人肉食、姥捨て(うばすて)、子殺し、カニバリズム……そんな世にもおぞましい風習が日本にも存在したことは、みなさんご存じですか?
今回は飢饉(ききん)のときに行われた、地方の怖い風習を紹介します。
気候や噴火の影響で作物が獲れなくなり、人々が食料不足におちいることを「飢饉」といいます。「天明の大飢饉」なんかは、教科書で習った人も多いでしょう。
その中でもとくにひどかったのは、青森や岩手といった東北地方の貧しい村々です。彼らは飢えを満たすために、お経から泥まで食べました。
それでも餓死者は絶えず、人肉食や姥捨て山、おじ捨て森、子殺し(子捨て・間引き)といった風習が生み出されたのです。そして、そんな怖い風習からつけられた地名もありました。
青森県や岩手県にある、「わらす河原」や「崩川」、「地獄沢」といった川の名前です。
今回は東北の飢饉の惨状が残る、地方の怖い風習や地名を紹介し、どうしてこんなひどい飢饉が起こってしまったのかを解説します。
東北の村を歩いていると、ときおり奇妙な名前の川を目にします。
たとえば「わらす河原」や「地獄沢」、「崩川」です。
「わらす」とは、東北の方言で「子ども」の意味です。実はこれらの地名は、子殺しの風習からつけられました。
子殺しは、子捨てや間引きともいわれました。恐ろしい話ですが、昔の日本では一般的に行われていた行為です。
飢饉で飢えた人々は、育てられない赤ん坊や子どもを捨てざるをえませんでした。たとえば青森県平賀町の松野地区のある川の崖下は、子どもの捨て場となりました。
切りたった崖で崩れやすく、はい上がることもできないからか、いつしかみな、そこに捨てるようになったといいます。まだ生きているうちに捨てるのですから、赤ん坊は泣き叫び、子どもたちは崖をよじ登ろうとしますが、土もろとも崩れ落ちてしまいます。
それでも赤子たちは母の乳を慕って、はい上がります。幼い指先からは血が流れ、やがて力尽き、泣く声も細々と途切れていきました……
朝になればカラスの大群が襲ってきて目をついばみ、腹を裂いて食ったといいます。
それからその川は、「崩川」と呼ばれるようになりました。崩川では、今でもたまに、赤ん坊のすすり泣く声が風にまじり、聞こえるといいます。
子殺し・子捨ての風習の残る川は、東北のいたるところに残っています。
「わらす河原」や「地獄沢」にも、そんな由来があるのです。
そもそも、なぜこんなひどい飢饉が起こってしまったのでしょうか?
今でこそ米は品種改良され、東北は一大稲作地帯となっていますが、実は米はもともと、東日本の環境には適していない作物でした。米を育てるには田んぼが必要ですから、広大な平地と豊富な水源、さらに温暖な気候が不可欠です。
稲作は中国大陸から渡来した作物です。中国の長江付近は、まさに稲作に適した環境でした。
しかし日本の国土の7割は山岳地帯で、中には川が通っていない地域もあります。そんなところに灌漑(かんがい・水路を作って田畑に必要な水を引くこと)を引いて田を作るのは至難の技です。
しかも米は冷えに弱いので、気温の低い東北地方では冷害に遭い、不作になることも多々ありました。
対して縄文時代から食べられてきた穀物である「稗(ヒエ)」は、その名に「冷えに強い」という由来をもつほど、冷害に強い作物でした。栄養満点で、さらに陸地の畑でも育てることが可能でした。
実は東北では、米よりも稗のほうが育てるのに適していたのです。
しかし政府や幕府が米を年貢として求めたので、彼らは米を作り続けるしかありませんでした。
ちなみに政府が米を求めたのには、ある理由があります。コチラで紹介していますので、ぜひご覧ください。
とくに天明の大飢饉は、凶作に浅間山の噴火が重なって、それはひどい様子だったといいます。
