特にV2ミサイルなどの最新兵器の実践配備は当時イギリスにとっては恐怖の対象になっていた。
理由として、V2ミサイルの性能は爆薬量が約1トンの弾頭、飛行速度はマッハ4と言われており、さらに自動制御システムによって誘導されていたため、実質的な防御手段が全くなかったのである。
さらに、このV2ロケットは着弾前に大気圏突入をし、そこからイギリス本土を襲っていた。射程距離は約400キロメートルに及び、現在の大陸間弾道ミサイルの原型になっている。
戦時中の発射されたV2ロケットは生産された6000発の内、約3000発と言われており、如何にこの兵器が有効だったのかを示しているだろう。
しかし、ヒトラーの兵器に対する執着と発想はこれに留まらなかった。
一説によると、現在で言う「UFO」タイプの円盤型飛行機なども開発しようとしていたと言われている。
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画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/80cm%E5%88%97%E8%BB%8A%E7%A0%B2
ナチスドイツは他国の考えが及ばないようないわゆる「超兵器」の開発に余念がなかった。アルベルト・シュペーアやグスタフ・クルップといった建築、軍事開発会社に加えてペーパークリップ作戦で渡米した天才科学者たちによって、当時最新鋭と言われた数々の兵器開発を行なっている。
不思議なことに、開発のキッカケになるのはほとんどが「ヒトラーの発想」であったという。
ヒトラーは政権獲得を目指していた間に一度逮捕、収監されており、この時期に膨大な読書によって常人離れした知能を吸収し補ったことが定説になっている。
しかし、ヒトラー自身が言うには時々「霊的な教え」があり、それをアイデアとして口にすることもあったそうだ。
上に画像は実際のドーラ砲を写真に収めた貴重な1枚である。
ドーラ砲とは、クルップ社によって開発された規格外の化け物兵器であり、SFの世界を連想させるような異様な大きさであった。
砲身の長さは32メートルを超え、重量は1350トン、さらに砲塔の口径は800ミリ(80センチ)となっており、砲操作要員に1400人以上、支援要員は4000人以上が必要だったという。榴弾においては7トンの砲弾が搭載可能であり、その威力は想像に難しくない。
開発は当初1934年から1940年までの6年間を費やし、実際には3基が製造予定であった。しかし、実際に製造されたのは1両目の「グスタフ」と2両目の「ドーラ」の2基に留まった。
ここまでの規模の兵器を開発しながら、戦況の変化や運用の難しさから数々の配備が検討されたものの、本格的な実戦では1942年6月のクリミア半島において「セバストポリ要塞攻撃」に使用された。しかし、その威力は証明され、地下30メートルという深さまでのクレーターを作り、当時のソ連軍を一時的に壊滅に追い込んだ。
ナチス政権下において、ロケットや航空機技術は他の追随を許さなかったが、V2ロケット後に開発されていたのが、通称ムカデ砲と呼ばれる「V3号火薬連結式ロケット砲」であった。
当時、フランスまで領土拡大を成功させていたナチスドイツは、フランスの沿岸からまたしても「対イギリス」を想定してこのロケット砲を開発していた。発案したのはシュタールヴェルケ社のコンダー博士という人物であり、ヒトラーがこの案を採用してフランスのカレー地方にある山間部の傾斜に合計で50門の建設設置を命じたという。
外部にはポンプ開発だと偽装するために高圧ポンプという作戦名によって開発を進めていった。
この怪物兵器は多重の火薬による加速システムを採用しており、両側に設置された火薬庫の連続点火によって、初速で「1,464メートル/毎秒」という驚異的な速度を実現しようとしていた。射程距離は150キロに及び、実際に完全配備がなされていれば、イギリスはこの砲弾の豪雨を受けた可能性も充分にあった。
しかし、開発段階での課題点が解決出来ないまま、1940年には戦況が悪化し結果的には実現しなかった幻の兵器となっている。
ナチスドイツのV2ロケットが当時世界最先端のミサイル技術であったことは前述したが、このV2ミサイルをさらに小型化したC2と呼ばれるミサイルもナチスドイツでは開発されていた。
