渡来人秦氏のルーツが秦帝国の末裔説を史記から考えてみた結果

秦氏の出自の候補について紹介した記事の中で

渡来人秦氏のルーツ説の1つは秦国の王朝時代の人間や秦国の末裔だった

ということについて簡単に述べてきました。以前の記事の詳細は以下のリンク先をご覧下さい。

前回の記事は以下よりご覧下さい。秦氏連載シリーズ・渡来人秦氏はどこから来て何を残したのか?稲荷信仰の祖とルーツ謎の渡来人である秦氏の一族は一体どこから日本へやってきたのか? 今回はこちらの謎に迫って行こうと思います。公開日:2019年11月4日 更新日:2020年3月8日秦氏はどこから日本へ渡ったのか?元は海外から日本へと数多くの文化と文明を持ち込み、後に日本人としての勢力も築いたとされる秦氏一族ですが、その渡来した方法については数多くの説があります。さらに日本に来る以前の秦氏としてのルーツに関しても...
秦氏はどこから日本へ渡ったのか?【連載:秦氏と稲荷信仰の謎に迫る】第2話 - オカルトオンライン|都市伝説・オカルト・怖い話・心霊スポット

上記記事では、大まかな説をいくつか簡易的にピックアップしたものでした。

そこで、今回は史記などに記述された内容や、日本に残る伝説などを含めて考察していこうと思います。

渡来人秦氏と秦国の関係について

画像引用元:徐福

秦氏のルーツの1つとして、よく挙げられる東方へ不老不死の薬を探しに行ったとされる徐福という人物は、史記にも記述されていることから、おそらく実在した方士だったのでしょう。

古代中国の方士とは?

始皇帝の時代に存在していた「方士」という職業は、当時の中国にあった「神仙思想」と呼ばれる学問を生業としていた人物達の総称です。簡単に言うと、方士になりその道を極めた者は「人間を超える寿命と力」を持つ仙人や神に近い存在になれると信じられていた風習です。しかし、実態として多くの方士は金銭などを目当てにしたインチキや詐欺師であったとも言われています。

さて、この方士を名乗っった徐福は始皇帝に対して不老不死の薬の在り処を聞かれ、その場所を知っていると答えた人物でした。

徐福は中国本土から東方へ向かった先にある三神山という場所が当時は神聖視されていたため、この場所に行けば不老不死の薬を入手出来ると始皇帝に答えます。

そのために貢物が必要であることを説き、始皇帝から人、財を預かって東方へ船出をしたことが史記にある徐福の姿です。

徐福のその後は2つの通説がありますが、いずれの説でも始皇帝の元には戻らなかったとされてます。

そして、日本にはいくつかの地域で徐福の伝説が残っているのも事実です。

日本でもっとも有力な場所は当時の熊野(現在の三重県熊野市)に辿り着いたとされているもので、徐福ノ宮という徐福を祀った神社まで存在しています。

また、この地域からは秦の時代に使用されていた貨幣が出土していることから、徐福の到来に真実味を深めているのです。

一説によると、徐福は3000人の童の男女と財宝を持って船出したとも言われていますが、日本に残る史書である日本書紀などにある秦氏のルーツとされる記述とは時代的にも辻褄が合いません。

徐福が日本に来た可能性は充分にありますが、その後の秦氏に続くかどうかは確証が得られないのです。

秦氏一族は始皇帝の末裔だったのか?

秦氏の性である秦は秦の国から取ったものであるという説や、平安時代に残された書物などに残された記述によると、秦氏は始皇帝の末裔という説があります。

しかし、始皇帝の死後の動きを見ると、そもそも生き残りが存在したかどうかすら怪しいのです。

確認されているだけでも多くの子がいた始皇帝ですが、始皇帝の死後、宦官の趙高によって帝位は乱され、秦の統一はわずか15年ほどで瓦解します。

始皇帝の末子であった胡亥は二世皇帝に即位しましたが、この時、血縁関係にあった兄妹合わせて22名を殺害しています。

史記の李斯列伝に語られている始皇帝の子は20人以上と言われていますが、末子であった胡亥が処断したのは、おそらく後継者問題に発展させないためです。

さらに、胡亥は趙高の操り人形でもあったため、始皇帝の孫であったと言われる子嬰が秦国の最後の皇帝になります。

この時、台頭してきたのは東の楚の国から秦の支配へ反旗を翻した項羽と劉邦です。

最初子嬰は趙高を殺して、劉邦に降伏したことで生き延びますが、後に項羽によって一族もろとも殺されたとされています。

おそらくですが、男児として残った血筋の人間は全て項羽の侵攻によって滅ぼされていたのではないでしょうか?

秦氏のルーツとして可能性があるとすれば、数が正確に分かっていなかった始皇帝の娘の血筋です。

秦氏が日本に渡来人として渡ったとされるのは、いくつかの文献で共通している西暦400年頃ですが、始皇帝は紀元前の人物です。

さらに、劉邦が興した漢王朝もその頃には衰えており、始皇帝の末裔が何千人もの人間を連れて三国時代の前後に日本へ渡ったと考えるのは現実的に難しいでしょう。

まだ、徐福の日本到来説の方が、可能性としては高いですかね。

加えて、徐福ノ宮という神社があることは少し秦氏の関連を匂わせるポイントでもありますが、秦氏が力を持っていたと言われている京都周辺との地理関係を考えると、判断しきれない部分でもあります。

徐福の子孫が後の秦氏であれば真相を明かすことは難しい

徐福の子孫=秦氏だと考えるとすると、何か史料が欲しいところですが残念?ながら当時の日本はまだ縄文時代です(笑)

古墳などが大きくなったのも弥生時代以降であったことを考えると、徐福と秦氏の繋がりを根拠として挙げられる史料は今後も発見されることはほぼ無い可能性の方が高いでしょう。

特に、大化の改新前後の日本は、仏教擁護派と排除派によって大きな争いが起こっており、2つの王朝に天皇が居たという非常にカオスな時代でした。

これらの騒乱の中で、それまで残っていた史料なども多く失われたとされていることから、秦氏=徐福の子孫説を明確にすることは不可能に近いですね。

それでも、秦の時代の貨幣が出土している事実などを考えると、紀元前に渡来人として徐福が日本へたどり着いた可能性は充分にあるのではないでしょうか?

また、徐福の奇説としては徐福がユダヤ人であった説なども唱えられており、謎は深まるばかりです。

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オカルトマト

■2019年秋、オカルトオンライン開設 ■2019年11月、副編集長就任 ライター、Web業務歴6年。 映画とマンガと本によってオカルト脳になった人。 分からないことを知るのが喜び。 だがしかしホラーは苦手。 古代史、人物研究、神話が好みです。