三国志時代の始まる約400年前、中国の覇権を争ったのが項羽と劉邦の2人でした。
秦という初めての統一王朝を倒し、約400年間続いた漢の国を築いたにも関わらず余り華やかなイメージがないのが劉邦です。
後に、三国志での大スターである劉備が、その子孫を名乗って旗揚げしたことは有名ですが、劉邦自身がどういう人物であったのかを知っている人は意外と少ないです。
物語として描かれる劉邦は、劉備と同じく人徳の人であったと言われていますが、実際の行動を見ていくとかなりの自由人であったことが分かってきます。
そこで今回は漢という大きな帝国を築いた高祖、劉邦について紹介していきます。
画像引用元:劉邦
劉邦は若い頃からいわゆる侠客として遊び歩く生活をしていました。
実家の仕事を継ぐということもなく、酒を飲み、女を追いかけるという典型的な遊び人です。
しかし、劉邦は人柄が好かれていたため、飲み屋などに劉邦が居るだけでその店が繁盛するなど、多くの人から慕われていたようです。
後に劉邦が皇帝になるために活躍した蕭何(しょうか)は、この頃からの付き合いがあったのです。
劉邦は当時「竜顔(りゅうがん)」と呼ばれる人相をしており、さらに太ももに吉数である72個のホクロがあったとも伝わっています。
中年になるまで特に大きな勉学などをした経験もなかったですが、当時の沛県に移って来た呂公という有力者にも、その人柄を評価され、娘である呂雉(りょち)を妻に娶ります。
既に子供が2人いましたが、特に仕事を真面目にしていたわけでもなく、陳勝・呉広の乱に乗じて沛県の代表に押し上げられて2千から3千の軍勢を引く軍人となりました。
劉邦は各地で転戦していたものの余り成果を大きく上げることが出来ないまま、劉邦は同郷の人物に裏切られて故郷の豊を一時的に失います。
この豊を再び取り戻すことには成功するのですが、この時に劉邦の配下に入ったのが、秦の時代に韓の国の人物であった張良でした。
あろうことか、張良は始皇帝の生存中に暗殺未遂を起こしたことでも知られています。
暗殺は失敗し、自らも兵を集めようとしたものの、数がほとんど集まらないという状況の中、陳勝・呉広の乱の発起人であった陳勝が戦死し、その後に楚の公人であった景駒が楚王として後釜を埋める形になっていました。そこで、張良は景駒の配下になろうと向かっていたところで同じく兵を借りに来ていた劉邦と出会います。
張良の献策は劉邦にとって大きく有利に働き、後に三傑の1人として名を残す軍師・張良をこの頃に配下に受け入れたのです。
張良は既に何人かの反秦連合の大将と会っていたと言われていますが、誰にも用いられることはありませんでした。
しかし、劉邦はそもそも軍人ではなかったこともあり、素直に張良の献策を実行し、それによって大きな戦果を挙げていくことになります。
[char no=”1″ char=”オカルトマト”]劉邦の素人さが逆に良い方向に働いた、もっとも顕著な例だと言える出会いですね[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]それだけ劉邦が素直な人物であったことは良く分かるなあ[/char]この時期に、楚王を名乗った景駒に問題が発生します。
劉邦は景駒の手伝いがあって兵力を伸ばしていたのですが、肝心の豊を攻め落とすことが出来ませんでした。
そして、後の宿敵となる項羽の叔父、項梁と景駒の間に争いが起きてしまうのです。
北上してきた項梁は楚の大将軍、項燕の正当な血筋であり、勢いも圧倒的でした。
これを悟った劉邦は、景駒と戦って敗走させた項梁の配下になり、軍を任されるようになります。
項梁は反秦の盟主として懐王を擁立し、ここから同じ配下として既に力を持っていた項羽と劉邦は争うように反秦の戦いを始めます。
懐王を盟主とした反秦連合軍の中で、もっとも苛烈な戦いをしたのは項羽でした。
秦軍最大の難敵であった章邯によって実質的な反乱軍の盟主であった叔父の項梁が殺されていたことも相まって、項羽は20万を率いていたと言われる章邯と戦って勝利します。
章邯は腐敗した秦の中でもほぼ唯一残っていた武将であり、反秦連合にとって大きな壁になっていました。陳勝・呉広の乱の際に、陳勝を敗走させたのも章邯だったのです。
その一方。。
劉邦は関中を目指して進軍しますが、張良の献策によって多くの場所で無血開城させることに成功します。
各地に反乱軍が起こっていた段階で、既に秦の国に力は残っておらず、むしろ秦からの開放を望んでいる人々も多かったのです。