赤外線による完全な自動誘導システムを搭載しており、性能面では「戦後のアメリカ」における最高レベルのロケット兵器であった「ナイキ・エージャックス」と呼ばれるものよりも、戦時中にすでに超えていたという。このことから、ヴァッサーファルの情報は完全な機密情報として扱われていたという。
しかし、オカルトブームや神秘学に加えて「謎の声」に傾倒していたナチス・ドイツの発想はこれだけに留まらなかったのだ。
[amazonjs asin=”4062028891″ locale=”JP” title=”広島原爆はナチス製だった”]ここからは本題であるナチスドイツによる円盤型戦闘機の開発計画について紹介していこう。
ナチスドイツの航空機技術は数々の天才科学者や、ヒトラーの発想などを含めて戦前~戦時中~終戦に至るまで進化の一途を辿っていた。
この中にはB2ステルス爆撃機の原型になった「ホルテン H IX Ho229」と呼ばれる無尾翼ジェット機や、現在、米軍が使用している「VTOL(垂直離着陸可能な機体)」の原型になった「トリープフリューゲル」という元祖「垂直上昇機」なども実際に開発が進められていた。
しかし、開発が始まった期間が終戦に近かったため、多くの計画は頓挫してしまっている。
その中にあったのが、農民で飛行機モデラーでもあったアルトゥール・ザックが設計モデリングをしたと言われる「レシプロエンジンを使用した円形翼のプロペラ機」である通称「ザックAS-6」というモデルがある。
この飛行機は垂直離着陸を可能にしたレシプロエンジンでの開発を想定され、実際に開発が行われていた。
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF_AS-6
この奇妙な形をした飛行機は横から見ると普通のプロペラ機に見えるが、全体が特殊な円形翼をしている為、少し角度が傾くと、いわゆる「UFO」のような姿になる。そして、離着陸も円形翼によって制御を試みており、推力(進む力)はプロペラ、離着陸などの高度調整を円形翼に搭載したプロペラで調整をしていたと言われている。
開発が始まった経緯は1939年の動力つき飛行機モデルコンテストに、ザックがこの飛行機を持ち込んだところ、当時の空軍大臣であったエルンスト・ウーデットに評価され、ザックの発想は当時最先端であったドイツの各航空機開発企業や軍部のバックアップを得られることになった。
ASシリーズは全部で6機まで制作されたと言われており、初代はモデルになったAS-1、そこからAS-2~AS-5まで合計で4回の試作機を専門の企業や軍部と共に開発していったが、実際には制御関連の問題において技術問題や課題が多数発生し、大型化には成功したものの最終機体であるAS-6も実用化レベルまでには至らなかったのである。
実際には最後のテスト飛行が行われていたのは1944年であり、戦時下においての問題など複雑な事情が絡んだ結果、同年末から翌年1945年の間に米軍の空襲によって機体自体が破壊されてしまっている。
結論から言えばナチスが「UFO」を作ろうとしたのではなく、多くの試作機の中に円盤型の飛行機が存在していたということになる。さらに言えば、この円盤型飛行機には直接ヒトラーが関わったという証拠はなかったとされている。
UFOというと日本人の感覚では宇宙人の乗り物であったり、円形で高速移動する謎の物体であるというイメージが強いが、正式な意味は「未確認飛行物体」であり、円盤型に特定されたり、宇宙人の乗り物を定義するものではない。
ちなみに、日本で最強と言われた「零戦」の開発経緯では当時の同盟国であった日本がドイツに視察に行かせており、高度な飛行機技術を学んだとされている。
UFOという既存の円盤イメージや固定観念には当てはまらないが
「VTOL」や「B2ステルス爆撃機」のような現での最先端戦闘機のモデルになった航空機があったことは紛れもない事実だった。
戦後、各国の士官や研究者は超兵器も含めて「ナチス・ドイツがこれらの研究を終戦以前に完成させていたとしたら、戦争の行方はわからなかった」と言うほど、ナチスの研究者技術・発想は優れていたのである。
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