三国志で有名な美女と言えば、貂蝉と二喬と呼ばれた「大喬」「小喬」に姉妹が挙げられます。
貂蝉は三国志演義において呂布との話に登場する女性であり、大喬と小喬は呉の将軍である孫策と周瑜の側室として知られています。
大ヒットした映画「レッド・クリフ」の中では、赤壁の戦いの発端になったのは曹操が大喬と小喬を狙っていたというテーマを取り上げられるほど有名な登場人物になっています。
しかし、史実での大喬と小喬が孫策と周瑜の側室になった経緯は意外にも複雑なところがあるのです。
映画やドラマ、マンガなど、三国志を取り上げたメディアでは純愛を描かれることも多い大喬と小喬ですが、史実ではあまり触れられていない人物なのです。
言い伝えには曹操が銅雀台にもその名を刻んだと言われる、絶世の美女、大喬と小喬の悲しい史実について紹介していきます。
大喬と小喬の史実が悲しい物語だと言える最たる原因は、孫策と周瑜がそれぞれ側室にした経緯にあります。
まず、正史である陳寿が書いた「三国志」にはその逸話やエピソードを含めて名前すらも出ないこないのです。
陳寿が三国志を書いた約100年に書かれた三国志にさらに註釈を足した裴松之(はいしょうし)という人物が書いた「三国志」に初めて登場するのが大喬と小喬の姉妹です。
孫策が江東の大部分を平定していった199年、既に敵対関係にあった袁術の配下に劉勲(りゅうくん)という武将がいました。
勢いのあった孫策軍はこの劉勲(りゅうくん)を簡単に討伐してしまうのですが、劉勲の支配地域には地元で名家として知られていた喬公という人物がいたそうです。
この喬公こそが、大喬、小喬の親であり、娘の2人はある意味”戦利品”として孫策軍によって奪われたのです。
※孫策軍は江東への侵攻や対袁術戦において意外にも多くの略奪などを行なっています※
孫策と周瑜の2人は10代から親交があったことが確かなことですが、大喬と小喬の2人は戦争によって支配された地域における戦利品として2人に見初められ側室になったと言われています。
三国志の時代に略奪などが各地で横行していたことは紛れもない事実ですが、美談化された大喬と小喬も例外ではありませんでした。
大喬と小喬の悲劇は単に側室に選ばれたというだけでは終わりません。
江東では大いに讃えられた孫策軍でしたから、むしろ側室に選ばれたことはある意味幸運だったのかも知れません。
しかし、劉勲を倒した翌年の200年には孫策は亡くなってしまいます。
姉であった大喬は僅か1年で未亡人になってしまいます。さらに孫策が亡くなった後の処遇については一切が触れられていません。
一方、周瑜の側室であった小喬についても、そこまで詳しいことは書かれていません。
こういった記録を見る限りでは、近年の映画や小説、マンガなどで取り上げられるような重要な存在ではなく、一側室であった可能性の方が高いとも考えられます。
また、周瑜についても36歳で亡くなっていることから、大喬や小喬がその後どうなったのかは判明していません。
戦国の世の常とは言えど、いわば捕虜の身になった身分から側室にされ、さらに夫に早逝された2人は仮に実在していたとしてもあまり幸せな人生は送れていなかったかもしれません。
現在、中国には小喬の墓だと言われているものが3つも存在しています。
ちなみに、大喬の墓は発見すらされていません。
これらは民間伝承などで語られているものが殆どですが、そもそもの経緯として大喬と小喬が実在したのか?
という部分についても疑問視されていることもあります。
あの貂蝉にもモデルとされた董卓の側室がいたと伝わっているように、姉妹を孫策と周瑜が側室として迎えたのは史実なのかもしれません。
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