秦軍とまともにぶつかりあっていた項羽を尻目に、劉邦は先んじて咸陽に到達し、さらに後を追って関中に入ろうとした項羽を拒絶します。
これに大激怒した項羽は、劉邦に攻撃しようとしますが、これに慌てた劉邦は急いで項羽の叔父を通じて項羽を招き入れて、酒宴を開き、和睦することになります。
[char no=”1″ char=”オカルトマト”]この時のエピソードは「鴻門の会」として語られていますが、創作である可能性も指摘されています[/char] [char no=”2″ char=”すぱもん”]史実として間違いないのは、劉邦が項羽に完全敗北を認めたことだね[/char]項羽によって、秦の息の根が止められた後は、項羽が主体となって反秦連合の将軍たちに土地などを分け与えます。
この時、立場的には圧倒的に項羽が上であったものの、劉邦にも功績があったことから、恩賞を与えない訳にはいかなかったのです。
そこで、劉邦を当時は辺境の地とされていた蜀、漢中の王に封じます。
奇しくも、400年後、沛県から立身出世した劉備と同じく、蜀の地にまずは身を置くことになるのです。
しかし、この頃の劉邦の軍は乱れつつあり、辺境の地が嫌で逃亡兵も多数発生します。その中にいたのが、劉邦にとって武の要となる大将軍韓信でした。
韓信も一時は劉邦を見限りかけるものの、蕭何によって引き止められ、劉邦はそれまでの推挙に見向きもしなかった韓信を大将軍に引き上げます。
結果から見れば、韓信の活躍によって項羽と劉邦の争いは決着に至るのですが、その詳細については韓信の記事をご覧下さい。
韓信を採用したことによって、中央で戦う準備が整い、西楚の覇王を名乗った項羽との決戦に向かうことになります。
韓信の献策を採用した劉邦は、今度は反項羽の連合軍を結成することに成功します。
項羽は力で支配力を高めていった結果、諸侯の反感を買っており、これを契機に多くの諸侯は劉邦の勢力に味方することになります。
劉邦と項羽が相対した時には劉邦軍は総勢56万と言われる大軍になり、項羽の軍勢は北上して遠征から引き返した3万の軍勢だけでした。
圧倒的な軍勢を持っていた劉邦でしたが、なんとここでは項羽の軍が劉邦の56万の軍を蹴散らして勝利します。
一説によると、劉邦がこの戦いで集めていた56万の大軍にはなっていたものの、項羽への反感だけでまとまりがなかったことから、項羽の突撃によって散り散りにされたと言われています。また、あまりにも軍事力に差があったため、攻め上がっていた劉邦軍は日夜宴会に明け暮れており、油断しきっていたとも言われています。
いずれにせよ、56万もの反項羽勢力は解散することになり、劉邦は一時的に撤退を余儀なくされます。
さらに、反項羽派として集まっていた諸侯の中からも項羽につく人物が続出したために、劉邦は深く反省し、再起のタイミングを伺います。
一度は撤退した劉邦たちは、再び項羽を追い込むために、二手に分かれる作戦を練ります。
これによって劉邦は直接項羽と対決し、その間に韓信が周囲の城や砦を落としていくことになります。
韓信はここでも大躍進し、70以上の城や砦を落とし、項羽と劉邦に並ぶほどの勢力まで拡大していきます。
斉の国まで支配下においた韓信は、項羽からも一目置かれる存在となりますが、劉邦を裏切ることはありませんでした。
項羽と劉邦は長い期間の戦いを経て、お互いに休戦協定を結びます。
祖国に帰ろうとした項羽の背後を打つように劉邦は協定を破棄して進軍し、韓信にこれに参加するように呼びかけます。
一度は韓信に無視され項羽軍に追い詰められるも、韓信がようやく30万の大軍を引き連れて合流したことによって項羽は追い詰められ、自決してしまいます。
武力や勢力では大きく勝っていた項羽は、劉邦のだまし討ちと韓信の忠義心によって敗北してしまいます。
こうして劉邦は中国を統一し、何も持たない身分から漢の国の初代皇帝として君臨することになったのでした。
劉邦の評判は歴史家によって様々な解説がありますが、多くの場合は人徳によって項羽を制した儒教的な考え方で評価されることが多いです。
しかし、項羽に追い詰められて逃げる際に、妻子を馬車から降ろし、これを蕭何が諌めるとこれを怒ったという逸話が残っていたり、皇帝となった後には最大の功臣であった韓信を冷遇してしまい、反乱を招いたりもしています。
劉邦自身も三傑がいなければ自分の天下はなかったと語っていたということから、自由な行動が逆に功を奏する結果となり、多くの臣下に支えられて皇帝になれた人物であったのかも知れません。
しかし、これらの臣下が劉邦に魅せられたこともまた事実であるので、単純に運が良かっただけの人物とも言い難いところです。