今回紹介するのは「佐賀女性7人連続殺人事件(別名:水曜日の絞殺魔事件)」です
この事件は1975年から1989年までの間で佐賀県の女性7名が殺された事件です。
そのうち6人の女性が水曜日に失踪をしていることから「水曜日の絞殺魔事件」とも呼ばれているのです。
1989年に3人の女性が遺体で発見された殺人事件は「北方事件」と呼ばれている。
しかし、いずれの事件も無罪判決が出ており結果的にすべて未解決事件となってしまっています。
1件~4件に関しては起訴されずに公訴時効が成立しています。
今回はそんな「佐賀女性7人連続殺人事件」について解説していきます。
1975年~1989年にかけて佐賀県の北方町、白石町、北茂安町、武雄市の半径20kmの地域で7件もの女性殺人事件が発生しました。
この事件にはいくつかの共通点があるのです。
・被害女性の失踪が水曜日に集中している(7件中6件が水曜日だった)
・失踪の時間帯が夕方から夜にかけて
・5件の死因が絞殺である(残り2件の遺体は白骨化してしまい死因不明)
4件目の事件では犯人を起訴することができずに公訴時効が成立してしまい、残りの3件は起訴できたものの裁判で無罪が確立してしまったため、計7件は未解決事件となってしまいました。
1975年8月27日(水曜日)
北方町に住む当時中学一年生であった「山崎十三子」さんが、一人で留守番していた自宅から突然失踪。
いつも履いている靴のみが残されていたのです。
そして5年後の1980年6月27日に白石町須古小学校プール横トイレの便槽の中で遺体として発見されました。
遺体の上には遺体を隠そうとした痕跡(遺体の上に丸い石を100個ほど積んであった)が残っていました。
1980年4月12日(土曜日)
杵島郡大町町に住む当時20歳のHさんが1人で留守番中に自宅から失踪。
抵抗した後も見られず、顔見知りによる犯行ではないかと推測されました。
この女性は今までに2度も自殺未遂をしており、20歳の誕生日を迎えたら自殺すると漏らしていたそうです。
失踪から4日後に山崎さんの父親宛に手紙が届きます。
娘ハ帰ラナイダロウ、オ前モ苦シメ
ちょうど同じころに「人捜しのテレビに出るな」という脅迫の電話もありました。
そして約2か月後の1980年6月24日に衛生会社のし尿のくみ取り作業中に、第一事件と同様の白井石町須古小学校の北川校舎のトレイ便槽内から遺体で発見されました。
1981年10月7日(水曜日)
杵市郡白石町に住む縫製工場勤めの池上千鶴子さん(当時27歳)が勤務後の午後5時半ころに失踪。
失踪前はスーパーで買い物をしており、最後に目撃されたのはスーパーの駐車場でした。
乗用車に乗った三十代の男性と親しげに話しているところを同僚が目撃したそうです。
そして1981年10月21日に40km離れた三養其群中原町の空き地で、電気コードで絞殺された姿で発見されました。
なお、この女性の身体には性的暴行された後はありませんでした。
1982年2月17日(水曜日)
北茂安町の小学校5年生西山久美ちゃん(当時11歳)が下校途中に何者かに首を絞められ殺害されていました。
翌日午前11時半ごろ、北茂安中学校体育館北側の町道脇のミカン畑の中で、ランドセルを背負った状態で久美ちゃんの遺体が発見されます。
遺体の状態はうつぶせに寝かせられており、下半身は裸、首にはストッキングが巻き付けられてあった。
久美ちゃんが殺害される前に、車に乗った怪しい男が何度も目撃されていました。
1987年7月8日(水曜日)
武雄市の温泉街にある老舗割烹に勤める藤瀬澄子さん(当時48歳)が失踪します。
仕事終わりに勤務先の近くのスナックへ行き1時間ほど過ごしたそうです。
店を出た後に澄子さんは「知っている人が良く来る店があるからもう一軒行こう」と誘ったが、同僚は電車の時間もあるためその誘いを断りその場で解散しました。
その後、澄子さんは自宅までの1kmの間で行方不明となりました。
そして1989年1月27日に北方町大峠の崖下で白骨化した遺体で発見されました。
1988年12月7日(水曜日)
北方町の主婦中島清美さん(当時50歳)がミニバレーボールの練習があると家族に伝え外出しそのまま行方不明になりました。
失踪から1週間たった昼頃に自宅に謎の中年男から電話があったそうです。
そして1989年1月27日北方町大峠の崖下で遺体で発見されます。
1989年1月25日(水曜日)
北方町の会社員吉野タツ代さん(当時37歳)が失踪します。
1989年1月27日に北方町大峠の崖下で遺体として発見されます。
1989年11月別の事件で拘留されていた男が任意の取り調べで犯行を認めるような供述をしていたが、すぐに否認を始めたのです。
2002年6月11日、県警は刑務所に服役中の男を「7人目の殺人」の容疑で逮捕します。
さらに、同年7月2日に「5人目の殺人」の容疑で逮捕し、7月9日には「6人目の殺人」で逮捕します。
そして、「5人目の殺人」の時効が成立する6時間前に起訴します。
2002年10月22日からはじめった公判で、検察は死刑を求刑しましたが、物的な証拠がないことや上申書の証拠価値の無さなどにより無罪が言い渡されたのです。
その後すぐに控訴したが、再び無罪を言い渡されます。
2審では検察が新たな証拠としてミトコンドリアDNAの鑑定結果を提出するが、証拠としては認められなかったのです。
その後、男の無罪が確立し、1~4人目の殺人事件についても公訴時効が成立し未解決事件となってしまいました。
いかがだったでしょうか?
今になっては時効が成立して未解決になってしまっているため、この事件の犯人が何の目的でこの犯行を行ったかは不明のままです。
そして、この事件の不気味なのは各殺人事件で共通点がいくつもあるということです。
もしかしたら、この共通点こそ事件の解決の鍵なのかもしれませんね?