀夫と剣道を通して交流があった

意外に思うかもしれませんが、舩坂弘は剣道を通してあの三島由紀夫とも交流があったです。1970年に起きた『三島事件』で三島由紀夫が割腹で自殺した際に介錯に使用された刀は、舩坂弘が彼に贈ったものと言われています。

慰霊碑を設立し収骨慰霊を毎年おこなっていた

舩坂弘は帰国後、常にあの過酷な状況でなくなっていった仲間たちのことを忘れることはなかったようです。戦場となり多くの仲間たちが散っていったアンガウル島に、彼らの魂を鎮めるための鎮魂を目的とした慰霊碑を建立しています。そして自らの体験を元に多くの著書を執筆、その印税でグアムやペリリュー、コロールなどの島にも慰霊碑を建立しているんです。

慰霊碑を建立した後はその印税を自ら使うことはなく、「世界の人々のために」と全て国際赤十字に寄付。書店経営、書籍の執筆など多忙な生活を送っていたものの、毎年アンガウル島で収骨慰霊をおこなうだけでなく、パラオ諸島の原住民に支援もしていたんです。

彼の生きざまを知っている人からは『生きている英霊』と呼ばれていましたが、2006年2月に、じん不全によって85歳で亡くなられています。

舩坂弘が登場する漫画

歴史に登場する偉人達をテーマにしたり、キャラクターのモデルにする漫画や小説は多いですが、舩坂弘をモデルとした漫画があるのをご存じでしょうか?

『リィンカーネーションの花弁』という作品では、主人公を含め登場するキャラクターが、歴史上に登場する偉人たちの能力を使用し戦うのですが、主人公サイドにいる舩坂弘があのルーデルと戦うんです!

さらにこの作品では、犯罪史上に名を残した連続殺人鬼などの能力を持つキャラクターも登場します。 興味のある人はぜひ読んでくださいね。

まとめ

日本で最強、そしてチート軍人とまでいわれている舩坂弘。生還する確率がほぼゼロに等しいアンガウル島での戦いで、彼の体験したことは精神的にもかなりの苦痛を強いられるものだったに違いありません。それでもなお国を思い敵に一矢報いようとする姿は大和魂そのものですね。

あまり知られていませんが舩坂弘以外にも海軍の藤田信雄や陸軍大将だった今村均など、日本人でも外国人から畏怖されていた軍人はいますが、ここまでボロボロになりながらも驚異の回復力を持つのは日本軍の中では舩坂弘だけでしょう。

今回は軽く解説しましたが当時の状況やより深い話を知りたいのであれば、彼の著書を読んでみることをおすすめします。

オカルトオンライン編集部

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