まず人々は山にのぼり、雑草や葛(クズ)の根、わらびの根、野老(トコロ)の根を掘って食べました。それらも取り尽くすと、ワラや木の皮を粉にしてお粥(かゆ)に練りこんだり、干菓子にしました。
牛や鳥はもちろん、移動手段の馬や飼い犬、その他あらゆる動物をさばきました。
青森のある村では紙を煮て食べることを覚え、お寺のお経というお経を食い尽くしたといいます。さらにある領主は、「泥を煮て食え」というお触れを出しました。
飢えて死ぬものは大勢いました。はじめこそは死体は埋められたものの、しだいに道端に放置されるようになります。
そうすると流行り病が起こり、さらに人々は死んでいきました……
高山彦太郎という旅人が東北の村を訪ねたところ、「村には人の気配がまったくなく、草は荒れ放題でどの家も傾いていた。中をのぞくと白骨が散らばっていて、田舎の飢えは江戸で聞いたよりもはるかにひどかった」と、『農喩』という本に書いています。
赤ん坊や子どもが川に捨てられたように、足手まといになる者は一番に捨てられました。
地方の怖い風習としては「姥捨て山」は全国的に有名ですが、東北には「おじ捨て森」という風習もありました。年老いて役に立たなくなった老人はその森に捨てられ、生涯を終えたといいます。
姥捨て山についてはコチラ。
しかしそれでも食料は足りず、ついに、人が人を食うようになります。カニバリズムです。
最初はおもに、死んだ家族を食べました。
家に死者が出ると、近所の者がやってきて、「ウチのジジババが近々死ぬ。そのときには2人の死体をあげるから、おまえの家の死体の片腕や片足を分けてくれないか」ともちかけたようです。つまり、死人の肉の貸し借りです。
人の死体に価値が生まれると、やがて人肉の売買が行われるようになりました。杉田玄白の『後見草』には、人肉を犬の肉として売る売人の話が載っています。
道端の死体にも、人々は群がりました。たかるカラスを追い払い、骨と骨のあいだの肉をむしり取り、骨液をすするさまは、まさしく地獄の餓鬼。
人の肉の味をおぼえた者のなかには、我慢できずに墓を掘り返し、子どもを殺して食べるようになったものもいたといいます。
八戸(はちのへ)藩の記録『天明卯辰梁』には、人肉を求めて人を殺しまわった人肉狩りの女がいて、猟師に撃ち殺された……という話が載っています。
モノがあふれる現代の日本では、飢えて死ぬのは珍しいことですが、昔の田舎の村はどこも貧しく、少し天気が悪くなっただけで多くの人が餓死しました。
そのために、地方では姥捨て山やおじ捨て森、そして人肉食に子殺し、子捨てといった怖い風習が生み出されました。現代人の感性からしたら、とても考えられないことでしょう。
ですがこれは、昔の人が残虐で、人の心を持ちあわせていなかった、というわけでは決してありません。子を思う親の気持ちは、いつの時代も変わりません。
彼らは苦渋の決断のすえに、家族を捨てたのです。そんな彼らの無念を思わせるのが、秋田から津軽にかけてのいたるところで見かける「地蔵堂」です。
お堂の中には、子どもを模した小さな地蔵がいます。村人たちは日ごろからその地蔵に祈り、幼くして死んだ者たちに、無念の愛情をたむけるのです。
地蔵堂からは、よく子どもの声が聞こえ、ときには子どもの姿を見るといいます。
飢饉と無関係な地方の間引き(子殺し)の風習については、コチラの記事で詳しく紹介していますので。ぜひご覧ください。
今回は悲しくも残酷な、東北地方に残る飢饉の惨状と、怖い風習を紹介しました。
しかし飢饉は、日本各地を襲いました。あなたが知らないだけで、普段過ごしていた町の地名や地蔵にも、怖い風習や由来が隠されているのかもしれません。
そのことを知ってしまったら、きっとあなたの日常は、今までと違った恐ろしいものになるでしょう……