八甲田山雪中行軍が無謀すぎる

八甲田山は青森県にある山の総称です。八甲田山は成層火山で最も標高が高いのは大岳山の1584メートルです。

とても美しい山々なのですが、明治35年にこの山で遭難事故が起きたことをご存知でしょうか。映画にもなった「八甲田山雪中行軍」です。雪山で遭難というと自然の猛威が原因のようにも思えます。もちもん、それは否定しませんが、八甲田山雪中の記録をよく見て見ると天災や自然災害というよりむしろ「人災」に近い物があるんです。

無謀すぎる八甲田山雪中行軍…ちょっと見てみましょう。

八甲田山雪中行軍から生還した人はわずか11名!

八甲田山雪中行軍では200名を越す人間が遭難するのですが、最終的な生存者はわずか11名でした。そして、生存者も無傷というわけではなく、凍傷を追って足や手を切断するしかなかったそうです。

八甲田山雪中行軍のルートと日程

八甲田山雪中行軍は明治35年の1月20日からで、予定で雪山を歩いて踏破し、きたるロシアとの戦争に備えようというものでした。

八甲田山雪中行軍では二つの師団が別のルートを行軍する予定となっていて、青森歩兵第5連隊は片道20キロ、弘前歩兵第31連隊は片道224キロの行程を予定していました。

参考資料「八甲田山雪中行軍から学ぶ組織の在り方」 – 青森市HP 

歩兵第五聯隊, ed. (1902-07), 遭難始末〔本編〕, 歩兵第五聯隊

そして、弘前第31連隊はマタギなどの知恵を借りて装備を整え、凍傷などの対策もしていました。部隊は38名で情報収集もしっかりと行われていたそうです。そしてもう一方の、青森第5連隊は210名もの大所帯となり、ソリなどを使用する大掛かりなものでした。ですが、凍傷への備えや情報収集は完璧ではなく…むしろ不十分だったと言わざるを得ないものでした。そしてこの青森第5連隊を悲劇が襲うのです。

八甲田山雪中行軍は人災だった?

まず八甲田山雪中行軍の指揮をしていた人物は歩兵大尉の神成文吉という人材でした。ですが、この人物とは別に歩兵少佐の山口も同行したのです。指揮を執るはずの神成大尉より上官にあたる山口が参加することで、部隊の指揮命令系統に乱れが生じたのも、遭難の原因のように思えます。

雪中行軍の初日、まずは天候が荒れていました。装備も不十分でしたし、何より真冬の青森県ですから天候が荒れたら中止するのが賢い選択であることは言うまでもありません。ですが、部隊は引き返すことなく山に入ってしまいます。

悪天候の中、歩みを進めていくわけですが道に迷ったこと、そして途中からソリを捨てて荷物を背負ったことで更に体力を消耗していきます。中には大きな銅釜を背負わされた方もいらっしゃったそうです。雪山では汗をかくことが最も危険で、体力を使って汗をかき、汗で身体が冷やされるとどんどん体温が奪われて低体温症や凍傷になってしまうんです。まさにこの舞台はその状態だったということです。

そんななかで銅釜なんか背負わされたら、ひとたまりもありません。雪山への知識がなかったのでしょう。ろくに休憩をとらず、炊飯も上手くできずに夜を明かします。

そして、翌日彼らはゴルジュに迷い込みとうとう引き返すことも先へ進むことも出来なくなります。遭難したわけです。なんとか脱出をしようと崖を登ったり、沢を抜けたりとするわけですが、この時点でたくさんの死者や脱落者が出てしまいます。

足跡をすぐに消すほどの猛烈な吹雪のなかをまだ歩ける人だけで進んでいくのですが、彼らはすでに遭難していますから正しい方向を把握できていません。吹きさらしの雪山で、持っていた食料はすべて凍ってしまって食べられず…。つまり、ろくに食べず、そしてちゃをと寝ずに真冬の暴風雪のなかをさまよっているわけです。

手足や唇が凍りついて、まだ活きている人もまともな判断力を失っていたそうです。一度、火を起こして暖をとったのですが、あまりの疲労で火の番ができずにその火を消してしまいました。

そしてその後、天候の回復を待って救助隊が結成され、生存者の11名が救助されます。

死者の数は199名…つまりほとんどの人が亡くなるという最悪の結果を招くことになったのです。

下りた河原の名前は「賽の河原」

石倉をはじめとする一行が下りた沢は、「賽の河原」と呼ばれる場所で、この遭難事件の前にも近隣の村人が遭難して凍死した場所だったそう。

救助にはのべ1万人が投入され、横一列にならんで棒で雪を刺しながら捜索するという方法でした。この捜索方法からも、ものすごい量の雪に遺体が埋もれていたことがわかります。ちなみに、最後の行方不明者の遺体が見つかったのは5月末でした。

雪中行軍の装備があまりにもひどすぎた

雪中行軍の装備は

特務曹長(准士官)以上が「毛糸の外套1着」「毛糸の軍帽」「ネル生地の冬軍服」「軍手1双」「長脚型軍靴」「長靴型雪沓」
下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1双」「短脚型軍靴」(引用:Wikipedia)

でした。

早い話が、冬山に対応するような装備ではなかったんです。

当然、防水性もなかったことでしょう。

こんな装備で真冬の雪山に重い荷物を抱えて行進するのは無謀としか言いようがありません。

引用:wikipedia

まとめ

八甲田山雪中行軍は、天候不良だけでなく装備の不足や情報不足、知識不足が招いたものでした。あまりにも無謀な雪中行軍は199名の死者を出す大惨事となりました。

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ライター
Miiko  福岡県在住フリーライター
https://twitter.com/wakaba_2501

Miiko

ライター歴約10年 法学系院卒 得意記事は、歴史・スピリチュアル・法律等々 福岡の隅っこでコーヒー片手に執筆中