前回の「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼少期」から続き、こちらでは「レオナルド・ダ・ヴィンチの修行時代」の紹介です。
イタリアの大都市・フィレンツェでも指折りの規模だった「ヴェロッキオ工房」に弟子入りしたレオナルドの、
などをご紹介していきます。
生涯をかけて学び続けたレオナルドにとっては、最期の最期まで修行していたという感覚だったかもしれませんが…。
さっそく、当時のレオナルドの様子を見ていきましょう!
婚外子として生まれ、幼少期に実の母親と別れてしまった、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
その後、父セル・ピエロが別の女性と再婚したことで、一家はフィレンツェに移り住むことになりました。
そして、移住先のフィレンツェで、レオナルドの生涯を決定づける運命的な出会いを果たします。
1つが、フィレンツェでも屈指の工房である「ヴェロッキオ工房」へ入ったこと。
もう1つは、その工房の主である「アンドレア・デル・ヴェロッキオ」への弟子入りでした。
アンドレア・デル・ヴェロッキオとは、当時のフィレンツェでも有名な芸術家・彫刻家であり、レオナルドをはじめ多くの有名な芸術家を育てた先生でもありました。
そんなヴェロッキに、父セル・ピエロは、「息子(レオナルド)に芸術家としての才能があるか?」を見極めてもらうため、レオナルドが制作した数点の作品を見せました。
その作品を見たヴェロッキオは、一瞬にしてレオナルドの画家としての才能を見抜き、自身のもとで芸術を学ぶことを強く勧めたといいます。
こうして、レオナルドは芸術家としての最初の一歩を、大きく歩みだしたのです。
ヴェロッキオ工房では、
などなど、実にさまざまな技法を学んでいきました。
フィレンツェでも一二を争う名門工房であったことと、ヴェロッキオ自身も様々な分野で活躍した人物だったからこそ、レオナルドは彼の指導のもとで、多様なスキルを習得していくことができたのです。
そしてもう1つ、他の誰でもなく、ヴェロッキオその人との出会いも、レオナルドにとって非常に幸運でした。
ヴェロッキオは弟子たちに、作品を制作する時、「人体を内側から構築せよ」という教えを欠かさず伝えていたそうです。
これが、後のレオナルドが解剖学に没頭することになったきっかけであり、人間の動きをダイナミックに描く彼ならではの表現につながっています。
「人体を内側から構築せよ」
この教えこそが、レオナルドの類まれなる才能をさらに発揮させるきっかけとなったことは間違いありません。
レオナルドが後に描いた数々の人物画は、静止画なのに、どれも今にも動き出しそうに見え、次にどう動くか想像を掻き立てられます。
『最後の晩餐』
『白貂を抱く貴婦人』
『洗礼者ヨハネ』
このように人物画に動きを付けることに関して、レオナルドは他の画家を圧倒していたのです。
レオナルドが独立する前に、ヴェロッキオと共同で描いた名画が、『キリストの洗礼』です。
現在、分析によって明らかになっている、または推測されているレオナルドが描いた部分は、
などとされています。
特に、絵の一番左の天使は、頭をキリストの方向に大きく傾けており、
という「動き」の表現を感じられ、他の人物より多く盛り込まれていることが分かります。
また、イタリアの画家「ジョルジョ・ヴァザーリ」が、当時の芸術家133人の生涯を綴った著書『美術家列伝』によると、
『キリストの洗礼』のレオナルドの技量があまりにも優れていたため、ヴェロッキオはこれ以降、二度と絵画を描くことはなかった。
と記されてます。
実際には、
という説が一般的とされていますが、師・ヴェロッキオが、弟子のレオナルドの才能に驚嘆したことは間違いないでしょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチが後に数々の傑作を生み出すことができたのは、ヴェロッキオ工房での学びが多分に影響しています。
もし、ヴェロッキオに「人体を内側から構築せよ」と教えられなかったら、かの有名な『モナ・リザ』も描かれることはなかったでしょう。
また、ヴェロッキオ工房では、画家としての技量だけでなく、
といった実に幅広い分野を学ぶことができたことも、レオナルドの好奇心を掻き立て、「万能の人」として名を馳せる大きなきっかけになりました。
次回は、ヴェロッキオ工房から独立し『受胎告知』でデビューを果たした頃の、彼の活躍に迫っていきます。
次の記事を読む>>『受胎告知』で画家デビュー!レオナルド・ダ・ヴィンチの独り立ち【連載No.3】