大東亜戦争・・・太平洋戦争と呼ばれる第二次世界大戦・・・日本は大国、アメリカと戦い敗戦したわけですが、この戦いの中では特攻隊や人間魚雷などの悲しい戦いが繰り広げられたくさんの尊い命が失われました。
そして、空襲や原爆などで一般市民も巻き添えになった・・・ということは、みなさんもご存じだと思います。
今回、ご紹介するのは、カウラという場所で日本兵が集団脱走し命を落とした事件・・・なぜ彼らは脱走を試みたのでしょうか。
カウラは、オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州カウラという場所・・・ここには、第二次世界大戦のときに捕虜収容所がありました。シドニーから西250kmに位置するこの場所に立てられた収容所には、イタリア人や日本人、インドネシア人の捕虜が収容されていました。
この捕虜収容施設では、日本兵が集団脱走を試み235名の死者と、108名日本人負傷者を出した史上最大規模の集団脱走事件がありました。
なぜ彼らは逃げ出したのか・・・捕虜収容施設は厳重に警備されていますから、脱走を試みることは命がけ・・・例え死んだとしても逃げ出した方がましと言うほどの酷い環境だったのでしょうか。
日本兵が逃げ出したカウラ事件が起こった捕虜の収容所ですが、捕虜の扱いが酷かった・・・というわけではありませんでした。
運営は捕虜側による自治が認められていて、捕虜はトマトやブドウの栽培、薪のための木材の伐採などの農業をしていました。環境はとてもよく、オーストラリア軍は負傷者や栄養失調者を手厚く看護して、治療を施し食事を与え、そして、野球や相撲、麻雀もできたそうです。リクリエーション活動は自由で野球のバックネットを運動場に建てている写真も残っているそうてず。
つまり、食事が貰えなかったとか、虐待されたというわけではなく、捕虜として収容されているものの、環境は決して悪くなかったのです。
実は、この時代には傷病者の状態改善に関する赤十字条約というジュネーブ条約が存在しており、オーストラリアはこの条約に基づいた施設の運営をしていたのです。
決して悪くない環境での捕虜生活・・・中で暮らしていれば、命を落とすことはまずないという状態であったことが解ります。
ですが、日本兵は集団で脱走したのです。これには、当時の日本軍にとって「捕虜となることは不名誉だった」ということです。
イタリア人捕虜は家族に手が書いていたそうで、決して捕虜となることは不名誉ではありませんでした。ですが、日本人捕虜は、さきほどご紹介したジュネーブ条約を理解しておらす、そして「生きて虜囚の辱めを受けず」という軍の方針を貫いたのです。
仮に捕虜となったあとで、帰国できても村八分にあってしまう・・・そうすれば家族に迷惑がかかるからと偽名を使っていた者もいたとか・・・。もちろんこれは外国と日本の文化の違い。ですが、この日本文化がこのときばかりは彼らを迷走させてしまったのです。
収容所での扱いがよけはれば良いほど、彼らは精神的に追い込まれていき良心の呵責に悩まされたのです。
「生きて虜囚の辱めを受けず」という考え方をしていた日本軍ですが、それでも集団脱走に反対する者もいました。
日本軍は多数決投票を行うためにトイレットペーパーに○と×を書いて決をとりました。脱走すれば撃たれるかもしれない・・・まさに命をかけた多数決でした。
脱走に参加しないというものは少数・・・そして、集団脱走が実行されたのです。脱走の前に足が悪く走れない者は自死を選び、自作のどふろくを飲んで最後の晩餐とします。
そして、1944年8月5日午前2時・・・バットやフォークを武器にして集団脱走を試みます。警備しているオーストラリア軍は機関銃・・・太刀打ちできるわけがありません。警備兵は「どうして脱走したのが解らなかった」といいます。
施設から脱走して民家にたどり着いた日本兵の中には、民家の住民からお茶でもてなされた者もいたそうです。
カウラ事件では、警備をしていたオーストラリア兵が4名なくなっています。このことで、軍法会議にかけられ重労働15か月の刑となりました。
オーストラリアのカウラにあった捕虜の収容所では、捕虜の扱いは決して悪いものではなく、おとなしく生活していれば生きて日本に帰れた可能性がありました。
ですが、ここに収容されていた日本兵は「生きて虜囚の辱めを受けず」という精神を貫き脱走を試みました。ジュネーブ条約を知らなかった・・・ことも原因ひとつと言えますが、日本兵は自分だけが良ければいいとは考えず、捕虜になってもなお日本に残してきた家族に思いをはせて命をかけて脱走したのです。
参考資料:中野不二男『カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットはなぜ死んだか』
Reading list – Cowra Outbreak オーストラリア戦争記念館サイト