天才の代名詞的な偉人「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、実際はどんな人物だったのか?
そんな彼の素顔に、絵画や功績などを通して迫っていく連載も、これで6回目になります。
以前の連載は、以下のリンクからチェックしてみてください。
おすすめは、幼少期(連載1)と修行時代(連載2)です!
今回は「レオナルド・ダ・ヴィンチのミラノ時代」と題して、彼の全盛期とも言えるミラノでのマルチな活躍をご紹介します。
ミラノに移り住む以前のレオナルドは、イタリアの芸術の中心地であり大都市「フィレンツェ」で活躍していました。
フィレンツェ時代にも、『受胎告知』や『ブノアの聖母』といった現代の人々さえも惹きつける絵画を制作したレオナルドですが、当時は今の評判と比べるとパッとせず、彼自身も思うような功績を残すことができませんでした。
そして、フィレンツェからミラノへと活動の場を移したレオナルドは、世界的な名画『最後の晩餐』を描き上げたり、自身の多才ぶりを公私を問わず発揮し、当時の最高の芸術家の1人として名を馳せるようになっていったのです!
その数々の功績や活躍の中でも、今回はレオナルドの多才ぶりに注目し、なぜレオナルドは「万能の人」(ウォーモ・ウニヴェルサーレ)と呼ばれているのか?を解明していきます。
レオナルド・ダ・ヴィンチというと、世界一有名な絵画『モナ・リザ』を描いた「画家」というイメージが真っ先に浮かびますが、実はあらゆる分野で人並み外れた才能を発揮し、現代でも通用するほどの先進的なアイデアをたくさん残しています。
それこそ挙げればキリがありませんが、レオナルドがミラノ時代で特に発揮した才能は、以下の5つです。
これらのうち、当時の権力者に非常に重宝された才能もあれば、アイデアを考案しただけで生きているうちに実現できなかったものもあります。
この5つの才能について、詳しくご紹介していきます。
意外なことに、レオナルド・ダ・ヴィンチは「音楽家」としての才能にも恵まれていました。
それは「画家が片手間で音楽をやっている」程度のレベルではなく、当時のフィレンツェを支配していた領主ロレンツォ・デ・メディチにも気に入られていたほどだったそうです。
初期の伝記によると、レオナルドは、
上記の通り、音楽家としても抜群の才能を持っていたようです。
もし彼が音楽一筋の人生を歩んでいたら、現代まで語り継がれる名曲や、彼が発案した楽器が今も使われていたかもしれません。
ミラノに移り住む際に、レオナルドは職を得るため、ミラノの実質的な権力者であるルドヴィコ・スフォルツァに自己推薦書を送っています。
その内容が、主に軍事技術に関するものでした。
などなど、今では当たり前の技術も当時は未知の発明でしたが、レオナルドは「この武器を使えば戦争に勝てる。私はその武器を作り、国の勝利に貢献できる」と、自らの価値を大々的にアピールしていたのです。
さらにこの自己推薦書には、「平和な時は、絵画や彫刻の制作・橋や水道の建築もできます」とも書かれています。
フィレンツェ時代は主に絵画制作のみの活躍でしたが、ミラノに移り住み、ようやく他の分野でも才能を発揮する機会を得られたのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、建築の分野でも現代に通ずるアイデアを残しています。
当時のヨーロッパではペストが流行し、ミラノも疫病によって人口の3分の1を失いました。
このような感染症の流行を防ごうとしたレオナルドは、「清潔な都市を作ることが重要だ」と考え、
この3層からなる都市計画を考案していました。
今でこそ常識的な都市構造ですが、レオナルドはこの構造を、たった1人で考案していたのです。
さらには、この都市開発にあたる費用まで計算していたと言うのだから驚きです!
幼少期を自然の多い田舎で過ごし、鳥が空を飛ぶ姿を観察し続けていただろうレオナルドにとって、「人間が空を飛ぶ」という夢を叶えたいと思うことは必然でした。
レオナルドは、
「鳥は自然界の法則に従って飛行する機械であり、人間は鳥の飛翔のすべてを再現できる」
と考え、鳥と同じように羽ばたくことで空を飛ぶ機械を考案しました。
ここで彼の解剖学の知識・探究心も活かされ、実際に鳥を解剖してみた結果、人間とは羽ばたく際に使う大胸筋のつくりがまるで異なることを知り、この機械の制作を断念します。
それでも空を飛ぶことを諦めなかったレオナルドは、
といった様々な試行錯誤を繰り返し、自ら高所から飛び降りるといった危険も犯しましたが、いずれも彼が思い描いた結果にはなりませんでした。
ちなみに、ヘリコプターの原理を考案した功績にちなみ、レオナルドの誕生日である4月15日は「ヘリコプターの日」に定められています。
実現こそできませんでしたが、彼のミラノ時代は、自らの夢の実現に挑むことができた時期だったと同時に、空を飛ぶために「数学」「解剖学」「幾何学」「創作力」「発想力」など自身の持ちうるあらゆる才能を最大限に発揮できた時期でもありました。
当時の権力者にとって、結婚式や就任式での催しは、お祝いの目的だけでなく、内外に権力・勢力を誇示する一大イベントでもありました。
そんな国力を象徴するイベントの責任者をも、レオナルド・ダ・ヴィンチは担ったとされています。
などなど、催し1つをとっても、その活躍は実に多岐に渡っていました。
映画でいうところの、監督・脚本・衣装・大道具などのほぼすべてを担当していたようなものですね。彼の弟子を主演させた記録も残っていることから、キャスティングを兼ねていたとも言えます!
絵画のように現物が残る類のものではありませんが、ミラノ時代のレオナルドにとっては、画家と同じか、あるいはそれ以上に重要かつ有意義な活動だったかもしれません。
自身が持つ才能を、公私を問わず遺憾なく発揮したレオナルド・ダ・ヴィンチですが、すべてが順風満帆とはいきませんでした。
次回の連載は、ミラノ時代に描いた最初の問題作『岩窟の聖母』の紹介です。
この絵画、一体どこが問題だったのでしょうか…?