「万能」
貴方はこの言葉を聞いて、どんな人物を思い浮かべますか?
これまでの歴史において、本当に多くの天才が現れてきました。
そしてその中でも、あらゆる分野・ジャンルで多大な功績を残した「万能の天才」といえば、イタリア・ルネサンス期に活躍した「レオナルド・ダ・ヴィンチ」でしょう。
『モナ・リザ』を描いた人として最も有名ではありますが、レオナルドが「万能の人である」という事実もまた、彼のことをよく知らない人でも一度は耳にしたことがあると思います。
この記事から始まる連載では、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を、彼が作り出した作品とその功績、またその時の彼の内面を考察しながら紐解いていきます。
まずは「万能の人」呼ばれることとなったきっかけが見つかる、彼の幼少期について見ていきましょう。
「レオナルド・ダ・ヴィンチ」
この名前から、「レオナルド」が名前で、「ダ・ヴィンチ」が姓と思っている方も少なくありません。
日本では、レオナルドより「ダ・ヴィンチ」と呼ばれていることも、その原因の1つですね。
実は、「レオナルド」は名前で合っているのですが、「ダ・ヴィンチ」は姓ではありません。
ダ・ヴィンチとは、イタリアの大都市・フィレンツェの郊外にある「ヴィンチ」という村のことを指しています。
つまり、レオナルド・ダ・ヴィンチとは、日本語に訳すと「ヴィンチ村のレオナルド」となるのです。
当時のイタリア、ひいてはヨーロッパは、身分が高い人しか姓を持つことができませんでした。
レオナルドの家系は、父親は社会的地位が高い仕事に就いていたのですが、
などの理由から、彼は地位の高い父親がいながら、姓を持つことができませんでした。
このことが、幼少期のレオナルドにつらい試練を与えた一方で、最高傑作とされる『モナ・リザ』を生むきっかけにもなった、と言われています。
果たしてレオナルドは、どのような子ども時代を過ごしてきたのか?
出生から、彼のミステリアスな部分を少しずつ解き明かしていきましょう。
レオナルドは、1452年4月15日の日没3時間後(現在でいう午後10時~11時の間)に生まれた、との記録が残されています。
彼の祖父が一家の帳簿に記録していたことから、これほどまでに正確な日時が判明しています。
ミステリアスな人物でありながら、ここまで正確に出生日時が分かると、彼も1人の人間なんだと再認識できますね。
レオナルドの父親と母親についても、それぞれ簡単に見ていきましょう。
彼の父は「セル・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチ」といい、職業は法的な文書を作成・承認する公証人でした。
「セル」とは身分の高い者に付けられる敬称であり、代々が公証人の家系であることから、レオナルドは地位の高い一家の長男として歓迎されるはずでした。
一方、レオナルドの母親は「カテリーナ」といい、農家の生まれとされていますが、名前以外の詳しいことは、今もなお一切判明していません。
先ほどご紹介した通り、、セル・ピエロとカテリーナは、正式な結婚をしませんでした。
セル・ピエロは、レオナルドが生まれた後もカテリーナを妻として迎え入れず、授乳期を終えた途端に他の男に嫁がせてしまいます。
こうしてレオナルドは、「母親との別れ」というつらい出来事を、まだ幼い子どもの頃に経験することになったのです。
また、婚外子として生まれたレオナルドは、充分な教育を受けることもできませんでした。
今でこそ、その名声は世界中に広まり、数々の才能と知性で今でも私たちを驚かせてくれるレオナルド・ダ・ヴィンチですが、実は裕福に育ったわけではなかったのです。
しかしながら、この母親との別れが、皮肉にも世界一有名な絵画『モナ・リザ』を生み出す一因となります。
レオナルドは、最期まで『モナ・リザ』を誰にも渡さず、手直しを加え続けています。
『モナ・リザ』に描いていた女性と、レオナルドが想う理想の母親像が重なったのでしょうか。
そんな母親に対する愛情が、晩年になって結実した作品が『モナ・リザ』なのです。
関連記事>>意外と知らない『モナ・リザ』の正体。最有力人物と5人の候補を紹介!
レオナルドの幼少期は、母親こそいませんでしたが、優しい祖父母に育てられ、自然に囲まれたヴィンチ村でのどかに過ごします。
ここで、レオナルドが生涯にわたって発揮してきた才能の、開花のきっかけを見つけることができます。
ヴィンチ村は、上の画像の通り、山々や森・川・畑などが広がる自然豊かな土地でした。
今の子どもも、木を見つければセミを探し、森に入ればカブトムシを追いかけ、小道でアリを見つけたらじ~っと観察することでしょう。
そしてレオナルドもまた、私たちと同じように自然を観察することが大好きな子どもだったようです。
こうした自然に対する疑問を、レオナルドはひたすら観察し続けていたのではないか、と考えられています。
その観察眼と画力はこの頃から発揮されており、フィレンツェのウ「フィツィ美術館」には、幼少期のレオナルドが描いた風景のデッサンが収蔵されています。
またレオナルドは、幼少期の頃に洞窟を見つけた時のエピソードを、以下のようにメモに残しています。
洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になった
Wikipedia「レオナルド・ダ・ヴィンチ」より引用
この「観察力」と、物事に対する「知的好奇心」、そして好奇心を満たすに足る「行動力」が、後に画家としての巧みな人体表現につながり、
『最後の晩餐』
『ブノワの聖母』
『荒野の聖ヒエロニムス』
といった生き生きとした「人間」を描くことに成功し、現代人さえも魅了する傑作を生み出すきっかけとなったことは、想像に難くありませんね。
レオナルド・ダ・ヴィンチの幼少期について分かっていることは、この記事の内容以外にはほとんどなく、あったとしても、仮説や憶測がほとんどです。
記録に残されていること以外は、すべて後世の彼の活躍から想像されるものでしかありません。
それこそが、彼をミステリアスに仕立てている要因なのかもしれませんね。
次回は、当時のヨーロッパ文化の代表だった大都市・フィレンツェにおいても有名だった「ヴェロッキオ工房」に弟子入りした頃からの、レオナルドの活躍に迫っていきます。
この時期からは、彼の画家としての才能はもちろん、彼が描いた作品も現存しているため、人物像をより具体的に紐解くことができます。
それでは、次回の連載でお会いしましょう!
次の記事を読む>>師匠を超える才能発揮!レオナルド・ダ・ヴィンチの修行時代【連載No.2】