今回紹介するのは、1984(昭和59年)と1985年(昭和60年)に大阪(阪神)にて食品会社を標的とした脅迫事件です。
この事件は、警視庁広域重要指定114号事件であり、犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、「別名:かい人21面相事件」とも呼ばれています。
2000年にはすべての事件の公訴時効が成立し完全犯罪と化しました。
警視庁広域重要指定事件では初の未解決事件となったのです。
1984年3月に、グリコ社長を誘拐し、身代金を要求したことを皮切りに、長崎グリコに対して脅迫や放火を起こしました。
その後、マルタ食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋などの食品企業を狙い脅迫などを繰り返しました。
現金の受け渡し場所を何度も変更するように要求したのにもかかわらず、犯人は一度も引き渡し場所に姿を現さなかったのです。
それらしき人物が何度も目撃されているのにもかからわず、逃げられてしまったため結局正体はわからず仕舞いになってしました。
この「グリコ・森永事件」で10通りの事件が起きてたのです。
1984年3月18日21時、長崎グリコ(以下グリコという)社長が実母宅に拳銃と空気銃を持った二人の男が押し入り、入浴中であった社長を脅し全裸のまま誘拐。
後日19日の1時ごろ、グリコ取締役宅に犯人と思わしき男から現金10億円と金塊100kgを要求する脅迫状が届く。
しかし、警察は疑問を抱きます。
身代金である10億円は高さ9.5メートルであり重さは130kg、金塊の100kgに関しては運搬が困難だったのです。
それだけではなく、警察が犯人が指定した場所に行きますが犯人はその場には現れなかったのです。
そして、事件から3日後グリコの社長は自力で脱出したのです。
そして再び何度も現金を要求する脅迫状が届きますが、犯人はまた姿を現さなかったのです。
それから数日。
長崎グリコゆるしたる。
・・・中略・・・
ヨーロッパへ行く。来年1月に返ってくる
と国外逃亡を示唆していたが、
警察がうるさくていけなかった。もう一仕事してから行くつもりだ
とここで、脅迫終息宣言をしました。
そして、4月10日グリコ本社にて放火事件が発生しました。
出火直後には帽子を被った不審な男がバックを抱えて逃げるのが目撃されていました。
長いため非常に簡潔にまとめました。
これが長崎グリコ事件の一連で、大まかに分けて誘拐・脅迫・放火の事件が多きていtのです。
1984年5月10日毎日新聞と読売新聞、産経新聞、朝日新聞の計4社にかい人21面相から挑戦状が届きます。
「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた
さらに、挑戦状を全国にばらまくとも予告しており、この挑戦状の終わりにはこう一言綴られていました。
グリコを たべて はかばへ行こう
この事態を受けて大手スーパーはグリコ製品の撤去を始めたのでした。
1984年6月2日、寝屋川市にて商事会社に勤める男性とその恋人が車でデートをしていました。
しかし、20時過ぎ頃、停車中に3人の男に襲われます。
男性は元自衛隊でしたが、3対1では何もできずに、無抵抗になるまで殴り続けられました。
そして、犯人の1人は女性を連れ去り、もう2人の犯人は男性の車に乗せグリコ脅迫事件で指定されたレストランの近くまで運転しないと女性の命はないと脅迫されます。
そして、犯人の指示に従い、指定の場所まで運転をします。
指定場所からは違う車に乗って別の指定場所まで運転するように指示されます。
一方のその頃女性は、21時半頃車から降ろされ、タクシー代として2000円を渡されたそうです。
そして翌日の未明、男性の車が寝屋川市の神社の参道で乗り捨てられているのを発見しました。
事件後、この男性は犯人と誤認され身柄を確保されましたが、事件とは無関係と判断され放免されました。
1984年6月22日、大阪府高槻市のマルタ食品に脅迫状が届きます。
グリコと同じ目にあいたくなかったら、五千万円用意しろ
犯人はこの取引に応じる合図を新聞のパート従業員募集の新聞広告に掲載するように求め、高槻市の常務宅に現金をボストンバックに入れて待機するように要求します。
1984年6月28日犯人から女性の録音で指定場所に来るように指示されます。
当日になり、刑事が社員になりすまし指定場所に行きます。
しかし、刑事は犯人側の指示に従わなかったのです。
