謎多き本能寺の変はどの説が有効?3つ説を紹介

第六天魔王として名高い織田信長が、家臣の明智光秀により討たれた「本能寺の変」を知らない人は少ないと思います。

義務教育を受けていく間に一度は学ぶ内容であり、未だに漫画家やドラマ化もされるほど人気な事変となっています。

しかし本能寺の変は単に明智光秀の裏切りだけでなく、様々な思惑が入り混る謎が多い事変としても有名なことを知っているでしょうか?

本記事ではそんな本能寺の変の謎を解く有効な説などを紹介していきます。

公開日:2019年11月8日 更新日:2020年3月15日

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なぜ謎が多い?

織田信長といえば横暴な態度や人を容赦なく切り捨てる面があり恐れられていた人物でしたが、同時に圧倒的カリスマ性により多くの家臣に支えられていた人物でもありました。

では

『なぜ明智光秀は織田信長を討つことを決めたのか。』

ここが本能寺の変において最大のミステリーとなっています。

多くの人は「中国攻め」で毛利輝元との全面戦争を起こそうとした信長を殺すために明智光秀が「反旗を翻し」守備の薄かった本能寺へ討ち入りをしたと考えていると思いますが、実際は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の対応などをみると疑問に浮かぶ点もあります。

また討ち取ったはずなのに信長の遺体が出てきていないなどの点もあり、本来であれば見つかっていなければおかしいはずです。

50を超える説がある

本能寺の変の真相については50を超える説があり、どれも興味深い説ではありますが決定的な証拠は見つかっていません。

しかし中には正解が隠されているかもしれませんので、個人的に有効だと思える説を紹介します。

豊臣秀吉の策略?

豊臣秀吉が仕組んだ策略という説は有名でありフィクションでも多く取り上げられている内容となります。

光秀が信長を討ったころ秀吉は毛利軍と戦うために中国地方へ進軍していました。

しかし途中で信長が討たれたという急報が入り、急遽毛利と講和を結び613日に山崎の戦いで光秀に大勝を収めています。

ここで注目してほしいのは迅速に毛利との講和を結んだこととその後秀吉は天下人になったことであり、聡明であった秀吉が天下統一のため仕組んだことではないかということです。

残念ながらこの説は全く証拠がないため仮説にしかなりませんが実際この説が本当だとしたら関わった人はほとんど殺されていると思いますし、重要な文献も焼き払われていると思うので完全否定はできない説となります。

明智光秀の独断

これは確信を得ている説ですが、明智光秀が長年抱いていた信長への不満を晴らすためや成り上がるために守備の薄い本能寺で信長を討った説です。

信長を確実に討てる機会など「無い」に等しいほど信長は注意深い男であり、多くの家臣や敵が暗殺などを実行してきましたがことごとく失敗に終わっています。

なので本能寺という逃げ場のない場所にいる状態をチャンスと考えた光秀が思い立って討ち入りしたのではないかという説は現実味があります。

しかし肝心な信長の遺体を回収できていないなどの不備があり家臣たちをまとめることができないまま秀吉に討たれてしまっているので、事実を裏付けることができる証拠は出てきていません。

足利義昭が黒幕

元々光秀は足利義昭の元に仕えていた幕臣であり、足利義昭は信長を討つため様々な策略を実行していましたが失敗している状況にありました。

なので優秀な光秀を信長のもとに送り込み密かに討つチャンスを狙わせていた、という説です。

そんなの空想だ」と思われる内容ではありますがこの説を唱えた人は日本史を専門とする大学教授で、様々な事実を裏付ける証拠を公表しており、かなり現実味を帯びています。

・足利義昭は幕府を岡山に作り毛利輝元を副将軍にしている

・光秀は長宗我部や本願寺などと連絡を取っていた

・義昭の復権を記した光秀の書状があった

上記が裏付けとなる理由であり(他にもあります)、真実であれば足利義昭が首謀者と言っても過言ではありません。

もっとも完璧な証拠はありませんのであくまで数ある説の一部ではありますが。

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