刑事はキツネ目の不審男を警戒し、そして不審な男を発見します。
しかし、刑事はグループを一網打尽にする方針を取っていたため、逮捕権限は与えられていなかったのです。
結果、キツネ目の男を取り逃がしてしまったのです。
7月にもマルタ食品の取締役宅に現金を要求する脅迫状が届く。
その脅迫状は子供の声が録音されているものでした。
しかし、指定の場所には犯人は現れませんでした。
1984年9月12日、大阪の森永製菓関西販売本部に脅迫状が届きます
この脅迫状と共に青酸入りのお菓子が同封されていました。
グリコと同じめにあいたくなければ、一億円出せ
要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く
この脅迫状と共に青酸入りのお菓子が同封されていました。
真偽は定かではありませんが、グリコは犯人グループに6億円を支払ったと書かれていました。
9月18日には子供の声で現金の受け渡し場所を指定した内容の録音が送られてきました。
その後指定の場所へ向かい現金を置きますが、犯人は現れませんでした。
1984年10月7日~10月13日にかけ、大阪、兵庫、京都、愛知のスーパーやコンビニから不審な森永製品が相次いで発見されました。
どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相
と書かれた紙が森永製品に置かれており、青酸ソーダが混入されたお菓子が12個も発見されたのです。
その後森永製品を置かないように要求する脅迫状が届きます。
わしらに さからいおったから 森永つぶしたる
10月15日、NHK大阪放送局が青酸ソーダの錠剤を送りつけられた。
宛先は「刑死ちょう そうむ部きかく課長」と記されていました。
1984年11月7日、ハウス食品総務部長宅に脅迫状が届きます
内容は現金1億円を要求するもので、受け渡しは京都市のレストランを指定してきました。
別の脅迫状の中には青酸ソーダが混入されたハウスシチューが同封されていました。
そして、1億円の車を積んだ車を待機させましたが、犯人からの幾度かの場所変更指示により色々な場所に向かいました、
しかし、最終的には犯人は姿を現さなかったのです。
11月19日、ハウス食品課長の元に脅迫状が届きます。
今は森永を相手にしており、暇になったら連絡する
と事実上脅迫休止宣言を受けたのでした。
1984年12月7日、不二家の労務部長宅に脅迫状が届きます。
脅迫状にはテープと青酸ソーダが同封されていました。
12月15日、再び脅迫状が届きます。
12月24日に大阪梅田の百貨店屋上から2000万円をばらまくことを要求
不二家はこの指示には従いませんでした。
事件発生直前、アマチュア無線にて、「不二家はやっぱり金はらわんちゅうとんのけ」「不二家はあきらめたほうがええわなこりゃ」と21面相と玉三郎を名乗る男の無線が傍受されました。
1985年バレンタインデー直前の2月13日、報道機関に挑戦状が届きます。
これと前後して、東京と愛知で「どくいり きけん」とラベルに書かれて貼られている青酸入りチョコレートが相次いで発見されます。
青酸が入っていないものには「どくなし あんしん」と書かれていたのです。
脅迫の対象になったのは、グリコ、森永、不二家、明治製菓、ロッテ、のチョコレートであったのです。
1985年森永製菓へ脅迫を終結さえる休戦状が届きます。
その直後3月6日に和歌山県の老舗和菓子子会社の駿河屋に5000万円を要求する脅迫状が届きます。
しかし、犯人から受け渡しを延期する旨の通告が届き、それ以来犯人からの連絡はなかったのでした。
実はハウス食品事件の際に当時の刑事が不審車両を取り逃がしていました。
その刑事は滋賀県本部長で自身の退職の日に本部長公社の庭で焼身自殺を遂げたのです。
一般的には失態を苦にしていたと解釈されていますが、一部ではすべての失態の責任を負わされたことに抗議するためだともいわれています。
8月12日犯人から手紙が届きます。
くいもんの 会社 いびるの もお やめや
この理由としては、5日目に自殺した滋賀県警本部長への香典代わりというものだった。
この終息宣言後、完全に犯人の動きはなくなったのでした。
いかがだったでしょうか。
これが日本最大の未解決事件「グリコ森永事件」の全容です。
今とは違い、捜査の仕方や技術等も発展していないため解決に至らなかったともいわれています。
しかも、すでにこの事件は時効を迎えているため、犯人はもう捕まることもありませんし、もしかしたら亡くなっているかもしれませんね。